第13話 雨女、猛進する
レインハート王国に晴れの日が戻ってもう10日以上が経つ。
晴れを願う子供たちのためにティアナが屋敷から出ないのではない。単純に忙しくて外出できなかったのだ。
「ティアナ様、本日はここまでにしましょう」
「まだまだ。こんなんじゃ、社交界でまともに踊れないわ」
今日の分のダンスレッスンは終わったが、家庭教師の制止を振り切り、ステップの確認を始めたティアナの足元には滝のように流れ落ちた汗で水溜りができていた。
ドラウトとの初めての会食後から日常会話をレインハート語に切り替えたティアナは難しい敬語の習得を後回しにして、ドラウト以外の使用人には崩れた話し言葉で接するようになっていた。
「礼儀作法のレッスンに遅れてしまいます」
「もう少しだけ。ここのステップは今日中に直しておきたいの。じゃないと体が忘れちゃう」
ダンスレッスンを終え、大慌てで着替えたティアナが屋敷の廊下を走る。
そんな彼女を静かに見守るのが使用人たちの日常になっていた。ティアナの努力を認めているからこそ、廊下を走るなとは誰も言わなかった。
「遅れてごめんなさいっ!」
「まだ遅刻ではありませんよ。いつもギリギリですけどね」
「すみません」
続いて礼儀作法。その次は婚礼の儀の練習とみっちり予定が組まれている。
お披露目までに少しでも王妃としての教養を身につけさせたい教育係に、必死に食らいつくティアナには外出する余裕なんてなかった。
「ティアナ様、明日はお休みにしましょう」
「どうして!? わたし、もっと頑張れるのに!」
「時には休むことも必要です。いくらなんでも無理をしすぎです」
「そんなこと――」
「正直に申し上げますと、最初は何も期待していませんでした。王宮ではなく、人目につかないこちらのお屋敷で過ごされることに安堵したくらいです」
「……そこまではっきり言われるとへこむわ」
がっくりと肩を落とすティアナ。
「ですが、今はドラウト様に相応しいお方だと認識を改めております」
「ありがとう。でも、絶対にドラウト様に恥をかかせるわけにはいかないから偽物の妃でも、少しでもまともに見えるようになりたいの」
元々、本の虫で知識だけはあった。あとは体力と技術が身につけば、脳内イメージ通りに体を動かすことができる。そう考えていたが現実は厳しかった。
その一方で家庭教師たちは想像していたよりもティアナの物覚えが良いことに感動していた。その上、体に染みこませるために何時間もレッスンに打ち込むことができる精神力の持ち主でもある。
これには度肝を抜かれた者もいた。
「ドラウト様が明日はとある場所にお連れしたいと仰っていました」
「そうなの!? そういうことなら仕方ない、か」
ドラウトの名前を出すと面白いように、しおらしくなるティアナは女性使用人たちにとっての癒やしでもあった。
◇◆◇◆◇◆
夜も暗い自室の机を小さなろうそくで照らし、敬語の練習を遅くまでしていたティアナはそのまま突っ伏して眠ってしまった。
「ティアナ様……ティアナ様! ドラウト様がお待ちです! 起きてください!」
肩を揺すられ、がばっと体を起こしたティアナはボサボサの髪と寝惚け眼でミラジーンを見上げた。
「おはよー、ミラジーン。まだ眠いよぉ」
「ドラウト様がお待ちです。早く、と言いたいところですが、先に湯浴みしましょう」
「……ん? あぁ! そうだった! いいよ、いいよ。着替えて行くよ!」
「いけません。頬にインクをつけたままで陛下と外出されるおつもりですか?」
鏡に映る自分の姿に絶句する。
ケラ大聖堂にいた頃よりも肉付きはいくらかよくなったが、まだ女性的というには遠い。それに頬にはべったりと黒のインクが付着している。
観念したティアナはミラジーンと共に浴場へ移動し、たっぷりの時間を使って準備を整えた。
「すみません、遅くなりました!」
深く腰を折ったティアナからのフローラルな香りに気づいたドラウトは自分が待たされた理由を察して咎めることはなかった。
「どうせ雨に降られるから大丈夫って言ったんですけど。せっかくだからって、香水までつけてくれて。匂いキツくないですか⁉︎ それに服まで新調されちゃって。派手じゃないですか⁉︎」
「構わないよ。ティアナ嬢を待つ時間もまた愛おしい。とても良い香りだ。それに洋服もよく似合っている。見立て通り、暖色系の服もティアナ嬢の雰囲気に合っている」
寒色系の服を好むティアナは、珍しくオレンジ色を基調とした洋服を着ている。隣にいてくれるだけで暖かい気持ちにしてくれる陽だまりのようだった。
「でも、雨が……」
「これを一緒に使いたくてね」
ドラウトが取り出したのは、ティアナが持っているボロ傘よりも一回り大きいサイズの傘だった。
「こんなにおっきな傘、初めて見ました」
「ティアナ嬢の傘を拝借して職人に作らせた。これなら二人で入っても濡れないだろう」
「重くないですか?」
「これくらいなんてことない」
ひょいと片手で傘を持つドラウト。
うわぁ! と胸の前で手を組んだティアナは屈託のない笑顔を向けて、瞳を輝かせた。
「ドラウト様も男の子ですね!」
「うぐっ」
ドラウトの表情は、目を細めてもぼやけてしまってよく見えない。
何度、目を擦ってもそれは同じだ。
ティアナよりも身長の高いドラウトの顔がはっきりと見えないのは今に始まったことではないが、日に日に見えにくくなっているように感じていた。
「今から案内するのはレインハート王国の中で一番大きな滝だった場所だ」
だった、の部分を強調したドラウトに寄り添いながら歩く。
本当は半歩後ろに下がった方が良いのだろうが、そうするとドラウトが歩く速度を故意に落としてしまうからティアナは隣にいる。
一つの傘に収まった二人は枯れ果てた滝壷へと向かって歩き始めた。
ティアナはここ数日間のレッスンの成果について無邪気に語り、ドラウトは丁寧に相槌を打った。
ドラウトにとってはこの何気ない会話が何よりも楽しみだった。
「ここだ。僕が国王でありながら大臣たちに王都を任せてこの地に滞在している理由でもある」
「雨乞いの儀式のためだけかと思っていました」
「キュウサ領はレインハート王国の心臓と言ってもいい。色々と密集している領地なんだ」
足が滑られないようにドラウトに支えられたティアナはすっぽりと空いた巨大な穴を覗き込む。
近づきすぎると吸い込まれてしまいそうな滝壷に息を呑んだ。
次にティアナはしゃがみ込み、不思議そうに唸りながら地面に手を押し当てた。
雨が降っているにもかかわらず、地面がすぐに乾いてしまうことが気がかりだったのだ。
滝だったものがあるのなら、長い年月をかけて水が地形を作った証拠である。それなのに水の循環が一切ない。ティアナが降らせた雨はいったいどこに消えてしまっているのか。
自分の知識と異なる現象に首をひねるしかなかった。
「いくらなんでも水捌けが良すぎます」
そう言われてもドラウトにとっては、これが当たり前のことでティアナの疑問にはピンとこない。
「一度、水を溜めてみたいのですが、何日かかるでしょうか」
「ここを満たすほどの雨を降らせるつもりか⁉︎」
「そうですけど。いけませんか?」
ドラウトは頬をひくつかせながら、純粋に疑問を訴えるティアナを見つめ返す。
とても冗談を言っている雰囲気ではないのは明白だ。ドラウトは小さく首を振り、子供を諭すような声で告げた。
「実は川が耐えられないんだ。大急ぎで補強させているが、ティアナ嬢の聖女の力にはとても敵わない」
はっとさせられた。
良かれと思ってやっていたことが、別の場所で被害を出しているとは想像していなかったのだ。
聖女の力を制御できない自分に苛立ちが募る。これまで抱いたことのない感情に胸の中を引っ掻かれるような気分だった。
「ドラウト様! わたしに魔法制御の指南をしてください!」
「ティアナ嬢には魔法適性がないから制御と言われても――」
「なんでもいいんです! 心構えとかコツとか。きっかけがあれば、滝の上だけに雨を降らせることができるはずなんです」
レインハート王国に来て、様々な人と出会い、過酷なレッスンを受けているティアナに以前のような弱々しさはない。
すっかり身を潜めていた持ち前の明るさと、ひたむきさを取り戻したティアナの姿はドラウトの目には眩しすぎた。
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