第3話 雨女、連れ去られる

 ぽかんとするティアナは思わず、傘を持つ手を離してしまっていた。

 傘の柄が視界の端で落下していくのを見て、とっさに力を込めたが遅かった。


「これが雨避けか。初めて見たな」


 ティアナがさしていた傘を取ったのは謎の美丈夫だ。しかも濡れないように頭上に掲げてくれている。

 ティアナとの身長差があり、いつもよりも高い位置に傘があった。

 一人用の傘だから二人で入るには狭すぎるが、男は自分の肩が濡れることなど気にせず、ティアナだけを傘の中に入れてくれていた。


「風邪をひかせるわけにはいかないのでね」

「それは、わたしのセリフです。どこのどなたか存じませんが、傘に入ってください。ずぶ濡れですよ」


 ティアナの声は震えていた。

 こんなにも近くに男性がいるのは初めてで自然と身構えてしまう。


「聖女様はお優しいのだな。僕のことは気にしなくていい。生まれて初めての雨だ。この凍えるような冷たさを全身で感じていたい」


 ティアナの不安感が煽られると気温がぐっと低下し、体温を奪っていく。


 目を凝らして見ると男性の濡れた服が体にはりつき、薄く肌が透けて見えている。

 艶のある黒髪の毛先から落ちる雫を拭う姿は絵画を切り取ったようだった。


「こ、凍えるようなら危険な状態ではないでしょうか」

「ちょうどいい。寒さでくしゃみをするなんて初体験だ。貴重な経験をありがとう」


 意味が分からないというように小首を傾げるティアナの顔を覗き込んだ男は断りを入れてから指を鳴らした。


「ここはまだシエナ王国との国境付近だろ。僕がここにいると政治的にもよろしくないのでね。転移魔法でレインハート王国に移動する。きみの魔力……いや、精霊力とでも言おうか、ならば耐えられるだろう」


 やっぱり意味が分からないと眉間にしわを寄せる。

 男は不敵に微笑み、聞き慣れない呪文を唱えた。


「……へ?」


 さっきまで木々しかない舗装されていない道だったのに、がらりと景色が変わってしまった。


 レンガ造りの家々が建ち並び、吹く風は生ぬるく、砂も混ざっていて口を開いていられない。

 何よりも照りつける太陽がティアナの白い柔肌を傷つけようとしていた。


「ここはどこですか!?」

「レインハート王国、辺境の地、キュウサ領だ」

「そんな一瞬で――」


 魔法により強制転移させられたティアナは言葉の続きを伝えられず、膝から崩れ落ちた。

 少しずつ体を慣らすことができれば良かったのだが、一瞬にして環境が変わり、適応できなかったティアナの体が悲鳴を上げたのだ。


「いけない! すぐに屋敷に運ぶ。行くぞ」


 行くぞ、と言われても身構えることもできずに気持ち悪い浮遊感に襲われる。

 またしても転移魔法を発動されたことで平衡感覚は乱れ、高温多湿にも耐えられず、ティアナは意識を手放した。



◇◆◇◆◇◆



 はっと目が覚めた。

 飛び起きると結っていた髪がほどけて肩からこぼれ落ちた。


「あつい。寝汗……初めてかも」


 額とうなじを拭いながら手のひらについた汗を見下ろす。

 シエナ王国の王都の気候は完璧に調整されていた。夏は心地よい涼しさで、冬は過ごしやすい暖かさだった。

 だからこそ、ティアナが寝苦しいと感じたのは人生で初の出来事だった。


 感じたことのない暑さに我慢できず羽布団を剥ぐ。目を凝らすと布団には金の刺繍が施されていた。


「ここは……どこかのお部屋?」


 生暖かい風に頬を撫でられ、裸足で寝台から降りて小さな窓に近づく。

 そして、ゆっくりとカーテンを開いた。


「………………どこ?」


 見覚えのない風景が広がり、頭の中がこんがらがって真っ白になった。


「よかった。目が覚めた」


 続きの奥の部屋から入ってきたのは先ほど出会ったばかりの相手だった。


「誘拐まがいのことをしてすまなかった。初めてのことで気が動転してしまって」

「あっ、いえ、その……」


 真っ白だった頭がクリアになり、馬車での移動中に賊に襲われたところを助けられたことを思い出した。


「ありがとうございました!」

「間に合ってよかった。あまりにも遅いので見に行って正解だった」


 はて? と思案顔のティアナ。


「申し遅れた。僕はドラウト。ドラウト・レインハートだ」


 低くて、耳触りのいい声で告げられた名前が頭の中を巡る。


(ドラウト・レインハート……レインハート……レインハート⁉︎)


 あまりの衝撃発言にむせてしまった。慌てた様子のドラウトがナイトテーブルに置かれたコップ一杯の水を差し出してくれた。


「あ、ありがとうございます」

「ゆっくり召し上がれ」


 無遠慮に喉が鳴る。

 男性の前ではしたない、なんてことを考えても体は正直で渇望していた水分の喉越しには抗えなかった。


「いい飲みっぷりだ」

「……すみません」

「なにを恥じることがある。僕としては美味そうに食事をする子の方が好ましい」


 耳の先まで熱くなり、今すぐにでも茹で上がってしまいそうになる。


「あの、どうして王族の方がいらしたのですか? しかもお一人で」

「シエナ王国の聖女様が国を出ると報告を聞きつけ、待っていられずこっそりと迎えに行ったのだ。そしたら魔の手が迫っていたので、これ幸いと駆けつけた」

「それってわたしに言ってよろしいのでしょうか」

「おっと失言だった。忘れてくれ」


 はぁ……とポカンとするティアナは、はたと気づく。


「え? どうして、わたしが王国を出立したとご存知なのですか⁉︎」

「忍び込ませているスパイからの報告だが? あ、これを言わない方がいいな。忘れてくれるとありがたい」

「そんな!?」

「今時どこの国だって諜報活動には余念がないのさ。特にシエナ王国にはね」

「わたしたちがいるからですか?」

「ご名答。あの国にしか現れない聖女様だ。シエナが手放すのなら誰だって欲しがる」


 爽やかな笑顔を振り撒いているが、言っていることはとんでもない。

 異国の人と初めて触れ合うティアナはただただ困惑し、眉根を寄せるのだった。

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