筒木美鳥の日常②
放課後。角倉 勲は夕日を横顔に浴びながら帰路についていた。
茜色の空の下、まだ歴史が浅く真新しい家屋が並ぶベッドタウンは、穏やかな静寂に包まれている。
(今日は、途中で呼び出されなくてよかった)
特級ウォーカーである勲は仕事が多い。ダンジョンブレイクやダンジョン内における異変など、突発的かつ緊急性の高い案件に対応しなければならないため、学生でありながらあまり登校できず、よく早退しなければならないのが現状だった。補習などは受けてはいるが、委員会や行事にほとんど参加できていないのは心苦しい。
(そういえば……)
ふと思い出したのは、今朝の出来事だった。同級生の大神 来人が度々自分に絡んでくる理由を、勲はまだ理解できていない。
それが学校行事等への不参加などであるならば、謝るしかないのだが。
(インキャ、とはどういう意味だったか。後で調べてみるか)
一方で、隣の席の筒木 美鳥が自分の味方をしてくれたのは嬉しかった。仲が良いどころか、あまり話したこともない相手のために行動ができるのは、美鳥の人の良さ故だろう。彼女のような人々の日常を守るためにも、勲は日夜戦っているのだ。
と、その時。ポケットの中で震えるイクスフォン。
JDSが開発した特別製で、各種機能もさることながら、とても頑丈に作られている。トラックに轢かれても、画面に傷さえつかないくらいだ。
それでも、勲の握力なら紙細工のように潰せてしまうので、慎重にポケットの中から取り出す。
「俺だ。うん、明日の予定はわかって……追加? 新発見ダンジョンの……ああ、もちろん引き受ける」
明日から三日間、勲はほとんどの時間を危険なダンジョンで過ごすことが決まった。そしてそれはいつものことであり、大勢の人々が安全に日常を過ごすために勲がやると決めたことのほんの一部でしかなかった。
♯♯♯
最寄りの駅から十五分ほど歩いた所に、美鳥が暮らす五階建てのマンションがある。築十年でところどころ痛みも目立つ物件だが、美鳥にとっては生まれ育った我が家である。
「たっだいまー」
扉を開けて玄関に入ると、すぐにぱたぱたと軽い足音が近付いてくる。
「お姉ちゃん! おかえりなさい!」
現れたのは、小学二年生の少女。その名も
お気に入りの黄色いワンピースを着た美羽は、弾丸の如く真っ直ぐに駆け寄ってきた。
「おっと」
美羽を受け止め、そのままぎゅっと抱きしめる。柔らかな温もりと石鹸の清潔な香りが、疲れた体に心地良い。
「ただいま、美羽。はあ~癒される~」
「えへへ……わたし、良い子にしてたよ! パパのおてつだいした!」
「よーしよしよし偉いぞー。ほーらご褒美のチュー!」
「きゃー!」
そんな風に二人でじゃれ合いながら廊下を進み、ダイニングに入る。漂ってくるのは、カレーの香りだ。
美鳥が幼い頃からあるテーブルと、それを囲む四脚の椅子。傍には、台の上に乗ったテレビ。
「やあ。お帰り、美鳥」
と、キッチンから顔を出したのは、眼鏡をかけた壮年の男性。美鳥たちの父である、筒木 茂だ。緑のエプロンを着て、おたまで鍋の中身をかき混ぜている。
レパートリー豊富とは言いがたい父の手料理は、カレーやシチューなどの煮込みが多い。といって美鳥もほぼラーメンしか作らないので、その辺りになんとなく親子の血を感じていた。
「お父さん、ただいま。今日はカレー?」
「ああ。母さんももうすぐ仕事から帰ってくるから、一緒に食べよう」
茂が、柔和な笑みと共に鍋の火を止める。美鳥は「うん」と頷き、とりあえず他の用事を済ませることにした。
洗面所で手洗いうがいをし、自分の(美羽と共用だが)部屋に鞄を置いて私服に着替える。それから夕食の準備を手伝っていると、玄関が開く音がした。
「ただいま~。みんな、待たせてごめんねぇ」
と、のんびりした調子でダイニングに現れたのは、美鳥たちの母である筒木 風香だ。ゆるくウェーブのかかった栗色の髪に、垂れ気味の大きな目。
知り合いからは、母の特徴を姉妹で分けあったんだな、と言われている。見た目にはおっとりとした印象を受けるが、パートで家庭を支えるしっかり者の母であった。
「ママ、おかえりなさい!」
真っ先に飛び付いたのは美羽だ。もう高校生の美鳥はさすがに妹に続きはしなかったが、代わりに笑いかける。
「おかえり、母さん。お疲れさま」
そうして、家族四人で食卓を囲む夕食が始まった。
繰り広げられるのは、なんてことのない日常風景だ。美鳥が学校でのあれこれを話すと、茂は穏やかに笑い、風香もそれに相槌を打つ。
そして、美羽が今日あったことを身振り手振りを交えて一生懸命に話し、その話をみんなで聞く。筒木家の一家団欒だ。
そんな中、風香が思い出したかのように口を開く。
「あ、そうそう。来月、他のパートさんが一人辞めちゃうから、穴埋めで私のシフト増やせそうなのよ」
「増やして良い?」と風香が聞くと、水の入ったコップに口を付けていた茂の顔に影が差す。
「……ごめん。僕がリストラされなかったら……」
茂は、そっとコップをテーブルに置いた。カラン、という氷の音が妙に大きく聞こえた。
そう。ほんの一ヵ月前、彼は努めていた会社を退職させられたのだ。会社自体の業績が大きく下がり、人員を整理せざるを得なくなったのだという。
以来、茂は新たな就職先を探しているのだが、成果は芳しくないのが現状だった。
「もう、何暗くなってるのよ~。あなたは今までがんばってくれたんだから、こういう時くらい奥さんに任せなさい!」
風香は明るい調子で茂の背中を叩いた。その様子を見て、ティッシュで妹の口元を拭っていた美鳥は、ぽつりとこぼす。
「……やっぱ私も、バイト始めた方が良いかな」
高校生。大人への階段を上りつつある年齢。
今の美鳥は、アルバイトで家計を助けることができるのだ。
「もう、美鳥まで……子供がそんなこと気にしなくていいのよ!」
それも、風香は笑顔で受け流す。
「それにほら、あなたはDウォーカーの免許取ったじゃない。そっちを頑張りなさい」
妻の言葉に、茂も頷く。
「僕もダンジョン関係に就きたかったけど、昔は今ほど緩くなかったからなあ……危ない事もあるだろうし、怪我とか心配だけど、応援してるよ」
それから夕食も終わり、入浴なども済ませて、深夜。美鳥は寝間着姿でノートパソコンと向き合っていた。
「―――って、言ってもなあ」
パソコンの画面のぼんやりした光に、美鳥は目を細めた。見ているのは、大規模動画配信サイト・ワンダーキャスト。
国内のみならず、世界中の耳目が集まるそのサイト内のマイページに、忌まわしくも厳然たる事実が映し出されている。
『ツバサちゃんねる』・チャンネル登録者数、二〇三人。
登録者数は人気の指標。二〇三人は、残念ながら決して多いとは言えない。美鳥は深く溜息をついた。
有名Dウォーカーに憧れ免許を取り、ドローンを手に入れたことで飛び込んだこの世界。動画配信者としての美鳥……ツバサの位置は、ピラミッドの最下層である。
「そりゃそうだよね。実質、ラーメン食べてるだけだし」
小学生の頃から使っている学習机の上で、美鳥は頬杖をつく。
ダンジョンに関連する動画は、ワンダーキャスト内でも高い人気を誇っている。JDSが配信を許可して以降、未知の世界の光景は無数の視聴者を虜にしてきた。
そして世の常として、二匹目三匹目のドジョウ狙いが現れるわけだ。すべてのウォーカーが続いたわけではないが、それでも無数のダンジョン配信者が生まれては消えていった。
結果、未だ人気の高いジャンルではあるものの、数としては飽和していて、ちょっとダンジョンの入り口を見せる程度ではもう見向きもされない。
つまり……安全とされているダンジョンの、一般人のツアー客でも入れる領域でラーメンを作ってるだけの動画など話にもならないのだ。
それでも、多少なりともリスナーがついているのは、ひとえに美鳥が年頃の娘だからだろう。その上で自分なりに工夫を重ね、数字を伸ばしてきたつもりだった。しかし、動画の再生数は三桁を越えられれば良い方で、収益化など夢のまた夢だ。
(今のままじゃ、これが限界なのかな)
椅子の背もたれに体重を預け、美鳥は頭を掻く。
配信について、家族に明かしてはいない。ウォーカーのことを応援してくれるのは、純粋に親心というやつだろう。貢献を求めているのではなく。
「私だって、わかってるんだから。今が大変だって……」
母が働きに出ているとはいえ、それで四人分の生活を支えるのは簡単ではない。学費だって安くはないだろう。
母はそういった苦労を子供たちに見せようとはせず、父も精一杯努力している。そんな中で、美鳥がただやりたいことをしているだけというのは、何とも心苦しかった。
せめて、ダンジョン配信を何らかの利益を生む物にしなくては。
(うーん、リスナーを増やすには……ちょっと脱いでみる?)
ほとんど水着のような衣装でラーメンを啜る自分を想像し、美鳥はぶんぶんと首を振った。そういう方面に行く配信者の末路は、やり過ぎによるアカウント凍結だ。
それに、そのような小細工で美鳥が求める数字を得られるとも思えない。必要なのは、根本的な部分を変えることだろう。
「ダンジョンの危険域に、入ってみる?」
そう口にしてから、美鳥は背中に氷柱を突っ込まれたかのように身震いした。
普段通っている《神樹の森》にも、危険域は存在する。四級のウォーカーなどは、接近を推奨されない場所が。
ウォーカーとしての仕事で稼いでいる人々がそこに向かっているのを、美鳥は配信の傍ら見かけていた。その中の何人かが重傷を負ったり……時には帰ってこれなかったことがあるという、噂も聞いている。
美鳥はこれまで、そこに近付こうと考えたことはなかった。危険域に潜む恐ろしいクリーチャーと戦う力も理由も無いからだ。
安全な場所で、時々ハイズリソウなどを潰しつつ、呑気に配信をしていければそれで良かったのだ―――今までは。
(……これから、美羽が大きくなったらもっとお金もかかるだろうし。あの子に苦労なんてさせたくない)
美鳥は溜息をついた。自分が行こうとしている道に、心臓が激しく脈打つのがわかる。
わしわしと髪を搔き乱し、それから、ワンダーキャスト内のとある動画を再生した。
『画面の前の庶民の方々、ご機嫌よう。この天ヶ原 神那が、今回も未知なる世界をお見せしますわ』
その声は、決して大きくはない。しかし力強く凛としていて、心地よく耳に残る。
映像の中で、何処かのダンジョンゲートの前に立つ美女は、いわゆる巫女のような姿をしていた。豊か肉体を包む白衣に緋袴、そして腕と足を固める漆黒の鎧。
うっとりする程に艶やかな黒髪は腰まで届く長さまで伸ばしており、前髪は細い眉の上で切り揃えられている。
切れ長の目、その中で輝く金色の瞳は、そこに映るためなら命を投げ出す者も少なからず存在するだろう。
そして、彼女の象徴とも言える―――身の丈ほどもある七支刀・タケミカヅチ。持つ者に雷神の如き力を与える、ダンジョンで発見された武器の一つだ。
日本を代表する名家の生まれにして特級ウォーカー、天ヶ原 神那。ワンダーキャストにおけるチャンネル登録者数は、なんと二千万人。
国内のみならず世界中にその名を轟かせる有名人であり、そして美鳥にとっては憧れの人だ。
以前に観た、神那がダンジョン内でクリーチャーと戦う動画こそ、美鳥がDウォーカーの免許を取得するきっかけだったのだから。
剣を手に単身巨大な怪物と退治するその姿は、今も目に焼き付いている。
「あ~……やっぱカッコいいなあ、神那様……」
美鳥はうっとりと溜息をつく。呼び捨ては論外、『さん』では到底敬意が足りず、『様』を付けてもその名を口にすることすら畏れ多い。
あんな風になりたいと胸を踊らせ、資格取得のための参考書を買いに行ったあの日が、もう何十年も前のことのように思える。
美鳥は配信でラーメンを啜りつつも、内心では焦れていた。これをただ続けていても、一生神那の足元にすら辿り着けはしないと。
しかし、結局は様々な言い訳を自分にして、憧れに近づくために乗り越えなければならない一線の前で足踏みを続けてきたのだ。
今までは。
「くしゅんっ」
後ろで、美羽がくしゃみをする。
美鳥は瞼を閉じた。大きく息を吸い、大きく吐く。
それから、三十秒程置いて、再び目を開ける。
「――――よし」
美鳥は、一線を越える決心をした。それが彼女の人生を大きく変えることになるとは、今は誰も知る由もなかったのである。
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