病室に入ると、ベッドに腰掛ける唯花が視界に入る。目元が少し、赤く腫れていた。


「俺のこと、分かる?」


 恐る恐る尋ねると、案の定「分からない」と返される。分かってはいたものの、実際に言われると少し胸が痛んだ。


「そっか……俺は湊星。これ良かったら」


 そう言って俺はスケッチブックを手渡す。唯花はゆっくりと手を伸ばし、それを受け取った。


「なにか記憶が戻るヒントになれば良いなと思って」


「ありがとう」


 唯花が早速スケッチブックを開くと、そこには綺麗な青色の花と唯花の似顔絵が描かれていた。


 彼女は一瞬、その花に見入ったままじっとしていた。そして、感心したように微笑むと、「やっぱり上手だね」と感嘆の声を漏らす。


 それは、唯花へのプレゼントとして二人で買ったスケッチブックに藍斗が描いたものだった。


「あぁ、それ藍斗が描いたんだっけ……」


 相変わらず、なんでもできる奴だな。なんて昔のことを思い出しながら、俺は静かにそう呟く。


 ──────なんで分かったんだ?


 明らかに不自然な唯花の反応。ほんの少しだけ疑っていたことが証明されるような、そんな感覚がした。


「……なぁ」


「何?」


「唯花って彼氏のこと覚えてる?」


 そう俺が尋ねると、唯花は「彼氏?」と言って首を傾げる。


「そう、彼氏」


「……分からない」


 そう答える唯花の目には明らかに焦りが見えていた。


「そっかぁ……俺のことなんだけど」


「え?」


「俺、唯花と付き合ってたんだけど……覚えてないよな」


 俺の唐突な発言に、唯花は「え? どういうこと?」と言って目をぱちぱちとさせた。


 あぁ、な。


「それ、いつまで続けんの?」


「なんのこと?」


「記憶、もう戻ってるだろ」


 とんとん、と頭を指差しながら俺がそう言うと、唯花は「なんだ、ばれてたんだ」と肩を落とす。


「当たり前だろ」


 俺がそう言い返すと唯花は「残念」と悪戯げに笑った。


「ったく……冗談でもそんなこと言うなよ。お前の彼氏は藍斗だろ?」


「あはは、そうだね。バレたら怒られちゃうなぁ」


 そう言って笑う唯花の笑顔に曇りはない。やっぱりあの事はまだバレていないのだろうか。あの約束は、あの約束だけは、必ず守らなくてはならない、藍斗のなのだから。


 俺が少し考え込んでいると、唯花は思い出したように顔を上げ、


「そう言えばさっき、藍斗が来たんだよね」


 と、言った。


「……は?」


 俺は、唯花が何を言っているのかが全く理解できなかった。


だって、藍斗はもう──────



「一生のお願い!」


……ねぇ」


 自分が死んだ時、海外に行ったことにしてほしい。


 それはいつかの学校帰り、唐突に言われた事だった。


「なぁ、湊星。人は死ぬと思う?」


 帰り道の空は、もう日が落ちかけていて。長袖が増え始めた街並みに、夕日が鮮やかに反射していた。


「人に忘れられた時、だろ?」


 俺は帰路を辿りながら、どこかで見た覚えのあるセリフを返す。


 すると藍斗は突然ぴたりと歩みを止め、


「そう。僕はまだ死にたくない」


 と、真っ直ぐな目でそう俺に言った。


 それは、というものを全く感じさせない、力強く生き生きとした声だった。


「僕はみんなの、いや。唯花の中で永遠に生き続けたいんだ。僕が死んだと知らなければ、唯花は僕のことを忘れないだろうし、俺は永遠に生き続けられる」


「ははっ。相変わらず、重いなぁ」


「褒めてくれてどうもありがとう」


「褒めてねぇよ」


 唯花の前ではあんなに澄ました顔をしているくせに、2人になると藍斗はいつもこうだ。


「ま、一応覚えとくよ」


 どうせ藍斗のことだから、いつもの悪ノリだろう。


 そう思っていた。いや、そう思うことにしたんだ。

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