18 『彼女』
深い沼のような部分がある。私はそれに気付いていたけど、ずっと見ないように生きてきた。私の心を構成している一部に歪みがあると認識していたのに、触れないよう目を合わせないよう彼女を起こさないよう慎重に匿っていた。
彼女の意識が目覚めれば平和な時間は終わりを迎えると、何となく分かっていたからだ。
何年も前の夢を見た。明るい日差しの中、穏やかな時間だった。
「――――」
同じ年頃の少年が隣にいる。私に話し掛けてくるけど、声が遠くて聞き取れない。私へ笑い掛けてくれたけど、顔を思い出せない。
気が付いたら私は独りだった。薄暗い通りを泣きながら歩いていた。
忘れちゃいけなかったのに。大切なものを失った。きっともう戻らない。
『違うよ』
声が聞こえた。目を見開く。
「誰?」
誰何し辺りを見回す。夜の色が濃くなった緩やかな坂道に歩いているのは、私一人だけだった。
「おかしいな。またあの夢だ」
涙を拭いながら身を起こした。強い喪失感と後悔の記憶が胸を苦しくさせる。
今なら分かる。これは紛れもなく私の経験した記憶だと。だけど多分、己花さんのような別の『私』のものだ。
小さい頃から薄ら存在を感じていた。私の幼少期から小学生終わり頃までの記憶は斑で、大半は彼女が主導していたのだと思っている。
中学生の頃、己花さんが私の表に出て来てくれたから……推測は確信に近付いた。彼女は己花さんじゃない。言動や振る舞いや雰囲気がまるで違う。
彼女のイメージを例えるなら……悲しみの沼に浸かっていて、嬉しい出来事があっても「私はここから出ちゃいけないの」と明るい方へ進むのをためらっている嫌いがありそうな……そんな人物。
分かっているのはそのくらい。
恐れていた。彼女が私の『表』に出てきたとして。彼女は己花さんと違う。コミュニケーションを取れない可能性もある。その場合、彼女の『表』での行動を把握できない。困る。
もう私は、以前の私とは違う。
己花さんが現れる前の気弱でいじめられっこな私じゃない……筈。大好きな友達や大切な人もできた。居場所がある。
壊されるのを恐れていた。
彼女は暗い。酷く自分を恨んでいる。
彼女の思い出にいた少年がただ一人、彼女の光だったのに。夢の中で彼女が何度も焦がれるから、私も憧れてしまった。
彼は今、どこで何をしているのだろう。
「会わせてあげたいな」
呟いた。だからと言って、どうする事もできないだろう。どこにいるかも誰なのかも知らないし。会えたとして私には蒼君が、己花さんには銀河君という想い人がいる。これ以上ややこしくなるのも厄介だ。
でもそれは私の都合だという事も承知している。
彼女とじっくり話せたらな……と考えるけど彼女が主体となった後いつ『私』に戻れるかも分からないし。万が一その間に私の居場所がなくなってしまったらと想像すると、このまま眠っていてもらった方が安全なのではという思考に行き着く。
何となく理解していた。彼女は『私』の一部なのだと。きっと己花さんも私も『彼女』の一部であると。
四畳半の和室に置かれたベッドから身を起こした。学校に行く為の身支度を始める。制服に袖を通し鏡台の椅子に座った。
昨日の夜、正式に蒼君とお付き合いする事になった。事後だけど己花さんに確認する。話し掛けた。
『己花さん、私……蒼君と付き合うよ』
ため息らしき気配が聞こえる。
『しっかりと聞いていましたわ。おめでとう』
『あ、ありがとう……』
己花さん……祝福してくれるなんて。目が涙で潤みそうになる。
『やっぱりフェアじゃないから申し上げますわ』
己花さんが強めの語気で伝えてくる。鏡台の前で髪を解かしつつ「何だろう?」と耳を傾けた。一拍の間の後、報告を聞いた。
『わたくし……銀河様の彼女にしていただきましたの』
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