ep010.『最凶の憑神』
――これは……無理かな……。
少女の勘はよく当たる――いや、厳密に言えば当たったというべきだろうか。
何度も死地をくぐり抜けた野生動物のような勘は、どうしたらいいか、退際はいつかといったものが何となくわかり、その勘に従って何度も死神を出し抜いてきた。
それが最近は"ヤバい何かに狙われている"といった漠然とした感覚ばかりで、以前ほど頼りにならなくなってしまった。
それでも何かしらは可能性を示してくれていたのだが、今回はついにダメになってしまったらしい。
その"何か"に対し、煩いくらいに警笛を鳴らし、得体のしれない恐怖が体を満たす。
鳴り響く警笛が思考を鈍らせ、膨らむ恐怖が体をこわばらせる。
役に立たないのなら足を引っ張らないでほしい。それが無理ならせめて静かにしていてほしい。
いや、ダメになったのは少女自身の方なのかもしれない。
廃ビルの床が温かく感じる。
春先とはいえ今は夜だ。何も施されていないむき出しのコンクリートは普通、冷たいと感じるはずだった。
それもそのはずだ。普通というにはそもそも血を流しすぎた。
いたるところにできた切り傷は深く、骨に達しているものも少なくない。一歩も動けないどころか、廃ビルの柱に背を預けなければ上体を起こすことすらままならない。
下手をしなくても死が約束されている状況は既に手に余る。だというのに、
――ガァァァァァン!!!
爆音とともに瓦礫が吹き飛び、凶相を浮かべた男が歩いてくる。
数メートル手前で立ち止まった男の目からは、ここで確実に少女の息の根を止めるという強い執着が滲み出ている。
配下ですら男の放つ怒気に当てられ近寄れないほどだ。いや、配下だからこそだろうか。
相手から見れば少女は苦楽を共にした仲間を大勢殺した報復すべき敵の筈だ。
そんな敵を前にしても、躊躇ってしまうほどの怒気を放つ男たちのリーダー。身内だからこそわかるのだろう。怒れるリーダーこそが災害だと。
彼らは味方の敵討ちよりも、目の前の災害から身を守ることを選んだ。
状態は満身創痍。
状況は絶体絶命。
頼りの勘は主人より先に生きることを投げ出し子供のように泣き叫ぶ。
それでも少女は諦めない。いや、諦められない。諦められるはずがない。
――満身創痍。
それがどうした。痛みに泣いている暇があれば状況を打破できる可能性を探せ。
――絶体絶命。
そんなものいくらでも乗り越えてきた。壁の終わりが見えないくらいで挫けない。
――寄る辺がない。
いつも一人だった。
誰も助けてはくれない。
頼りの勘に、時の運に見限られたからなんだ。なんてことはない、あの夜に戻るだけ。
そう。身体を、命を、未来を――すべてを捧げたあの夜に誓った。
『何をしてでもこの"願い"を叶える』と。
この程度で諦められるほどの"願い"なら、こんなゲームに参加などしていない。
冷たくなっていく身体に反し、意志はより強く燃え上がる。
それでも、心持ち一つで飛び越えられるほど目の前の壁は低くはない。
そんなことで何とかなるのはアニメや漫画だけの話だ。
颯爽とイケメンが助けてくれることもなければ、背中を預けられる仲間が都合よく間に合うこともない。現実は、甘くない。
だから賭けることにする。動かない体、働かない頭でできる最後の悪あがきに。
それは力の代償である呪いを暴走させ、この身を委ねること。
力を持つ者たちにとって、呪いを暴走させることは自爆行為に等しい。
彼女の自爆は正しく悪あがきだ。
一対一では万が一にも勝利には繋がらない。というか、ほとんどの場合で本人も含め、敵味方関係なく嫌な思いをするだけだ。まぁ、相手が男なら役得だと思う者もいるかもしれないが、その程度の結果しか起こせない。
ただ、相手が勘違いして、なおかつ致命的な呪いがある憑神なら億が一にチャンスがある。
今はその、極小の可能性に賭ける以外に選択肢はない。
結果、少女は賭けに負けた。
考えるまでもなく当たり前だ。
男は少女を調べ上げ、時間をかけて作戦を練り、必勝の罠を準備していた。
唯一の不確定要素である呪いの暴走について何の対策もしていないわけがない。
男たちが一斉に銃を構える。
その気になれば、音速を超え空中すら足場にできる彼女に銃など通用しない。しかし、それも普段の少女であればの話だ。
だからこそ彼らは少女を屋内に誘い込み、時間をかけて弱らせたのだから。
男が手を上げ、
――ごめんね。お姉ちゃん、たった一つの"願い"も叶えられそうにないや。
振り下ろす。
けたたましい暴力の雨が少女を蹂躙する――そう思われた。
「 ――!!」
突如として、視界が蒼炎に埋め尽くされた。
熱さから少しでも身を守ろうと、少女は反射的に顔を逸らし目を閉じる。
その行為にどれだけの意味があるのかはわからない。いや、きっと意味などないだろう。
――どうせ死ぬなら、痛いのはやだな。
想像を絶するであろう灼熱の嵐に耐えるため、心を固く閉ざす。
でも、どれだけ待っても灼熱が身を焼く痛みどころか、肌を炙る熱すら感じない。
瞼越しに炎の揺らめきを感じる。
あの蒼炎は夢じゃない。
恐る恐る目を開けると、そこには地獄が広がっていた。
廃ビルの地下を埋め尽くす蒼い炎。
その火柱は大人の背丈よりなお高く燃え上がっている。
十人以上いたルバンシュの姿は
僅かに灰が舞っているのを見るに、信じられないことだがこの炎が一瞬で彼らを灰燼に帰したのだろう。その灰もまた蒼炎に吞まれ消えていく。
男は恩恵で防いだとして、ではなぜ、私は灰になっていないのだろうか。
その答えは、いつの間にか男と私の間に立っている者のみが知っているのだろう。
黒ずくめの陰陽装束を纏った超常の存在。一目見ただけで格が違うと思い知らされる。
襟から飛び出た白いフードが唯一、目の前の存在がバケモノではないと教えてくれた気がした。
男が何か叫んでる。
でも、頭に入ってこない。
ゆらゆらと尻尾が二本揺れている。
その狐のような尻尾に何か引っかかるのだが、霧がかかったように思い出せない。
目の前の異様な気配を放つ存在から目を離せない。
狐が腕を突き出す。たったそれだけなのに、その手を向けられたものは確実に死ぬ。そう直感する。
男が走り出す。
狐は何の危機感も感じていないようだった。
決死の様相で走る目の前の男に対し、その閉じる手はあまりにも緩慢としていた。
この速さなら男の拳が狐に届くのではないか?
そう思ったが、その時が訪れることはなかった。
男の疾走は、何かに掴まれたかのようにピタリと止まってしまったから。
狐が一気に手を閉じる。
――ペキッ!、バキッ!、バキッ!、ブシュッ!プシュ……。
あっけない最期だった。
万全を期しても勝てるかわからない相手。
そんな勝ち目の見えなかった相手が、強く狡猾な男が、無敵と呼ばれた憑神が、潰れた肉塊となり、その肉塊も蒼炎に呑まれ、他と同じように灰となり、消えていった。
悪夢のような光景に悲鳴を上げそうになるが、すぐに体が叫ぶことを忘れる。
悪夢を引き起こした惨劇の主の首がゆっくりとこちらを振り返ったから。
それは真っ黒な狐だった。
その直後、霧が晴れたように思い出す。このゲームに伝わる都市伝説。
それを前にして何人も生きて帰れはしない。出遭ってはいけない憑神の話――最凶の憑神の話を。
黒い狐面。それを見て最近勘が頼りにならなくなった理由にようやく納得のいく答えを見つけた。
いや、正確には頼りにならなくなったわけじゃなかった。勘はずっと
今日だけやけに煩かった理由も、いつもは近くに来る前に逃げることができていたコレが、すぐそこまで来てしまっていることを知らせていたのだろう。
出遭った今ならわかる。コレに遭わないことが何よりも優先すべきことだったと。
万全であったとしても、どんな策を弄しても、何を使っても、誰に頼ったとしても、きっとコレはどうにもできない。
諦念に打ちひしがれている少女をよそに黒い狐が告げる。
「お前の願い、俺が叶えてやる」
伝えられた言葉の真意を彼女が理解する前に先んじて判断を下した"勘"が、主の意など置き去りにして緊張の糸を断ち切る。
そうなるのも仕方ない。
そもそも少女はすでに限界を超えていた。
今まで必死に抵抗していた呪いが頭を埋め尽くす。限界を超えて押さえつけられていた呪いが、待ち焦がれた解放を喝采し、飢えを満たそうと暴れ回る。
すでにほとんどない意識の中で少女は思う。
白い狐は幸福をもたらしてくれるという。
それなら、この黒い狐は――私に何をもたらすのだろうか。
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