ep005.『予期せぬ遭遇』



 「やめろっ……!」


 黒装束から伸びる不健康そうな青白い指。刃のように磨かれた鋭い爪が生えたその五指が少女の首に伸びていく。


 右から伸びるその手を、左から伸びた同じような腕が止める。

 違いがあるとすれば、左の手の爪は深く切り揃えられ清潔感があるというくらいか。


 ――ドサッ……。


 玄関の扉に倒れこむようにして座る狐面をつけた少年。


 「はぁ、はぁ……。とりあえず、無事……かは怪しいが、『渡る』ことはできたか」


 玄関にある未開封の段ボール。

 その先のリビングに見える新品の家具や家電。

 引っ越し真っ最中といった有り様一般的な1LDKだ。

 

 少し特殊なのは、どれだけ大きな音を立ても、走り回っても、壁を叩いても、外には一切音が漏れないということだろう。 


 「結界も偽装も非の打ち所がない完璧な隠形だな」


 一瞬、妹の部屋に無断で入室していることを忘れてしまうほどの完成度。

 同じ陰陽師として勉強がてら部屋を見渡した際、未開封の段ボールの中身が見えてしまい再び罪悪感が募るがもはや今更だ。余計なことは考えないようにする。


 それより結界の話だ。これほどの結界なら専門の陰陽師が十人張りついていたとしても維持するのは難しいだろう。

 まぁ、それだけの陰陽師が動けば界隈では大騒ぎになるので隠形もクソもないのだが。


 「陰陽師としての純粋な実力では敵わないな」


――御神みかみ なずな。流石は歴史に残る陰陽史の中でも歴代最高と謡われる陰陽師だ。兄として鼻が高い。妹と並ぶ陰陽師など解魂衆の最高実行部隊である『代行者』にいるかいないかだ。


 実力を追い越された挙句、他人と比較しているあたり兄としては情けなくなる話ではあるのだが、出来が悪いお陰で御神体よりしろを継承できたのだから皮肉なものだ。


 ――さて、手早く済ませるか。


 いつまでも感慨にふけている暇はない。

 返り血、吐しゃ物、涙や涎で汚れた少女の掃除を始める。


 宗の恩恵を持ってすれば、洗う必要もなければ衣服を処分する必要もない。

 ただ、そんな事のために恩恵を使用するのは、一匹の羽虫に核を使うくらい過剰で割に合わないというだけだ。


 一応、恩恵なしでも小規模の狐火は起こせるのだが、その場合精度に不安が残る。皮膚を炙ってしまう可能性もあるし、髪を焼失させてしまうかもしれない。

 

 狐火はただの火とは違い呪いが込められた火だ。

 一度その火に焼かれれば、呪いを解かない限り決して癒えることはない。

 恩恵を使用してないとはいえ、流石の妹も狐火の呪いを解くのは骨が折れる。


 諸々の理由から宗がこの馬鹿、もとい少女に配慮して恩恵を使うはずもなく、


 ――ドサッ。


 汚物をバスルームに放り込み途中で目が覚めないように術を掛ける。


 目を覚ませば少なからず混乱するだろう。

 汚れた体で取り乱されると後が面倒だ。

 それに、臭いも含めて妹の部屋にコレを置いておくのはこちらが我慢できない。


 いくつかあるスポンジ類の中から妹が使っていなさそうなを選び、さながら大型犬でも洗うかのようにワシャワシャ磨いていく。

 

 「こんなものか……ん?」


 よくわからないスポンジで急いで、それも適当に洗ったので所々肌が赤くなっている。


 第三者がこの場にいたら言いたいことが山ほどあったことだろう。が、女性を洗った経験がないのだ。それどころか汚れるという概念に縁がない宗は、自分自身を洗った経験すらもない。

 初めて目にする状況を前に暫しの間考え――、


 「いや、こんなものだ」


 見なかったことにした。


 

 シャワーを全開にし、泡が残らないようにで洗い流す。

 誤解がないように言っておくが、邪な感情は一切ない。

 視ることに長けている陰陽師という存在は、霊力の扱い方次第で大抵のものが視える。


 宗の着けている狐面はいわゆる覗き穴のようなものはない。

 着ければ当然何も見えなくなる。

 なので、宗は常に霊力を操り、霊視と透視を使って周囲を確認している。


 つまるところ、性別問わず裸体などありふれた日常でしかない。

 多少見方が変わったところで、何の感慨が湧くわけでもない。


 もちろん、だからといって何でも許されるなんて話はないわけで、個人の価値観で自己完結し、あまつさえ他人に配慮することを忘れてしまえば、それ相応しっぺ返しが来るというものだ。


 「お兄……ちゃん?」


 ――馬鹿な! 何故ここに!? 来るのは明日じゃなかったのか!?


 「――! ナ、ナズ!?」


 兄を見下ろす驚愕と悲哀に満ちたその表情から、言葉にしていない心の声がありありと伝わってきた。


 "妹のバスルームで如何わしいことをしている兄を目撃してしまった"


 遅れて床に落ちたバッグの音が、彼女の落胆を物語っているようだった。



 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




 宗は今、バスルームで正座し、中学生の平均にも満たない身長の少女から説教されている。


 妹と直接合うのは実は久しぶりだったりする宗。

 記憶にある妹の瞳は、誰もが羨むような可愛らしく大きな瞳で、澄んだ碧玉のように美しいものだった……はずなのだが、それがいまや、呆れと怒りでジトっとした怒気に濁っている。


 お気に入りの姫カットを不機嫌そうに揺らし、眉毛は怒ってますと言葉にしそうなほどの傾き加減だ。明るめのココアブラウンの髪も気のせいかワントーン紅くなり炎のようにゆらめいて見える。

 

 「まぁ、確かにぃ? お兄ちゃんには全部視えるのが当たり前で、今更なのかもしれませんよ? 必要なことだったとも思いますし、私が来ることも知らなかったわけですから。けど、妹としてはですね? 尊敬する兄が、妹の部屋で、女の人の体を洗ってる光景なんて、来れきりにしていただきたいと、そう思うわけです!」


 動揺混じりにプンスカとお怒りの妹。

 八割方動揺なので、微笑ましさが勝っているのが妹らしい。


 「悪かった。多分こんなことはもうないはずだ。一応、これが終わったら伝えようと思っていたんだが」


 あの時はコレしかなかったとは言え、嫌なことは重なる物だとつくづく実感する。


 妹の存在は彼女が許可しない限り、宗には知覚することができない。

 諸事情であえてそうしているのが今回は仇となったが、次はもっと上手くやろう。


 「お兄ちゃん? まさか、次はバレないようにとか考えていませんよね?」

 「――!?」


 ――なぜわかった!? お面を着けているので表情は見えていない、声にも出していない……妹だからなのか? だが兄の俺にはナズの心なんてわからない……理不尽だ。いや待て、新たな術の可能性もあるか?


 (そうじゃない)

 

 なんとなく兄が考えていそうなことがわかるナズは内心でツッコミを入れる。


 長く相手を見ていればおのずと考えは分かるようになる。

 ましてたった一人の肉親なら当然だ。

 全く反省していない兄の考えなど、妹には手に取るようにわかるのだ。

 

 「はぁー……ん?」 


 全く反省しない兄への溜息とともに下がった視線が、汚物に塗れた女子高生を洗っていたスポンジで固定される。


 「お兄ちゃん? まさかそれで洗ってないですよね?」


 宗が手に持つスポンジを見つめながら問うその声には、どことなく非難の色が滲んでいる。

 

 この硬めのスポンジとは別に柔らかそうなのがいくつかあったので妹が使っていない方だと思ったのだが、こちらはハズレだったのだろうか。

 いや、ハズレという表現は不適切か。この場合は……当たりなのか? いや、それはそれでアウトだろ。


 「――これで洗ったが……何か不味かったか?」


 答えが出えなかったので無難だと思われる受け答えで誤魔化ことにする。


 「それ、浴槽用のスポンジです……」

 「そうか。普段ナズが使っているものかと思ったが、違うなら問題ない」

 「問題ありです! 肌が赤くなっちゃってます。はぁー……後で治癒をかけておきます。この人には悪いですけど、私が洗ったってことにして、スポンジのことは言わないでおいた方がいいですね」


 ――”殺す相手をそこまで気に掛ける必要があるだろうか?”


 「――」


 「お……ちゃ……?」


 ――クソ! またこれだ! "殺す殺さないは最後の話"、"可能な限り犠牲は出さない"。そのはずだろ、宗!。


 「お兄ちゃん……」

 

 妹に袖を掴まれてようやく、自分が思考に呑まれていたことに気がつく。


 「――!? あぁ、そうだな……すまない、迷惑をかける」

 「――……」


 困ったような、悲しそうな、そんな表情で妹が微笑む。

 その顔に胸が締め付けられたような気がした。


 「――後は私がやります。何があったか色々聞かせてください」


 妹が女子高生の世話をしている間に路地裏での出来事を説明する。シャンプー類を大量に使った話をしたときは能面のようになってしまったが、埋め合わせをするということで許してもらった。


 「恩恵は使いましたか?」

 「一本も必要ない相手だった。それより、ナズがいる間に情報収集を始めたい。時間はどのくらいある?」


 つい早口で返答してしまった。 


 恩恵には呪いが付きまとう。宗の呪いがどれほどのものか知る妹からしたら、使ったと知っただけでも堪えるものがあるだろう。

 

 後始末を押し付けておいてそんな心配をする資格もないのだが、それでも心配してしまうのが兄と言うものだと思う。

 そう思えるだけで、自分が自分だと実感できる。妹には救われてばかりだ。


 「――……えっと、夜には実家の関係者のところに顔を出さないといけないです」


 ――流石に無理か。


 いや、あんなはぐらかし方をすれば誰だって気付くだろう。

 それでも気付かない振りをしてくれる妹に感謝しないとな――などと自分の都合のいいように考える訳にもいくまい。


 ――すまないナズ、心配をかける。ダメな兄貴で……ごめんな。


 それでも、それを口にしてしまえば、このダメ兄貴には勿体ない出来た妹は余計に心配してしまうだろうから。だからこそ、前に進む。


 「それならすぐ確認しよう」

 「確認?」 


 そうだ。これから先、その心配が杞憂になるように、成すべきことは一つ。

 そしてその成すべきことを成すためには先ず、


 「糧か餌か、こいつがどちらかなのかを、だ」


 指さす先には、むにゃむにゃと寝言を言っているせいでやっぱり馬鹿にしか見えない女子高生が、幸せそうに眠っていた。

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