第捌話 黎家の人々 弐

「……実はこの屋敷にも残念な者たちがいるのです」

「……は?」


 琳瑶りんようが戸惑いも露わに返すと、薔薇そうびは、今度はばつが悪そうな表情をして続ける。


「そなたはこれから黎家れいかの娘として、この屋敷でわたくしと暮らします。

 ですから昌子しょうし殿を含めて、泰家たいかの処罰がそなたに及ぶことはありません」

「はい」

「ですが……この屋敷には、そなたのことを快く思わない者たちがいるのです」


 そう切り出した薔薇の話は、まずはこの黎家の屋敷が、母屋の他に三つの離れから成る壮大な造りであることから始まる。

 その中でも西の離れと呼ばれるのは、いま琳瑶が薔薇と話している部屋を含めた建物群で、文字通り母屋の西側にある。

 かなりの広さがあり、薔薇の侍女たちはもちろん、母屋とは別に厨房があるため下働きも多い。


「この離れでは自由にしてかまいません。

 欲しい物があればなんでも揃えますからね」

「お母様がいれば十分です!」


 嘘偽りのない琳瑶の本音に、薔薇も 「母もです」 と答える。

 そんな母子の絆に水を差そうとするはん皇后の思惑。

 今朝、王宮を辞す時、范皇后の侍女が言っていた言葉が薔薇の脳裏に思い浮かぶ。


「皇后様におかれましては、茶会の日取りは改めて良き日を選びたいとの仰せにございます。

 その時には是非媛君もご一緒にお招きしたいとのことでございます」

「娘共々楽しみにしておりますとお伝えくださいませ」


 この時点では皇后の思惑を知らなかった薔薇は快諾したが、英成えいせいの話を聞くと事情が変わってくる。

 今日のお茶会が流れることは予定どおりだが、昨夜、皇帝が范皇后の部屋を訪れていたことも予定どおりなら、碧霞へきか太子と琳瑶の縁談も予定どおりということだろうか。


(まさか……)


 そんなことを考えつつも黎家の屋敷について説明を続ける。

 西の離れから繋がる母屋には、この屋敷の主人であり黎家当主である薔薇の長兄、れい東雲とううんと、その妻であり、先程までいた英成の母の妹に当たるれい楊慶ようけいが暮らしている。

 屋敷の中で一番大きく広い母屋だが、暮らしているのは夫妻だけ。

 もちろん侍女や下働きが大勢いるのだが、夫婦の三人の息子は東の離れに住んでいる。


 通称双月と呼ばれる双子の兄弟、蒼月そうげつ橙月とうげつ、それに彼らの弟である彩月さいげつの三人が住む東の離れは屋敷の中で一番小さく狭く、厨房などがなく食事は両親と一緒に母屋で摂っているという。

 兄弟は宮中で泊まり込むことも多いため、そのほうが都合がいいらしい。


 そして薔薇が言う 「黎家の残念な人々」 が暮らす北の離れ。

 ここには薔薇のすぐ上の兄、れい芳雲ほううんが妻子とともに住んでいるという。


 薔薇には三人の兄がおり、次兄のれい翔雲しょううんは結婚とともに自分で屋敷を構え、そちらに妻子とともに住んでいる。

 本家屋敷ほど立派ではないが近いところにあり、そこで正妻と暉清きせい虹秀こうしゅうという二人の息子の四人で暮らしているという。

 東雲と翔雲は仲のよい兄弟で、今回の件では当主として東雲の名前ばかりが出ているが、翔雲も詮議に出席している。

 そんな優秀な兄たちを持つ黎芳雲だが……


「わたくしは……はっきりいって芳雲お兄様が嫌いです」


 そう言って一度言葉を切った薔薇だが、一呼吸ほどの間を置くと、語気を強めて繰り返す。


「わたくしは芳雲お兄様が大嫌いなのです!」

「お……お母様?」


 琳瑶自身、姉の蘭花らんかとは仲がよくなかったが二人は異母姉妹である。

 貴族では不仲な異母兄弟など珍しくもないが、薔薇と三人の兄は同母の兄弟だと聞いていたし、長兄や次兄とは仲がよいとも聞いていたから、てっきり三兄とも仲良しだと思っていた琳瑶だが違うらしい。

 しかもただの不仲というわけではないらしく、こみ上げてくる怒りや恨みを込めて繰り返された薔薇の言葉に、琳瑶は驚き戸惑う。

 その理由を聞いてみれば、黎芳雲が薔薇に恨まれるのも納得の理由があった。

 しかもそこに自分が関わっていると知り、琳瑶は複雑な気分になる。


 三兄弟の中で唯一側室を持つ黎芳雲は、正妻とのあいだに息子が一人と娘が二人。

 そして側室とのあいだに息子を一人持つ。

 この側室の息子であるこう砥尚ししょうのことを思い出した薔薇は……


「そういえば、砥尚とは会ったことがあるはずです」

「わたしがですか?」

「ええ、泰家に遣ったことがありますから」


 それなら会ったことがあると思う琳瑶だが、今のところ顔と名前が一致しているのは英成一人である。

 会えばわかると思うのだが、今はその砥尚も不在にしているだろうと薔薇は話す。

 芳雲は他の兄弟三人と不仲だが、その長男である砥尚は、従兄弟に当たる東雲や翔雲の息子たちと仲がよく、東雲や翔雲にも気に入られており、英成のように取り立ててもらっているのだという。

 だから王宮での騒ぎの中、芳雲のもう一人の息子であるれい鹿涼かりょうは父親と同じく今も北の離れにいるが、砥尚は東雲に伴われて王宮にいるという。


「芳雲お兄様の子にしては出来た子です。

 弟の鹿涼などは……」


 薔薇が言い掛けて溜息を吐くのを見て、琳瑶もなんとなく言わんとするところを察する。

 先に 「残念な人々」 の存在を聞いていたから想像に難くなかった。

 もちろんまだどんな具合に 「残念」 なのかはわからないけれど、「残念」 であることは間違いないのだろう。

 その 「残念」 な芳雲一家の一人、長女のれい佳澄かちょうと会ったのは翌日のことである。


 前日に続き西の離れを薔薇に案内してもらっていた琳瑶は、その部屋を見て驚いた。

 わざわざ改装をしていくつかの部屋をつなげた広い部屋には、おびただしい数の衣装や帯などが保管されていたのである。

 しかもそれらは全てそれなりに着古されており、全てに琳瑶は覚えがあった。


「……お母様、これはわたしの……」

「覚えておりますか?

 全て吾子が着ていた衣装ですよ」


 季節の変わり目に、いつも愛娘に新しい衣装を贈っていた薔薇。

 代わりに、生地が傷んだり、背が伸びるなどして着られなくなった衣装を回収していたのだが、それら全てをこの広い部屋で保管していたのである。

 五歳で引き離された愛娘の、成長を身近で見られない淋しさや悔しさを、こうして実際に着ていた衣装を見て慰めていたのである。

 少しずつ大きくなる衣装を琳瑶の成長代わりに見てきたのである。


「すべて……すべて、わたくしの宝物です」


 琳瑶を迎えに行かせた彩月に、琳瑶の部屋にあるもの全てを回収してくるように命じた薔薇。

 そうして黎家に持ち帰られた品々の中には安子あんしが割ってしまった手鏡もある。

 すでに破片のいくつかが欠けてしまった鏡面にはなにも映らないが、琳瑶が小さな手に持って使っていたことを思えば、それさえも愛おしいという。

 壊れた花の髪飾りも、外れてしまった花びらの一枚まで大切に保管されている。

 もちろん歯が欠けた櫛も。


 琳瑶自身、かつて自分が纏っていた衣装を懐かしむように部屋を眺めていたが、あるものを見つけてハッとする。

 それは一抱えほどの四角い包みである。


「……あった……」


 もう二度と取り戻せないと思って泣いてしまった琳瑶の宝物。

 薔薇からの手紙が収められた文箱が、あの日、自分で持っていくために布で包んだ状態のままで薔薇のお宝部屋に保管されていたのである。


「琳瑶?」


 掛けられる薔薇の声は琳瑶の耳には届かない。

 ふらりと踏み出したかと思ったら、たまらず駆け出し、包んだ布を開いて中から現われた古い文箱を抱きしめる。


「それがどうかしたのですか?」


 琳瑶の様子が気になった薔薇は、そっと背後に立って、改めて声を掛ける。

 その前で琳瑶は抱えた文箱を愛おしげに頬ずりする。


「お母様の手紙です。

 わたしの大事な物……」

「まぁ!」


 薔薇とはいつでも会えるようになった。

 それこそ一日中一緒にいられるけれど、薔薇からもらった手紙はやはり琳瑶にとってはとても大切なものだった。

 だから失った時に悲しくて悔しくて泣いてしまったように、取り戻せたことが嬉しくて嬉しくて泣いてしまう。

 その小さな頭を、薔薇の手がそっと撫でる。


「それはそなたの部屋にお持ちなさい」

「はい」


 文箱を大事に大事に抱える琳瑶が泣き止む頃、薔薇の侍女の一人がやってくる。


「薔薇様」

「なんです?」


 琳瑶と思い出の品を見て楽しもうと思っていた薔薇は、掛けられる侍女の声に不機嫌に返す。

 すると侍女も状況を察するが……といっても鼻をすすっている琳瑶に気づき、すぐに戸惑ってしまう。


「……あの、なにかございましたか?」


 なにか不備があって、部屋に保管されている物が汚損でもしていたのだろうかと案じる侍女に、薔薇はぴしゃりと返す。


「なんでもありません。

 それよりなんの用ですか?」

「あ、はい、お夕食のことで……。

 それと楊慶ようけい様が、薔薇様とお話ししたいと……」

「楊慶が?」


 母屋に住む黎家当主夫人が呼んでいると聞き、薔薇は怪訝な顔をする。

 黎東雲と楊慶の夫婦は従兄弟同士だったから、当然薔薇も楊慶とは従姉妹である。

 琳瑶はまだ楊慶と会ったことがなく、一緒に行って挨拶をしたほうがいいのではないかと思ったが、少しのあいだ考えた薔薇は、琳瑶は自分の部屋で待っているように言い、一人で母屋へ行くという。

 だが自分の部屋に戻ろうとして迷った琳瑶に声を掛ける者があった。


「あんたが薔薇おば様の子ども?」

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