第参話 宋英成 壱

「……大丈夫、大丈夫よ。

 もう二度と、母はどこにも行きませんからね」


 薔薇そうびにしがみついて泣きじゃくる琳瑶りんよう

 その背や髪をゆっくりと撫でながら声を掛けて宥める薔薇。

 二人の周囲では、琳瑶と薔薇の侍女がそんな二人を見てホッと胸をなで下ろす。

 中にはまだ息を切らせていたり、乱れた髪をさりげなく手櫛で直していたり、やはり乱れた衣装をさりげなく整えたり。

 寝ぼけた十二歳に振り回された大人たちが散々な姿をさらしていた。


「……琳瑶や、少し落ち着いてきましたか?」


 いつまでも琳瑶を肌着のままでいさせるわけにはいかないと思った薔薇だが、鼻をすする琳瑶は薔薇の衣装にしがみついて離れようとしない。

 これを無理に引き剥がすのも気が引けて、琳瑶から離れるように仕向けてみる。

 だが琳瑶はこれを拒否した。

 薔薇の衣装の握りしめる手に力を込めたのである。


「大丈夫、母も一緒に行きますから。

 お部屋に戻って着替えましょう」


 すると周りにいる侍女たちも 「さぁ媛様」 とか 「参りましょう」 と声を掛けて促してくる。

 だが琳瑶は薔薇から離れようとしなかった。


「もう少しだけ」


 少し聞き分けが悪いことは琳瑶も自覚があった。

 自覚はあったし、あまりしつこくすると薔薇に嫌われてしまうかもしれないという不安もあった。

 でもすぐには離れがたく、しがみつく腕や衣装を握る指に力を込める。


(お母様のお胸、おっきぃ、やわらかい)


 そんなことを思いながら隙間なく顔を埋め、横から空気が入らないようにして薔薇を嗅ぐ。


(お母様の匂い……)


 すでに車中でも嗅いでいたはずの薔薇純度千%の匂いだが、改めて嗅ぐと、もうこの匂いだけをずっと嗅いでいたくなる。

 薔薇の匂いだけで呼吸がしたくなってくる。

 もちろんそんなことは出来ないとわかっている。

 だからこそ、薔薇を困らせているとわかっていてもう少しだけ嗅いでいたかった。


「薔薇様、こちらはいかがいたしましょう?」


 ようやく琳瑶を宥め、一緒に部屋に戻ろうという薔薇に侍女の一人が声を掛ける。

 机の上に広げたままになっている書きかけの手紙のことである。


「ああ、お兄様に……そなた、続きを書いて王宮にいるお兄様に届けておくれ」

「かしこまりました」


 尋ねた侍女が心得たように応えた時、扉近くに立っていた侍女がなにかに気づき、少しばかり扉を開けると、隙間から覗きこむような仕草をする。

 どうやら誰かが来たらしい。

 二言三言、外にいる誰かと言葉を交わすと、扉を閉めてから部屋にいる薔薇に向かって話し掛ける。


「薔薇様、宋家そうか英成えいせい様がお目に掛かりたいと……」

「英成殿が?」


 どうやら部屋の外に取り次ぎの者が待っているのだろう。

 少し意外そうな顔をした薔薇だが、すぐに 「ああ」 と納得したような声をあげる。


「別室でお待ち願え。

 すぐに参る」

「かしこまりました」


 そういうと、やはり扉を少しだけ開けて、隙間から覗きこむように外で待つ者と二言三言言葉を交わす。

 そうしているあいだにも薔薇は琳瑶の足を促す。


「さぁさ、そなたの部屋に参りましょう。

 そなたのために色々と用意したのですよ。

 いつまでもそんな格好でいては風邪を引いてしまいます」


 衣装も沢山用意したから、部屋に戻って一緒に選ぼうと言われて琳瑶もすっかりその気になる。

 どこをどう走って辿り着いたのかわからない薔薇の部屋から数人の侍女を伴って戻ると、琳瑶は改めて自分のために用意されていた部屋を見回す。

 広さもそうだが、取り揃えられた調度も、泰家たいかの屋敷にあった琳瑶の部屋とは大違い。

 それこそ掃除の行き届き具合からして違うのである。


 なにしろ安子あんしは四角い部屋を丸く掃除するタイプの侍女だったから、部屋の四隅に埃が溜まっているのはいつものことだったし、調度の上に埃が積もっていても気にしない性格だった。

 いや、埃が気にならないのではなく、掃除をするのを面倒くさがったというほうが正しいだろう。

 その安子も今頃は泰家の屋敷に戻り、蘭花らんかの侍女に戻っているのだろうか?


(あれ? でも、お姉様も罰を受けるんじゃ……)


 ふと安子のことを思い出したついでに蘭花のことを思い出した琳瑶は、翠琅すいろうがそんなことを言っていたことも思い出す。

 皇帝の側室が勝手に後宮を出て行ったのだから、罰を受けるのは当然だろう。

 その罰がどんなものになるのか全く想像のつかない琳瑶だが、翠琅が、あまり厳しい罰にはしないようなことを言っていたような、いないような。

 いずれにせよ、おそらく安子は蘭花の侍女には戻っていないだろう。

 下手をすれば今も後宮にいるかもしれない。


 もちろん下女として。


 だが琳瑶は、そんな彼女を救い出そうとは思わなかった。

 気に掛けることもやめようと思った。

 安子のことだけでなく、蘭花のことも、父親のことも。


「この色などいかがでしょう?」

「帯はこちらを」


 薔薇に連れて来られた衣装部屋に入ると、早速侍女たちがあれはどうだこれはどうだと勧めてくる。

 勧められるままに色とりどりの美しい衣装を見ていると、薔薇や侍女たちが、実際に衣装を琳瑶の体に合わせてくる。

 もうずっとこんな風にしてもらうことなどなかったから、嬉しくも恥ずかしさで安子たちのことなどすぐに忘れてしまう。


 琳瑶が黎家の屋敷に来ることが決まったのは、蘭花の入宮が決まってすぐ。

 蘭花が言っていた 


「だいたい元はあんたが入宮するはずだったんだから」


 この言葉の意味は今も不明だが、宣下があってから実際に蘭花が入宮するまで約二ヶ月。

 それは琳瑶が黎家の屋敷に来るまでの期間でもあったわけだが、二ヶ月にしてはずいぶんと色々集めたものである。

 衣装の枚数はもちろんだが、帯の本数も。

 合わせて髪飾りや化粧道具まで、実に様々なものが琳瑶のために沢山用意されていたのである。


 さらには新年用の衣装も用意しなければ……などと薔薇も浮かれきっている。

 そんな母親の様子を見て、琳瑶も黎家の屋敷に来てよかったのだと安堵する。

 ようやくのことで衣装が決まると、すぐに帯や上着なども決まり、着付け。

 そして髪を結ってもらうと、慌ただしく薔薇に連れられて別の部屋へ。

 そこでは男が一人、落ち着かない様子で茶を飲んでいた。


 年齢は二十歳前後。

 着ている黒っぽい装束はおそらく官服である。

 髪も整えて結い上げるなど身だしなみは整っているのだが、とにかく落ち着きがない。

 ようやくのことで待ち人である薔薇が琳瑶を伴って現われると、慌てて立ち上がるが、勢いがつきすぎて卓にぶつかってしまい小さな湯飲みが倒れる。


「あっ!」


 幸か不幸か茶はすでに飲み干しており、控えていた侍女がすぐに駆け付けたので湯飲みが落ちて割れることもなかった。

 だがこれで一安心とならない男の様子に、薔薇が笑いを含んだ声で話し掛ける。


「英成殿、いつになく落ち着きのない」

「薔薇様!

 とんだ粗相を……」


 言い掛けた男は、薔薇に連れられてきた琳瑶を見て驚いたように目を大きく見開く。

 それこそ目玉が飛び出るのではないかと思うほど大きく見開くと、いきなり床に膝を着いて土下座をしたのである。


「琳瑶様、ご無事でなによりでございます!」

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