第弐話 母の匂い

「お母様!」


 駆け出した瞬間……いや、駆け出す直前には人目を忘れ、両腕を広げた母薔薇そうびの胸に飛び込む琳瑶りんよう

 薔薇もまた、その勢いに少しばかり足をよろめかせながらもしっかりと受け止め、抱きしめる。


「琳瑶……すっかり大きくなって」


 薔薇もとても大柄とは言えないが、それでも十二歳の琳瑶より背も高く腕も長く、子どもらしい容赦ない力でしがみついてくる琳瑶をしっかりと抱きしめる。

 薔薇にとっても七年ぶりの我が子である。

 両袖の中にすっぽりと納め、五歳で引き離された娘をようやくのことで取り戻せた実感を噛みしめる。


 だがそれも長くは続けられなかった。

 なぜならここは混乱真っ只中の王宮だからである。

 二人のすぐ近くに控えていた薔薇の侍女がこっそりと告げる。


「薔薇様、皇后様の遣いがお待ちでございます」


 薔薇との再会をじっくりと味わいたい琳瑶は離れたくなかったが、体裁は大事である。

 まして母親の体面を潰すわけにはいかない。

 でも母親と離れたくない。

 その葛藤に苛まれながらも、覆い被さるように抱きしめてくれる母親にそっと囁く。


「お母様」


 するとその耳元で、深く深く溜息を吐く薔薇。


「やっと吾子と会えたというのに……早く済ませて屋敷に戻りましょう」


 その相手がすぐそこにいることも気にせず呟いた薔薇は、抱きしめた琳瑶をそのままに、顔だけを上げて皇后の侍女を見る。

 すると皇后の侍女たちも心得ているように、薔薇に向けて深々と頭を下げる。


「皇后様におかれましては、茶会の日取りは改めて良き日を選びたいとの仰せにございます。

 その時には是非媛君もご一緒にお招きしたいとのことでございます」


 今日茶会が開かれないことは双方了承済みのことである。

 だが翠琅が書いた筋書きにこの先のことはなくこのままお流れになるのかと思われ、おそらく日を改めたいというのは皇后のアドリブだろう。

 実際に日を改めて茶会が開かれるかどうかはわからないが、それが皇后の言葉である以上薔薇は受け入れるしかない。


「娘共々楽しみにしておりますとお伝えくださいませ」


 あくまでも琳瑶を離さず会釈を返す薔薇。

 返事を受けて皇后の侍女たちは先に退室。

 それに続いて薔薇も、王宮の車止めで待っている侍従たちに知らせを遣り、出立の準備が整うのを待って部屋を出る。

 もちろん琳瑶を伴って、である。


 今日、薔薇が王宮に出向いた目的を知っているのか、付き従う侍女たちも、護衛たちも、薔薇を守る振りをしてその陰に琳瑶を隠す。

 幸いにして琳瑶は十二歳にしては背も低く、しかも自分の置かれている状況を理解していて身を隠すことに協力的である。

 そうして衛士たちに呼び止められることなく無事に車止めまで辿り着くと、一行は王宮をあとにする。


 黎家れいかの屋敷に向かう狭い車中、薔薇の隣にすわった琳瑶はまだ現実が信じ切られず、これは夢ではないか?

 あの日のように、目が覚めたらまた母がいなくなっているのではないか?

 そんな不安と、母に会えた嬉しさのあいだを行ったり来たりしていると、隣にすわる薔薇が頭の上から話し掛けてくる。


「琳瑶、どうかした?」

「あの、お母様、夢?」


 琳瑶の異母姉蘭花らんか泰嬪たいひんとして入宮した時 「薔薇の娘」 という噂が立った。

 その理由を琳瑶はまだ知らないのだが、後宮中が 「さぞ美しいに違いない」 と口を揃えた。

 そう噂されるのも無理ないほど薔薇は美しかった。

 よわい三十ほどになるはずだが、美しかった。

 その美しい顔を間近に見て思わずうっとりしてしまうと、薔薇はにっこりと笑う。


「夕べは騒がしくてよく休めなかったのでしょう。

 屋敷に着くまで少し眠りなさい」


 背に回された薔薇の腕に促され、琳瑶は薔薇の膝を枕に……しようとしたのだが、はっとして薔薇の膝に顔を埋める。

 そのこうの匂いに気がついたのである。

 膝に顔を埋めたままゆっくりと、深く息を吸うと、料紙や墨の臭いなどが全く混ざらない純度千%薔薇の匂いである。


(お母様の匂い!)


 息を吐くことも忘れて吸い続けていると、すぐに頭がクラクラしてくる。

 そこに車の揺れが加わり、気絶してしまったのか、あるいは眠りに落ちてしまったのか。

 わからないけれど、混じりっけのない薔薇の匂いに包まれて、心地よく意識を手放したのである。


 目を覚したというべきか?

 あるいは意識が戻ったというべきか?

 わからないけれど、ぼんやりとする意識はいつ戻ったのかわからず、ぼんやりと眺める天蓋もまた、いつから眺めていたのかもわからない。

 白地に淡い色使いの花が描かれたそれが天蓋だとも気づかず、ぼんやりと眺めていた。

 それが唐突に覚醒した切っ掛けは特になかったと思う。

 ただ唐突にハッとし、俄に焦る。

 もちろんなにに焦っているのかもわからないが、焦ったのである。


 ここがどこなのか?


 そんな疑問が浮かんだのはもっとあとのことで、次に気がついたのは鼻の奥に残る母の匂いである。


「……お、母様っ?!」


 自分が横たわっていることにも気がついていなかったから、そのままの状態で周囲を見ようとして首が不自由なことに気づく。

 そこでようやく自分が横たわっていることに気づき、人生で初めて起き上がるために腹筋を使った。


「媛様、お目覚めでございますか?」


 近くに人が居ることにも全く気づいていなかったから、掛けられるゆったりとした声にハッとする。

 首を巡らせてみると同じ衣装を着た女が二人、琳瑶を見てやさしく笑みを浮かべている。

 だがやはり彼女たちが何者なのかという疑問は浮かんでこないけれど、薔薇がいないことはすぐにわかった。


「お母様、どこっ?!」

「媛様?」


 最初はおっとりとしていた侍女たちだが、琳瑶が掛けられていた蒲団を蹴飛ばす勢いで寝台を抜け出すのを見て驚く。


「どこっ?!」

「媛様、落ち着いてください」

「目覚められましたこと、すぐにお伝えして参り……」

「お母様!」


 琳瑶を落ち着かせようとする侍女の言葉半ば、寝台を抜け出した琳瑶は裸足のまま部屋を飛び出す。

 それを慌てて追いかける侍女。


「あなたは薔薇様にお知らせして」


 一人がもう一人に指示を出すと 「はい!」 と応えたもう一人の侍女が、琳瑶が駆け出したのとは反対の廊下に足を向ける。

 それを見た琳瑶はすぐさま薔薇の部屋がそちらだと気づき、踵を返す。


「媛様っ?!」


 その速さについていけない侍女二人は、ただただ声を上げて慌てるばかり。

 そして母親を探して見知らぬ屋敷を走り回る琳瑶を追いかける。

 しかも速さについていけず何度も見失い、騒ぎに気づいた薔薇の侍女までが駆け付ける始末。

 最初は薔薇も侍女たちと一緒に探しに行こうとしたけれど、それではすれ違う一方なので、薔薇は自分の部屋で待機。

 双方の侍女たちが琳瑶を薔薇の部屋に追い込む、あるいは誘い込む作戦を実行し、ようやくのことで薔薇の部屋に辿り着いた琳瑶は、続く扉を乱暴に開けて薔薇の部屋に押し入る勢いで入ると、手紙を書いていた薔薇にしがみつく。


 もちろんただ待つしかなかった薔薇も落ち着かず、なかなか手紙に集中出来なかったのだが、無事琳瑶を回収出来たことを兄に報告しなければならない。

 それで待っているあいだに書き上げようとしたのだが、泣きながら取り乱した様子で飛び込んできた琳瑶を見た瞬間、筆を放り投げていた。


「琳瑶、どうしたのです?」

「お母様、いた!

 ……また……いなくなったと思った」


 狭い車の中、薔薇の膝を枕に眠ってしまった琳瑶を見て、てっきり安心して気が抜けたのだろうと思って薔薇たちも安心していたのだが、目を覚した琳瑶は、そこに薔薇の姿がないことであの日を思い出してしまったのである。


 七年前のあの日


 まだ五歳だった琳瑶は、前日、いつものように眠りについた。

 けれど目を覚したそこに薔薇の姿はなかったのである。

 泣きながら必死に屋敷の中を探し回ったのだが、二度と薔薇が泰家たいかの屋敷に戻ってくることはなかった。


 肌着のまま、髪を振り乱して屋敷中を探し回り、ようやく見つけた薔薇にしがみついて泣く琳瑶を見て、薔薇もまた、七年前自分が泰家を去った翌日、目を覚した琳瑶の悲しみや淋しさを改めて知り、申し訳なさで一杯になる。

 こんなことならあの日、意地を張らずに琳瑶を見つけるまで探せばよかったとさえ後悔する。


「……大丈夫、大丈夫よ。

 もう二度と、母はどこにも行きませんからね」

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