第拾伍話 皇后の宮
「こちらは皇后様の宮でございます」
しかも躊躇いもなく口にしていたから隠す必要がないのだろう。
それは無事に琳瑶を保護出来たからだろうか?
わからないけれど、隠す必要はないらしい。
「皇后様……?」
「はい、
強ばる琳瑶の顔を見て動揺を察した年長の侍女は、落ち着いた様子で繰り返す。
「どうして皇后様が……」
「詳細につきましては、いずれ翠琅様からご説明頂けるそうです」
もう二度と翠琅と会うことはないかもしれないと思っていた琳瑶にはこの話も意外だったが、いきなりハッとする。
「あ、あの、皇后様にご挨拶は……あ、でもこんな服じゃ……」
いま琳瑶が着ているのは
さすがに仕事着で皇后に挨拶をするのは非礼ではないかと思ったが、腕に抱えた包みに入っている衣装も古着である。
そもそも時間も時間だし、琳瑶が皇后に挨拶を出来る立場かどうかもわからない。
十二歳の子どもなりに琳瑶も色々考えたのだが、十二歳の子どもではわからないことが多すぎてうろたえると、やはり年長の侍女が心得たように、落ち着いた様子で話し掛けてくる。
「今夜はこちらのお部屋をお使いください。
明日の朝、食事と湯をご用意いたします。
朝食の席でその後のご予定を説明させて頂きますので、どうぞ、今宵はこのままお休みくださいませ」
今夜はもう、休む以外に琳瑶の予定はない。
ゆっくりとそう説明した年長の侍女は、優雅に奥の部屋を手振りで示す。
ここは居室で、奥に寝室があるのだろう。
どうするのが正解かわからない琳瑶が戸惑っていると、冷宮まで迎えに来た二人の侍女が背中を押してくる。
そうして寝室に押し込まれると、持っていた包みをとられ、帯を解かれてあっという間に肌着にされる。
「あ、の……?」
琳瑶も貴族の娘である。
人に着替えをさせてもらうのは普通だが、
おかげで下女として後宮に入ってからも身の回りのことは自分で出来たのだが、こうやって久々に世話をしてもらうと気恥ずかしさを覚える。
居心地の悪さと手持ち無沙汰にモジモジしてしまうが、侍女たちは気にすることなく、琳瑶から脱がせた仕事着を持って静かに退室し、年長の侍女ともう一人だけが残る。
「今宵は後宮中が騒がしく寝付けないかもしれませんが、せめて寝台で横になってお体を休めてくださいまし。
わたくしどもも隣の部屋に控えておりますので、どうぞご安心を」
この宮の主人である皇后はともかく、少なくともここにいる侍女たちは琳瑶が匿われている理由を知っているのだろう。
安全はもちろん、一人になる心細さをわかっていて、でも同じ部屋に見知らぬ人がいては落ち着かないだろうと、隣の居間に控えていてくれるという。
寝台に横たわって一人になると、扉や壁の透かし飾りから漏れる柔らかな明かりに、知らず知らず安堵を覚える。
寝台も、下女が使う大部屋の蒲団はもちろん、冷宮のかび臭かった寝具とは大違いで、柔らかく温かい。
その心地よさに身を任せて眠りに……落ちようとしたけれど寝付けなかった。
離れた冷宮の物音はもう聞こえない。
それは距離があるからではなく、実際に冷宮での騒ぎ自体はもう収まっていた。
もちろん落着したわけではない。
だが少なくとも騒ぎ自体は収まっていた。
おそらく皇太子
捕り物のため後宮に入った武官も長居は出来ない。
それにこのことを、詮議に列席する貴族たちの屋敷に報せを遣らなければならないなど、夜はまだまだ長いけれど、翠琅たちにもやることは山のようにある。
そしてその慌ただしさを遠目に見て何事かと騒ぐ侍女や、顔見知り同士で顔を寄せ合いヒソヒソと話し、部屋で待つ
蚊帳の外でも野次馬たちが慌ただしい。
むしろ冷宮の騒動が落ち着き始めると、それ以外の場所のほうが騒がしいほど。
だがそれも、皆、疲れて眠りに落ち始めたらしく、空が白み出す頃には鎮まりつつあった。
けれど琳瑶は眠れなかった。
空が白み、鳥の鳴き声が聞こえるのを意識の遠いところで聞き、ハッとする。
何度かうつらうつらと眠りそうになったけれど、そのたびにどこからか聞こえてくる足音や扉を開けるなどの物音に意識を呼び戻される。
それを何度も何度も繰り返しているうちに朝が来たらしい。
「琳瑶様、お目覚めでございますか?」
袖を口にあててそっと声を掛けてくるのは、昨夜の年長の侍女である。
五人いた侍女は交代で休んだらしく、寝台に横たわる琳瑶を覗きこんでくる顔に隈はない。
あるいはよほど化粧がうまいのか。
髪も化粧も綺麗に直されており、衣装からはかすかに芳しい
(……違う)
うっかり
しかもその様子は見てわかるのだが、侍女たちは琳瑶が落ち込む理由がわからない。
だがそこは躾の行き届いた皇后の侍女たちである。
内心ではきっと戸惑っていただろうけれど決して表には出さず、琳瑶に入浴を勧めてくる。
てっきり下女たちが使っている大風呂か、せいぜい下級妃や女官たちが使う風呂かと思ったら、連れて行かれたのは部屋に据え付けられた個室風呂。
しかもここは
つまり……
「こ、皇后様のお風呂っ?!」
そして後宮に来てからは下女用の大風呂。
冷宮では風呂に入ることは出来ず、文句を言われながらも老宦官にもらってきてもらった湯で体を拭くだけ。
だから温かい湯に入れるのは嬉しいけれど、あまりにも高貴な方専用のお風呂で、湯を汚してしまうことに気後れしてしまう。
「あ、あの……」
「皇后様がお使いになる前に湯を張り直さなければなりませんので、お早く」
そう言われては仕方がない。
慌てて湯に入ることにしたのだが、どうやら躊躇う琳瑶を風呂に入れるための口実だったらしい。
だから急かされたわりに入念に髪を洗われ、丁寧に背を流された。
そして頬を紅潮させ、体から湯気を上げながら湯から上がってきた琳瑶を見て、年長の侍女はふふふ……と笑う。
「御子様方の幼い頃を思い出しますわ」
范皇后には、亡くなった前皇太子を筆頭に三人の子がある。
それなりに年嵩の侍女だと思ったら、三人の太子の子ども時代を知っているらしい。
つまりそれだけ長く皇后に仕えているということで、皇后の信頼だってそれなりにあるはず。
そんな侍女が琳瑶の世話をしているというのはどういうことだろう。
(翠琅様って何者?)
なんとなく考えてはいけない、詮索してはいけないと思うのだが、どうしても考えてしまう。
しかも琳瑶にここまで見せているのだから、おそらく翠琅ももう隠すつもりはないのだろう。
だが、やはりなんとなく知らないほうがいいと思ってしまい、訊けないでいる。
湯から上がると真新しい肌着が用意してあり、待ち構えていた侍女たちが当たり前のように体を拭き、着せてくれる。
どうしても気恥ずかしくてぎこちなくなってしまうのだが、肌着に袖を通して、長くもなければ短くもないことに気づく。
范皇后の子は太子ばかりが三人で公主はいない。
女児の肌着など用意がないはずだから、琳瑶と同じ年頃の公主を持つ側室から借りてきたのだろうか?
そんなことを湯で火照った頭でぼんやり考えていると、ふと気がつき、慌てて袖に顔を埋めるように匂いを嗅ぐ。
湯上がりの着替えなどに使われるこの続きの間には、湯に入れられていた香油が、湯気に乗って漂ってくるため匂いが混じってしまうけれど、肌着からかすかに薔薇の香の匂いがする……ような気がしたのである。
(気のせい?
でも、お母様の匂いのような……)
犬のようにフンフンと、右の袖を匂い、次は左の袖を匂い、また右の袖を匂う。
そんな琳瑶の奇行を、肌着の出所を知っている侍女たちは微笑ましげに見ていた。
着替えを終えると部屋に戻り、寝室で髪を結われる。
丁寧に
そして最後に鏡を使って仕上がりを見せてくる。
安子とは違って全然痛くないし、ゆるくもなければ歪みもない綺麗な出来上がりである。
「申し訳ございません。
お気に召さないかもしれませんが、こちらを出るまでは目立たぬようにと言いつかっております。
どうぞ、ご容赦くださいませ」
湯上がりに肌着の上に着せてもらった衣装も侍女たちと似た形の物で、色柄も近い生地が使われている。
どうやらこのまま皇后の侍女たちに紛れて過ごすことになるらしい。
身支度を終えて隣の居室に移ると朝食の支度が始められていた。
その席で、年長の侍女が改めて話し出したのはこのあとの琳瑶の予定である。
「実は本日、薔薇様が宮城にいらっしゃいます」
「お母様がっ?!」
「はい」
「でも……どうしてお母様が?」
「もちろん琳瑶様をお迎えに」
「え?」
「これからわたくしがお話しいたしますことをよくお聞き下さいね」
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