第拾陸話 決行の夜
「酷い藪だな」
暗闇の中、すぐそばに控える双子の片割れが呟くと、手で虫を払うような仕草をする。
建物が込み入って建っているためあまり日当たりはよくないはずなのだが、このひと夏を満喫した草が人の背丈ほども生い茂っている。
さらにはどこからともなく風に飛ばされてくる落ち葉までが吹き溜まり、酷い有様である。
おそらくはこれらが腐り、また生え放題の雑草が冬に枯れ、やはり腐って栄養となって土地が肥え、日当たりが悪いのに雑草の育成がいいのかもしれない。
さらにはそこに虫が湧き、湿気が溜まり建物を傷めてゆく。
繰り返される悪循環により、やがて建物は朽ちてゆくだろう。
そもそもこの 「冷宮」 と呼ばれる建物は後宮に存在していない。
少なくとも後宮の建物配置図には描かれておらず、起居する側室や女官はもちろんおらず、下女たちが近づくこともない。
いや、近づくことを禁じられていた。
宮官長に
記録を遡ってみれば、すでに取り壊されたことになっているこの建物は、何代か前の宮官長から、その威厳を側室たちに知ら示すために使われていた。
自分の気に入らない側室や邪魔な側室、またある時は見せしめとして気の弱い側室を選んで部屋移りをさせる。
その時にお付きの侍女たちを全員後宮から追い出し、辛うじて食事の世話は専属の老侍女たちがしてくれるが、ほかは着替えも髪を結うのも自分でしなければならない。
誰も洗濯はしてくれないし、部屋の掃除もしてくれない。
風呂にも入れない上、建物から外に出ることも許されない。
そんな生活は、貴族などそれなりに裕福な家に生まれ育ち、それなりの生活をしてきた側室たちには不便や窮屈どころではない。
もはや苦痛であり屈辱である。
そうやって冷遇することで自らの権威を示すという、なんとも陰湿なやり方である。
冷宮の由来はそこから来ているのかもしれない。
もちろん側室たちもただ手をこまねいているわけではない。
宮官長より立場の強い者に庇護を求めることで保身を謀ったのである。
それぞれの宮にいる権力者、つまり
このおかげで三人に宮官長と並ぶ……いや、宮官長以上の権力が集まることになったのだが、そもそも宮官長も皇帝の通いがある側室は、どんなに気に入らなくても冷宮に送ることは出来なかった。
その八つ当たりが気の弱い側室に向くのである。
もちろん皇帝の通いがない、気の弱い側室にである。
そんなことをおさらいした翠琅は、いまさらながらあることに気づく。
(わたしには知らぬと仰っていたが、どう考えても母上は冷宮の存在をご存じだったはず。
なぜそんなすぐにばれるような嘘を吐かれるのか……母上にしては珍しいことだ)
「太子、どうかされましたか?」
双子の方割れが潜めた声を掛けてくる。
「
「もうよろしいでしょう。
いつまでそんな茶番をお続けになるのか」
呆れた調子で言われるともう片方が続ける。
「そもそも御身がこんなところにいらっしゃる必要はございません。
今からでも母君の宮へいらっしゃっては?」
「この後に及んで邪魔者扱いをするか。
そういえば
「二人ほど付けて渡り殿に回らせました。
例の老宦官の部屋が近く、
「あれって……可愛い従姉妹をそんな風に呼ぶものではないよ」
「わたくしどもは面識がございませんので」
「そうなんだ。
だいたいお前たちもこんな前に出なくても……。
わたしのことばかり言えないだろう」
「わたくしどもとはお立場が違いましょう」
「そう言われても……一応ね、見届けておこうと思って」
翠琅はそう話しながら少し離れた建物に視線を送る。
本来は明かりの入るはずのない、この冷宮と呼ばれる建物の主人が使う部屋である。
だがそこには今、明らかに明かりが入っている。
皇太子
酒に酔った誠豊が怪我をした翌朝、蘇妃の侍女が後宮の医局に眠り薬を取りに来たという。
菓子に仕込むため、今までも薬は逢瀬の数日前に取りに来ていたことがわかっていたから、この時もてっきり誠豊の怪我が治るまで使わないだろうと思われていた。
だから琳瑶から合図があったと報告を受けた時、翠琅は心底呆れた。
(どこまでも猿だな)
するべき仕事を全て翠琅に押しつけて遊びほうけているとはいえ、皇太子は皇太子。
迂闊なことは言えない。
誠豊自身はとんでもなくボンクラだが、その側近までがボンクラ揃いというわけではないから、翠琅も用心に用心を重ね、迂闊なことは決して口にはせず。
かねてから準備していたことを実行すべく、王宮が夜の闇に沈むのを待って行動に移したのである。
誠豊と蘇妃が部屋に入るのは見届けた。
その際、一緒にいたのは二人の老侍女と、誠豊と蘇妃、それぞれが連れた侍女が一人ずつ。
ここが後宮ということで油断しているのだろう。
「腹違いとはいえ、兄君を追い落とすのは気が引けますか?」
「誠豊殿とは、お世辞にも仲がよいとは言えないことを知っているだろう?
相変わらず性格が悪いことを言う」
通称 「双月」 と呼ばれる双子は見た目もそっくりだが声もそっくりで、この闇の中では見分けも聞き分けも出来ない。
そんな双子の嫌味に呆れたように返した翠琅は一度言葉を切り、口調を改めて続ける。
「堕ちる様を、この目に焼き付けておくのもいいだろう。
その日が我が身に訪れることのないように、教訓として刻んでおく。
それに、今も昔もわたしの兄は亡くなった
弟は
他にない」
「仰るとおりにございます」
「そろそろいい頃合いだろう。
母上のお望みどおり、この廃屋ごと
「御意」
動き出せばもう止まれない。
そしてあっけないほど簡単に決着する。
丹貴妃が手配した用心深い誠豊の側近も後宮には入れない。
その後宮で誠豊はやらかしたのである。
いや、お目付役たちがいないからこそ後宮でやらかしたのかもしれない。
しかも人目を忍ぶため侍女を一人しか連れていないという軽率さである。
片や翠琅は、決して油断することなく信頼のおける武官を揃えて短期決戦に挑んだ。
そしてその狙いどおり、いともあっさりと決着したのである。
本来ならばこの建物の主人が住まうはずの主寝室。
まずはその次の間に大男の
蘇妃と誠豊に仕える若い侍女である。
だが年の功とでもいうべきか?
老侍女二人は驚きこそしたけれど、上げた声は悲鳴ではなく不意の来訪者の正体を
「何者!」
「後宮に許しなき男子が入るとは何事か!」
「許しならある。
お前たちこそ、誰の許しを得てわたしにそんな口を利いているのだ?」
最初に突入した恵彫。
そしてそれに続いた同輩の武官たちのあいだから翠琅が姿を現わす。
やや背を逸らし気味に腕組みをした翠琅は、驚き怯える若い侍女二人と、驚きながらも果敢に挑むような目を向ける二人の老侍女を順に見る。
「……まぁいい。
確かに、礼を欠いた訪問だったからな」
そう言うと武官に命じる。
「見張っておけ。
逃げようとしたり抵抗するならば容赦はいらぬ。
どうせ末路は同じだ」
武官たちが指示に頷くのを見て、今度は奥の寝室に続く扉を見る。
そして言う。
「さて、猿の顔を拝みに行くとするか。
ああ気分が悪い」
その足が床を離れるタイミングに合わせて恵彫が扉を開こうとするが、一瞬の躊躇いを見せた老侍女の一人が立ち上がり、自分のすわっていた椅子を両手で持って頭上に振り上げる。
「行かせるかぁ!!」
直後、老侍女の背後に回り込んだ武官の一人が抜刀。
老いた背に容赦ない一太刀を浴びせる。
老侍女渾身の力で振りかぶった椅子は、掴む腕や指が力を失い激しい音を立て老侍女諸共床に落ちる。
その音で再び若い侍女が悲鳴を上げ、もう一人の老侍女は逃げようとして、武官に卓や椅子を蹴ったり押したりして近づかせまいと足掻く。
だが翠琅は侍女たちの抵抗の末路を見届けず、まるで興味のない様子で恵彫の開いた扉の向こうへと、「双月」 と呼ばれるそっくりな顔をした二人の青年、それに恵彫を伴う。
わずかな灯りしかない寝室には誠豊と蘇妃の二人だけ。
寸前まで寝台で睦み合っていた二人はほぼなにも着ていない状態で、情けないことに誠豊は蘇妃の背後に隠れようとしていた。
「な、なにごとですか!」
蘇妃は蘇妃で、愛しい男を守ろうとして震えながらも果敢に翠琅に正体を問い質す。
だが翠琅は蘇妃を一瞥しただけで、その背に隠れるようにしている誠豊を見る。
そして誠豊と翠琅の目が合った瞬間、誠豊が怒声を上げる。
「
貴様、なんのつもりだっ!!」
「なんのつもり?
誠豊殿、それはわたしが伺いたい」
翠琅は鼻でフッと笑ってから言葉を継ぐ。
「父親の側室を寝取るとは、いったいどんな倫理観をお持ちか?
汚らわしい」
「貴様……こんなことをして、ただで済むと思うなよ」
「なんとでも。
そもそも恨むならば丹真玉を恨むのですね」
「なに?
母上がなにを……?」
本当に誠豊は知らないのか?
あるいは知っていてすっとぼけているのか?
翠琅は一歩寝台に近づいて話を続ける。
「あなたが皇太子になれたのは降って湧いた幸運だとでも?
本当にそんなことを信じているのなら幸せな方だ」
「どういうことだ?
朱麗は……」
「ああ、あなたのその汚い口で兄上の御名を呼ばないでもらいたい」
「碧霞……わたしも貴様の兄だということを忘れたか!」
「なんて気分の悪い。
わたしの兄は忉朱麗一人。
貴様のようなクズがわたしの兄であるはずがない」
「く、クズ……だと……?
貴様! このわたしにそのような口を利いて、ただで済むと思っているのかっ?」
「済むでしょうね。
あなたには速やかに皇太子を下りて頂く」
「そのようなことが簡単にできると思うなよ」
誠豊は上目遣いに翠琅を睨む。
だが翠琅は怯むどころか、思い出したように連れてきた双子を誠豊に紹介する。
「そうそう!
この捕り物に立ち会っているこの二人をご存じですか?」
翠琅が示す二人があまりにもそっくりな顔をしていたため、誠豊はなぜか挙動不審になる。
そんな誠豊に 「双月」 と呼ばれる二人が順番に名乗る。
「ご挨拶が遅くなりました。
「同じく、
「
なぜ黎家の息子がっ?」
双子の正体を知って驚く誠豊に翠琅は説明する。
「もとよりこの二人とは友人ではございましたが、奇縁により
あなたの愚行の証人になってもらうことにしたのです。
これ以上心強い証人は他にいますまい」
「貴様……」
「わたしや母上、紺斐の嘆きを思い知るがいい」
「いったい母上がなにをしたというのだっ?
皇太子位なんぞ欲しいのならくれてやる!
だから……」
命だけは助けて欲しい
異母兄としての矜持が邪魔をするのか。
最後まで言うことが出来ない誠豊に翠琅は冷ややかに返す。
「機会があれば丹真玉に直接訊いてみるといい。
残念ながら、わたしにあなたの処遇を決定する権限はない。
けれど可能な限り……」
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