第拾肆話 逃亡

 女性の悲鳴から始まった騒動は、ゆっくりと後宮中に広がってゆく。

 その最中、冷宮にある自分の部屋でおとなしくしていた琳瑶りんように掛けられる声があった。


「琳瑶様ですね?」


 後宮に連れて来られたあの日、安子あんしに持たされた着替えの入った包みを持たされた。

 中に入っていたのは、事前に安子が琳瑶の箪笥から勝手に持ち出した古着である。

 その包みを膝に置いて寝台にすわり、目を閉じる。

 すると耳に意識が集まり、遠くから聞こえてくる騒ぎがよく聞こえてくる。


 男とも女とも判別のつかない激しい怒声は、激しい物音に掻き消されてなにを言っているのかわからない。

 わからないけれど、騒ぎはどんどん大きくなって行く。

 おそらく冷宮周辺に部屋を持つ下級の側室たちが騒ぎに気づき、そこから広がり始めたのだろう。


 ある側室は侍女に騒ぎを確認しに行かせ、ある側室は他の側室に助けを求める。

 そうして後宮中に騒ぎが広がる様子に耳を澄ませていた琳瑶は、突然掛けられた声にハッとする。

 目を見開いて顔を上げると、いつのまに入ってきたのか、戸口に若い侍女が一人佇んで琳瑶を見ていた。


「あ、の……」


 恐怖と緊張で声がかすれる。

 尋ねたい言葉も出てこない。

 けれど侍女は心得たように、ひっそりと、穏やかに話し掛ける。


翠琅すいろう様のお言いつけでお迎えに参りました。

 さぁわたくしども・・とご一緒においでください」


 なぜ複数形なのかと思えば、腕を引かれて出た部屋の外にもう一人、同じ衣装を着た同じ年頃の侍女が、火のついた手燭の灯りを袖で隠すように持って待っていた。

 なんとなく琳瑶にも翠琅の正体はわかっていたけれど、明確に 「誰か」 とはわからない。

 翠琅もなにも言わなかったからわからなくて当然なのだが、おそらくこの侍女たちは翠琅の背後に見え隠れしていた 「黒幕」 に仕えているのだろう。


「さぁこちらへ」


 琳瑶の私室は三つの私室で一つの居間を共有する一部屋で、正面にある扉が外の廊下に面している。

 迎えに来た侍女に急かされて廊下に出ると、冷宮の主寝室で起っている騒ぎがさらに大きく聞こえてくる。

 冷宮そばの部屋は元々空いているため、いつものこの時間は真っ暗になる。

 だがこの夜は騒ぎを聞きつけたのか、側室たちが目を覚したようであちらこちらの部屋や宮に灯りがついて、いつになく明るくなっていた。


「さぁ、お早く」


 迎えに来た侍女に促された琳瑶は、どんどん大きくなる騒ぎに足音を紛らわせ、他の建物から届く薄明かりの中を早足に進む。

 冷宮と近隣の建物は軒先が重なるほど近くに建っているが、実際に建物と建物を繋ぐ渡り殿は二カ所しかない。

 他には庭院にわを歩くしかないが、この暗さでは危険である。

 なにしろ毎日琳瑶が掃除をしていたのは自分の部屋の周辺だけで、冷宮周辺は雑草が生い茂り、落ち葉が吹き溜まっている。

 蛇やムカデなどもおり、この暗さの中ではとても歩けたものではない。

 迎えの来た侍女の一人が手燭を持っているが、むしろその灯りが人目についてしまう。

 だから二カ所しかない渡り殿を渡るしかないのだが、迎えに来た侍女が急いでいるのには理由があった。

 その危惧が、渡り殿に差し掛かった時に現実となる。


「待て、お前たち!」


 手燭を持った侍女を先頭に、早足に渡り殿を渡ろうとしていた三人を、うしろから男の声が呼び止めたのである。

 琳瑶はそのしわがれ声に聞き覚えがあった。


 老宦官である。


 反射的に足を止めてしまった琳瑶は、包みを抱える両腕に力を込めて全身を強ばらせる。

 だがその背を、琳瑶の後ろから来ていた侍女が押す。


「さぁ」


 押しながら肩越しに囁くように声を掛けてくる。


「でも……」

「お前たち、どこに行く!

 いったい何の騒ぎだっ?」


 戸惑う琳瑶の声を掻き消すように、混乱も露わな老宦官がさらなる声を上げる。

 肌着のまま、髪も乱れていたから、おそらく寝ていたのだろう。

 聞こえてきた騒ぎに慌てて部屋を飛び出したら、冷宮を出ようとしている琳瑶たちを見つけたのだろう。


 だが三人に事情を聴きたいだけなのか、それともとりあえず拘束しようとしたのか。

 おそらく本人もわかっていないのだろう。

 そのぐらい混乱している様子が見て取れる。

 琳瑶の後ろを来ていた侍女が琳瑶を隠すような素振りをすると、老宦官はその侍女の袖を鷲掴みにして捕らえようとする。


「なにをする!」


 声を上げた侍女が乱暴に振り払おうとするけれど、老宦官も相当混乱しているらしく加減を忘れている。

 逃すまいと袖を鷲掴みにし、振りほどこうとする侍女ともみ合いを始めようとした矢先、渡り殿のから声が掛けられる。


「そこでなにをしているっ!」


 どうやら老宦官とのやり取りや騒ぎで、琳瑶はもちろん、老宦官も二人の侍女も、草を踏み分けながら近づいてくる足音に気づかなかったらしい。

 建物の外側から回り込んできた人物は暗がりにいて顔は見えないけれど、声はまだ若い男である。

 だが翠琅ではない。

 もちろん恵彫けいちょうの声でもない。


 突然掛けられたその声に、驚いた老宦官と侍女がピタリと動きを止める。

 すると直後に訪れるわずかな沈黙のあいだに、頼りない手燭の灯りで二人の侍女と老宦官の姿を確かめたらしい。

 再び男は言う。


「どちらの侍女が存ぜぬが、今宵は部屋でおとなしく過ごされよ。

 早々に戻り、側室主人にもそう伝えられよ」


 どうやら騒ぎをきいて様子を見に来た野次馬と思ったらしい。

 老宦官の手を振り払った侍女は居住まいを正す振りをして琳瑶を隠すと、暗がりに立つ男を見る。


「申し訳ございません。

 そのようにお伝えいたします」


 話を合わせて野次馬の振りをするのはいいけれど、あえてなにがあったのかは訊かずこのまま立ち去ろうというのだろう。


「失礼いたします」

「いや、待て。

 どこの侍女だ」


 なぜかここで老宦官が食い下がってくる。

 だがその足を暗がりに立つ男が留める。


「貴殿はこの宮の宦官だな」

「お前たちは……武官?

 宦官ではないなっ?

 どうして後宮に……っ?!」


 今頃になってそのことに気がついた老宦官は驚くけれど、いつのまに近づいてきていたのだろう。

 気配を消してひっそりと近づいてきた男が老宦官の背後に現われた……と思ったら、有無を言わさず老宦官を羽交い締めにする。


「なんだ?

 誰だ?

 なにをす……っ?!」


 老宦官は振りほどこうと暴れるけれど、力の差は歴然である。

 挙げ句に 「お静かに」 と口まで塞がれる。

 そこに渡り殿の下にいた男が、高欄に手を掛けて跳び上がったと思ったら軽々と乗り越えて渡り殿に立つ。


「一緒に来てもらおう」


 そう老宦官に声を掛けながら、背後に立つ侍女たちに、背中で 「早く行け」 と手を振って合図を送る。

 すると手燭を持った侍女はすぐさま踵を返し、もう一人の侍女も琳瑶を抱えるように歩き出す。

 そのあとはどこをどう歩いたのかよく覚えていない。


(東に向かってる?)


 なんとなくそれだけはわかった。

 けれど下女をしていた頃も、東の建物は皇族が多いこともあり、失礼があってはいけないからと新入りの琳瑶は近づかないよう言われていた。

 だから侍女たちが東の建物に向かっていること以外は全くわからなかった。


 離れた冷宮での騒ぎに気づいて目を覚したらしく、途中の廊下はどこも煌々と灯りが灯され、侍女たちが慌ただしく行き交う。

 おそらく側室も目を覚しているのだろうが、彼女たちが部屋から出てくることはない。

 代わりに侍女たちが状況の確認をしようと慌ただしく走り回っていた。

 そんな騒ぎの中を抜けて琳瑶が連れて来られたのは東の建物の一角にある部屋で、迎えに来た侍女の他に三人の侍女が待っていた。


 手燭を持って先導する侍女が部屋に入ると、琳瑶も、うしろから来るもう一人の侍女に背を押されるように続いて入る。

 そこは泰家たいかにある琳瑶の部屋よりも広く、父昌子しょうしや継母艶麗えんれい、それに異母姉蘭花らんかの部屋よりもずっと豪華な装飾で彩られていた。

 そして迎えに来た侍女たちと同じ衣装を着た侍女がもう三人、琳瑶たちの到着を待っていた。


「ご無事でなによりでございます、琳瑶様」


 三人を代表して一番年長らしい侍女がそう言うと、他の四人の侍女も琳瑶に向けて頭を下げる。

 泰家の娘でありながら今までそんな扱いを受けたことがない琳瑶は、どうしていいかわからず、包みを抱える腕に力を込めて身を小さくする。


「あの、ここは……」

「こちらは皇后様の宮でございます」

「皇后様……?」


 琳瑶も、なんとなく翠琅の背後にいるのは皇族だろうと思っていた。

 翠琅も 「高貴な御方」 と言っていた。

 だから皇族を想像していたのだが、よもや皇后とは……。

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