第拾参話 静かな夜


 その夜、琳瑶りんようは早めに就寝した。

 前夜、誠豊せいほうが起こした騒ぎで寝不足だったからである。

 でも灯りを消す前に一つだけ、忘れずにしたことがある。

 昼間、琳瑶の不在中に人知れず卓に置かれていた翠琅すいろうの手紙を処分することである。

 その末尾で指示されていたとおり蝋燭の火で燃やしてから灯りを消し、寝台に横たわる。

 昨夜とはうってかわって静かな夜、ゆっくりと目を閉じると、眠いにもかかわらず涙がにじんでくる。


(クソ皇太子様!)


 一昨日の夜に翠琅がしていた話では、皇太子誠豊と蘇妃(そひ)は、あまり日を空けずに逢瀬を重ねているという。

 これを翠琅は 「猿どもめ」 と吐き捨てていたが、だからまた近々逢うだろうとも言っていた。

 それはつまり琳瑶が薔薇そうびと会える日も近いという意味だったのだが、昨夜の騒ぎで誠豊が怪我をした。

 翠琅の手紙に怪我の具合までは書いていなかったけれど、怪我が治るまでは冷宮には行かないだろうと書かれていたのである。

 それはつまり、誠豊の怪我が治るまで琳瑶も冷宮を出ることが出来ず、薔薇に会えないことを意味していた。


 もともと具体的に何日後とか数字で示されたわけではないけれど、あと数日と思いもよらない早さを聞かされてしまったから余計に悲しかったのかもしれない。

 鼻をすする音がやたら大きく聞こえて恥ずかしかったけれど、やはり寝不足だったから知らないうちに眠ってしまっていたらしい。

 翌朝、不鮮明な水鏡でもわかるくらい瞼が腫れていて余計に恥ずかしかった。


 そんな顔を見られたくなくて朝食の席でもうつむき加減にしていたが、元々老侍女たちは琳瑶に興味がない。

 少し挙動不審に思われたかもしれないけれど、特に追及してくることもなかった。

 いつものように寝具を廊下の高欄に干すと、やはりいつものように箒を取りに行って庭院にわと呼ぶのもおこがましいほど狭い空間を掃除する。

 夕方には瞼の腫れも引いてホッとしたけれど、いつものように夕食を運んできた老侍女が、最後に菓子を乗せた皿を卓に置くのを見て緊張する。


 翠琅の手紙には、誠豊は昨夜の騒ぎで怪我をして当分冷宮には行かないと書いてあった。

 それなのに菓子が出されたので驚いたのである。


「あの……」


 思わず老侍女に声を掛けてしまう。

 けれど老侍女は琳瑶の言葉をそれ以上は聞かず、以前と同じことを言う。


「奇特な側室様からの頂き物だよ。

 礼なんてお伝えしたらあちらにご迷惑が掛かるんだ。

 あんたはおとなしくいただきな」

「……はい……」


 夕食の一番最後に菓子に口をつけると、老侍女は、琳瑶が菓子を食べ終えるのを待たずに食器を下げる。

 菓子を乗せた皿は明日の朝、朝食の皿と一緒に下げるからと言い残して下がってゆく。

 いつもどおりなら、今夜はもう、老侍女が琳瑶の部屋に来ることはない。


 平静を装って菓子に口をつけた琳瑶は、老侍女はそこまでを見届けてすぐに食器を片付け始めたので、そのあとは食べる振りをしてやり過ごし、老侍女が無言で食器をもって下がると、部屋の扉を閉めるのを待って皿に吐き出す。


 食べ物を粗末にしてはいけないことはわかっている。

 特に後宮に来てからそのことを実感したけれど、このまま菓子を食べればもう薔薇とは会えないかもしれない。

 それどころかこの先一生、後宮からも、冷宮からも出られないかもしれない。

 なんとしても薔薇に会うという固い決意で菓子を吐き出した琳瑶は、老侍女が部屋から十分に離れるのを待ってそっと廊下に出る。


 最初は片手に菓子を乗せた皿を持ち、もう一方の手に燭台を持とうとしたけれど、少し考えて燭台はそのままにしておく。

 部屋から漏れる灯りはほとんど廊下まで届かないため、合図をしても気づいてもらえないかもしれないと思ったのだが、実際は周辺の建物に灯りが全くないため、琳瑶が思っている以上に部屋から漏れる灯りは外からでもよく見えていた。


 そっと部屋を出た琳瑶が最初にしたのは皿の上の菓子を捨てること。

 食べていないことが老侍女たちにばれないようにするためである。

 明日、庭院にわを掃除した時に掃き集めた落ち葉などと一緒に捨ててしまえばわからないと思ったのだが、そもそもこれは必要のないことだった。

 明日の朝……いや、夜が明ける前には冷宮を出るのだから。

 だが具体的なことを翠琅が教えてくれなかったから、琳瑶はいつものように明日が来ることを考えたのである。


 そのあと部屋に戻る時、翠琅に言われたとおり廊下に面した扉を何度も開け閉めする。

 暗くてよく見えないかもしれないと思って、それこそ何度も何度も大きく開け閉めをした。

 それこそ少し息が切れるくらい。

 腕が怠くなるほど繰り返した。

 そして静かに部屋に戻ると時を待った。


 この夜は蝋燭の明かりを消さず、寝台に腰掛けてすわり、後宮に連れて来られた時に安子に持たされた包みを膝に置く。

 扉の合図で少し温まった体もおとなしくすわっているとすぐに冷えてきたから、先輩下女にもらった綿入れを着て、じっと待つ。


 そうしてどれぐらい経っただろうか?

 針を落とす音さえ聞こえてきそうなほどの静寂の中、かなりの早さで近づいてくる足音が聞こえてくる。

 この時の琳瑶は、薔薇と会えるかもしれない期待や喜びより不安が大きかった。

 いや、不安しかなかった。


 おそらく老侍女たちは誠豊と蘇妃を迎えるための準備に忙しく、琳瑶のことを気にしている余裕はないはず。

 そもそも眠り薬入りの菓子を食べさせたから気に掛けるつもりもないだろう。

 だがそれも食べ終えるのを見届けないお粗末さだったけれど、おそらくあの二人は琳瑶の部屋には来ない。


 老宦官は?


 いつかの夜、老宦官は薬入りとは知らず菓子を食べてしまった。

 そしてぐっすりと寝入ってしまったことを老侍女たちはぼやいていた。

 翠琅もその話を聞いて、老宦官は老侍女や誠豊たちとは関係ないだろうと話していた。

 でもきっと、誠豊と蘇妃の逢瀬を見られないようになにか手を打っているはず。

 そのへんの事情を琳瑶は知らないし知りようもないのだが、今夜も老宦官は寝入っているはず。


 だからこの近づいてくる足音は、翠琅が差し向けた琳瑶の迎え……のはず。

 だがあるところまで来るとピタリと止まり、部屋に入ってこない。

 これは琳瑶のほうから出ていったほうがいいのかとも思ったのだが、万が一にも翠琅が差し向けた迎えではなかった時のこともある。

 琳瑶がどうしたらいいのか迷っているうちに、夜の闇に沈んだ後宮に悲鳴が上がった。


 最初に聞こえた悲鳴はおそらく女性のもの。

 蘇妃だろうか。

 あるいはお付きの侍女だろうか。

 わからないけれど、おそらく女性のもの。

 続いて幾つもの怒声が上がるけれど、激しい物音に掻き消されてなにを言っているのかわからない。

 わからないけれど、騒ぎはあっという間に広がる。


(怖い……)


 昨夜の誠豊の騒ぎなど比ではない。

 今まで聞いたこともないほどの騒ぎに琳瑶は恐怖を覚えるけれど、翠琅には部屋でおとなしく待っているように言われている。

 もし部屋を逃げ出しても、夜の後宮をどこに行けばいいのかもわからない。

 膝に置いた包みを握りしめてじっと堪えていると、不意に呼びかける声があった。


「琳瑶様ですね?」

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