第拾弐話 騒動

「あと、約束は守ってもらうよ」


 翠琅すいろうはそう言い残し、恵彫けいちょうを連れて闇の中に帰っていった。

 琳瑶りんようはこの約束を 「菓子を食べてはいけない」 ということだと思った。

 ついでに合図を送ることも忘れてはいけない、そういうことだと思った。

 実は琳瑶が翠琅と交わした約束はもう一つあったのだが、この件とは関係のないことだったこともありすっかり忘れていたのである。

 このあとも綺麗さっぱり忘れており、よりによって最悪なタイミングで思い出さされることになるのだが、それはもっとずっとあとのことである。


 だから覚えていた約束を守り、老侍女たちが持ってくる菓子には注意していた。

 注意はしていたのだが、この日、夕食を運んできた老侍女は菓子を持ってこなかった。

 翠琅は恵彫を連れて去る前に


「猿のことだ、また数日の内に逢うだろうよ」


 そう言っていた。

 だからそんなに琳瑶を待たせることはないとも言っていたのだが、騒ぎがあったのは、琳瑶が皇太子誠豊せいほう蘇妃そひの逢瀬を目撃した翌夜のこと。

 この日の夕食に老侍女は菓子を持ってこなかったし、昨夜は翠琅と話し込んで夜更かししてしまい朝は寝坊をしてしまった。

 それでもまだ眠かったからこの夜はさっさと休むことにしたのだが、ほぼかび臭さのなくなった寝具にくるまり、うとうとし始めた頃、意識の遠いところで物音が聞こえてきた。


 最初はかすかな物音だったが、やがてそれは大きくなり、どんどんはっきりしてくる。

 それが人の足音だと気づいた頃には話し声も聞こえてくる。

 やがてそれが普通に話しているのではなく酷く荒らげた声だと気づくと、次第に話していることもはっきりと聞こえてくる。


「皇太子、どうぞ、お静まりを!」

「うるさい!」

「今日はお約束の日ではないだろう!」

「なぜ太子がいらっしゃったのだ!」

「それが……」

「いないならいないで、島流しになった媛がいるだろう。

 今夜はそやつに相手をさせればいい」

「太子!」


 昨夜、蘇妃を愛しげに呼んだ声とは似ても似つかない皇太子誠豊の声は、明らかに呂律が回っていない。

 おそらく酔っているのだろう。

 そして二人の老侍女の声もまた、いつもとは全く違うものだった。

 いつもの彼女たちからは想像もつかないほど慌てふためいており、時折怒鳴りつけている相手は、おそらく皇太子の侍女だろう。

 そして聞き慣れない女の声はその皇太子の侍女と思われる。


 さらには今夕に菓子が出なかったことを考えると、今夜、蘇妃との約束もないのに誠豊が冷宮にやってきたということだろう。

 しかも酔っていて大きな声を出したり暴れたりしているから、さぞかし侍女たちは困っているだろう。

 だが琳瑶にとっての問題はそこではなかった。


(こっちに来てる?)


 そう、騒ぎがどんどん近づいてきているのである。

 誠豊が喚き散らしていた 「島流しになった媛」 とはおそらく泰嬪たいひんこと蘭花らんかのこと。

 約束をしていなかったためにいない蘇妃の代わりに、蘭花に酒の相手でもさせようというのだろうか。

 もちろん本当は違うけれど、皇帝が側室の部屋に通ってなにをしているのかを知らないためそんなことを思ったのだが、琳瑶の歳では酒の相手だって出来ない。

 そもそも冷宮にいるはずの蘭花ではないのである。

 このまま皇太子が部屋にやってくれば、蘭花の身代わりとして琳瑶がいることがバレてしまう。

 琳瑶も当然焦ったけれど、おそらくそれ以上に老侍女たちは焦っていたに違いない。


「この部屋かぁ~?」

「皇太子!」

「どうぞ、おやめください」


 そんなやり取りやバタバタとした足音、それに乱暴に扉を開け閉めする音が聞こえてくる。

 どうやら誠豊は本気で泰嬪を探しているらしい。

 もちろん老侍女たちも必死にそれを止めているのだが、誠豊は二十二歳という若さである。

 特に武術などで体を鍛えていなかったとしても、その腕力や体力は老侍女たちの手に負えるものではない。

 誠豊付きの侍女にしても同じである。


 このままではいずれ見つかってしまう。

 そして泰嬪ではなく身代わりの下女がいることがバレてしまう。

 だがいまさら逃げようとして部屋から出ても、却って見つかってしまうかもしれない。

 逃げるなら声がもっと遠いうちにすべきだったのだがもう遅い。

 寝台の上で体を起こして小さくなっていた琳瑶は近づいてくる騒ぎに耳を澄ませる。

 琳瑶がいる部屋まであと少し……というところで、不意に板を割るような音とともに悲鳴が上がった。


「あぎゃっ!!」


 なんとも無様な誠豊の声である。

 その声が上がる直前に聞こえた音で琳瑶はハッとする。


(踏み抜いた?!)


 本来はとっくの昔に取り壊されているはずの冷宮は、あちらこちらにガタ以上のものが来ており、そこら中で床板も腐っている。

 丁度琳瑶が使っている部屋近くの廊下にも数カ所、今にも抜け落ちそうになっている場所がある。

 おそらく誠豊はそこを踏み抜いたのである。


 明るい時間ならともかく、不慣れな場所でもある。

 灯りで照らしても、おそらく千鳥足では避けられなかったのだろう。


「皇太子様!」

「お、お怪我はっ?」

「すぐにお助けいたします!」


 そんな慌ただしい声が聞こえてくる。

 床板を踏み抜いて途中で引っ掛かっているのか、あるいは床下まで落ちたのか。

 わからないけれど、どうやら侍女たちの手には負えなかったらしく、しばらくして宦官が呼ばれた。

 おそらく蘇妃がいなかったこともあり、日頃から素行の悪い誠豊が、この日も酒に酔って後宮で暴れたということにでもするつもりなのだろう。

 そうすれば二人のことはばれないし、言い訳としても違和感はないというわけである。


 当然のように翌日の後宮はこの騒ぎでもちきりになる。

 たん貴妃きひはさぞかし苦い思いをしているに違いない。

 他に老侍女も、二人とも顔に痣やひっかき傷が出来ていた。

 それに酷く疲れた様子だったから、誠豊の暴れっぷりがうかがい知れる。


 琳瑶は朝食の時、明るい部屋でそんな老侍女の様子を見たのだが、あえてなにも訊かず。

 老侍女もまた、琳瑶の視線や表情に気づいていたはずだが、あえてなにも話さない。

 おかげで気まずい朝食になってしまった。


 それでもなにも言わずに食事を終わらせると、いつものように寝具を廊下の高欄こうらんに干し、庭院にわと呼ぶのもおこがましい空間の掃除をする。

 けれどあの庭石の向こうに翠琅が来ることはもうない。

 一昨日の夜、別れる前に翠琅がそう言っていたのである。


「わたしだって暇ではないんだよ」


 何度もそう言っていたけれど、本当に忙しいらしい。

 だから用のない時にまで来ることは出来ないし、なによりも誰かに見つかるわけにはいかない。

 ただでさえ老侍女たちは酷く警戒している。

 少しでも翠琅たちの気配に気づけばさらに警戒を厳しくするだろう。

 そのリスクを避けるためにももう来ないと言っていたのである。


 そして琳瑶にはこれまでどおりの日々を送ること。

 約束を守ること。

 時が来れば翠琅の遣いとわかる迎えが来るので、おとなしく指示に従えば薔薇そうびに会える。

 そう言っていた。

 だからもう庭石の陰に翠琅は来ないし、もう会うこともないかもしれない。

 そう思っていたのだが、意外な形で翠琅からの連絡があった。


 昼頃、休憩をしようと琳瑶が自分の部屋に戻ると、卓の上に置いていた燭台の下に紙が挟んであったのである。

 夜以外は老侍女か老宦官に見張られている琳瑶だが、昼間でも、部屋に戻ると彼らは室内には入ってこない。

 いつも少し距離を取って見張っており、琳瑶が部屋に戻ると出入り口を見張るのである。


 それでも隙間からのぞき見られているかもしれないと思った琳瑶は、燭台の下からそっと紙を引き抜くと、さりげなく戸口からは死角になる寝台にすわる。

 そしてこっそりと二つに折りたたまれた紙を開く。

 そこには大人の文字で短い文章が書かれていた。


 手紙の差出人はもちろん翠琅だ。

 内容を要約すると、昨夜の騒ぎで誠豊が怪我をしたため、治るまでは冷宮には行かないかもしれないといったものである。

 それはつまり、誠豊の怪我が治るまで琳瑶も冷宮を出られないことを意味していた。


(クソ皇太子様!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る