第拾壱話 火薬庫 弐


「あの、たん貴妃きひは皇太子様の……その、蘇妃そひ様とのことをご存じなのですか?」


 丹貴妃が皇太子誠豊せいほうと蘇妃の道ならぬ恋を知っていたら諫めてくれるはず。

 だが二人は現在進行形で逢瀬を重ねているということは知らないということだろう。

 では丹貴妃が二人の仲を知れば、事がおおやけになる前に二人を引き離そうとするのではないか?

 想い合う二人には辛いかもしれないけれど、公になれば重い処罰を受けなければならない。

 それよりは……と考える琳瑶りんようだが、丹貴妃はそんなに甘い人物ではないと翠琅すいろうは話す。


「知っていて黙って見ているのだとしたら、あの方のことだ、どうせまたろくでもないことを企んでいるだろうね」

「ろくでもないこと?」

「そう、ろくでもないこと。

 この後宮内では、どんなに隠しても噂というものはすぐに広まってしまう。

 蘇妃の懐妊で不義が明るみに出れば、まず皇帝が赤っ恥を掻く」


 本来臣下としては許されないが、翠琅は皇帝になにか思うことでもあるのだろうか。

 あまりにも楽しそうに話すものだから、それまで口を噤んでいた恵彫けいちょうが遠慮がちに口を挟む。


「翠琅様、お言葉が……」

「本当にお前は固いね、まったく」


 だが反省する気も言い直す気もない翠琅はそのまま続ける。


「皇帝の通いがない側室が懐妊となれば、すぐさま相手は誰かという話になる。

 丹貴妃のことだから、適当な太子に罪をなすりつけるだろう」

「そんな……」


 驚く琳瑶だが、やはり翠琅は気にせず話を続ける。


「そういう方だからね、丹貴妃は」

「でも、蘇妃様が違うといえば?」

「蘇妃自身は罪をまぬがれることは出来ない。

 ならば家族に累が及ばぬようにしてやるとかなんとか言ってうまく丸め込み、嘘を吐かせる。

 簡単なことだ。

 蘇妃自身が言えば、濡れ衣を着せられた太子がいくら違うといっても身の潔白を証明することは難しい。

 むしろそうでもしないとあの方自身、貴妃の地位を逐われることになるからね。

 誠豊殿を守るためというより、ご自分を守るためといったほうがいい」


 逆に碧霞第三太子紺斐第四太子に罪をなすりつけることが出来れば、今度こそはん皇后を失脚させることが出来る。

 そうなれば、同じ貴妃であっても公主しかいないりゅう貴妃が皇后に立つことはないから、間違いなく丹貴妃が皇后になるだろう。

 むしろそれを狙っている可能性さえあると翠琅は話す。


「だからお二人を見逃しているんですか?」

「かもしれないね」


 丹貴妃の巡らせた恐ろしい権謀術は、まだ翠琅の推測の域を出ていないとはいえ、実現すれば王宮の勢力図が一変する大事である。

 だがそれを翠琅は飄々と話す。

 しかも琳瑶のような子どもに、である。


「あの方は目的のためなら手段を選ばない。

 それこそ実の息子である誠豊殿でさえ、皇后の地位を手に入れるための駒でしかないのかもしれないね」

「そんな……」

「お母様が大好きなあなたには信じられないかもしれないけれど、世にそういう母親は少なくない」

「……翠琅様のお母様も?」


 なんとなく漠然と浮かんだ疑問を口にする琳瑶だが、翠琅は楽しそうに笑みを浮かべるだけ。

 それどころか、とんでもないことを言い返してくる。


「あなたも、大好きなお母様の駒にされないように、せいぜい気をつけなさい」

「お母様はそんなことしません!」


 間髪を置かず声高に言い返す琳瑶だが、翠琅は、やはり楽しそうに笑いながら自分の唇に一本指を立ててみせる。


「声が響くからね」

「……ごめんなさい」


 思わず浮かしかけた腰を寝台に落ち着けた琳瑶は、気持ちを落ち着けるために小さく二回三回と深呼吸をする。

 それからゆっくりと言葉を継ぐ。


「……でも、これで相手が蘇妃様だとわかったのですから、その、皇帝陛下にはお可哀想ですが、大事おおごとにならずに済むんですよね?」

「それはどうかな?」

「え?」


 返される翠琅の言葉が思っていたものとは違っていたため、驚く琳瑶に翠琅は続きを話して聞かせる。


「今……そうだね、明日の朝にでもわたしが告発したとして、猿二人が知らぬ存ぜぬを貫けば証拠はなにもない。

 むしろ猿を陥れようとしたとしてわたしが罰されるだけで終わる」

「えっ?

 でもでも、だってそれは……」


 本当に思ってもない方向に事態が進むと聞いて琳瑶は慌てるが、翠琅はなんでもないことのように、だが琳瑶の言葉を遮るように続ける。


「もちろんそんなは犯さないよ」

「それってつまり、まだなにも出来ないって事ですか?」

「おそらく丹貴妃は蘇妃の懐妊を待って噂を流すだろう。

 あなたも知っているとおり、後宮ここは噂好きが多いからね。

 あっという間に広まるだろう。

 すると噂の真偽を質すため、蘇妃や後宮医が外廷に召喚される。

 当然だが、蘇妃はこれを拒否することは出来ない。

 そして皇帝皇后が揃って臨席する前で詮議に掛けられる」


 そして同席する貴族たちの前で相手の名を白状させられる。

 それが通常の手順である。

 だがそれでは蘇妃は嘘を吐き放題だし、丹貴妃の思う壺。

 濡れ衣を着せられた太子は、弁明の機会は与えられるけれど処分は免れない。

 おそらくはこれが丹貴妃の描く台本シナリオだろう。


「でも、翠琅様はそうならないようにしたいんですよね?」


 自分のことではないけれど少し焦り気味の琳瑶に、翠琅は 「もちろん」 と頷く。


「そもそも懐妊まで待っていられないからね」


 後宮は皇帝の直系以外の成人男子は入れない場所。

 おそらく翠琅たちは特別な許可をもらって入り込んでいると思われるが、自由に動き回れないことはもちろんだが、長い間出入りすることも難しい場所である。

 そのことについては翠琅も


「隠密なんて趣味じゃないし、他にも仕事があるんだよ。

 前にも言ったけれど、わたしも暇じゃないんでね」


 それこそ 「このまま隠密になるならともかく」 とも笑っていた。

 そうなると翠琅たちは短期決戦狙いになるが、そのための策があるのかと思ったら……


「そもそも穏便になんていうのは、陛下が望むだろうというわたしたちの予測に過ぎないわけで、それを望まない御方もいる」

「……ひょっとして、その方が翠琅様たちの……」


 黒幕


 そう言い掛けて言葉を飲み込む。

 あまりいい言葉ではないし、言ってはいけないような気がしたのである。

 翠琅もまた、そんな琳瑶の様子を見て少しだけ申し訳なさそうに笑った……と思ったら言葉を継ぐ。


「そもそもこの冷宮は、すでに導火線に火の付いた火薬庫状態なんだよ。

 馬鹿な猿二人が、自分たちのケツについた火に気づかず点火してね。

 この冷宮もあの二人も、ついでに丹貴妃も、もう命数が尽きてる。

 冷宮ごと吹っ飛ばして、ついでにもう一つ、逃げた泰嬪たいひんのことも片付けないとね」


(そういえばお姉様のこともあったっけ)


 おそらく冷宮を吹っ飛ばすというのは例えだろう。

 だが冷宮で騒ぎが起れば、泰嬪こと琳瑶の異母姉・蘭花らんかがいないことが明るみに出てしまう。

 道ならぬ恋に落ちた二人と自分のことで手一杯の琳瑶はすっかり忘れていたが、まだ余裕があるらしい翠琅はしっかり蘭花のことも覚えていた。

 そしてあの二人と丹貴妃の陰謀だけでなく、蘭花の処分まで一緒にしてしまおうというのである。


 翠琅が調べたところでは、この冷宮と呼ばれる建物はとっくの昔に取り壊されていることになっている。

 それなのに今も残っているのは以前の宮官長の仕業である。

 そんな冷宮を改めて取り壊すというのはともかく、吹っ飛ばすというのは穏やかではない。


「どんな申し開きも通じない状態で猿を取り押さえる。

 それを高貴な御方が望まれ、わたしは断れなかった。

 だからこんな手間を掛けているわけだが、黎家れいかとの約束もあるし、あなたは騒ぎの前に保護出来るように手配してあるから心配しなくてもいいよ。

 もう少しだけ、おとなしく待っておいで」


 おとなしく頷く琳瑶だが、翠琅はふと思い出したように付け加える。


「あと、約束は守ってもらうよ」

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