第拾話 火薬庫 壱


 翠琅すいろうたちは皇太子・とう誠豊せいほうが皇帝の側室と通じていることは、泰嬪たいひんこと琳瑶りんようの異母姉・蘭花らんかが冷宮に送られるより前から知っていた。

 どうやって知ることになったかは翠琅が話さなかったから琳瑶も訊かなかったが、訊いても話してくれないかもしれない。

 あるいは話すまでもないほどくだらないきっかけなのか、難しくて琳瑶には話してもわからないと思われたのか。

 いずれにしても訊けば面倒になることはわかったから、琳瑶もその部分には触れないことにしたのである。

 翠琅が二人のことを調べていた理由についても。


 翠琅の正体についても


 ただ恵彫けいちょうが武官なので、体格的に翠琅も武官ではないか? ……という疑問は持ったけれど、やはり訊かないでおく。

 もちろん面倒になるからである。


 琳瑶はまだ姿を見ていないけれど、恵彫の他にも何人かの武官を使って道ならぬ恋に落ちた二人を調べていた翠琅だが、なかなか相手の側室を特定出来なかったという。

 側室やその侍女たち、それに老侍女たちが翠琅たちに気付いていたわけではなかったが、とにかく用心深かったという。

 おまけに後宮内では翠琅たちも思うように動くことが出来ない。


 どうしたものかと思案していたところに、黎家れいかから琳瑶の捜索協力の依頼が来たという。

 最初に話を聞いた時は 「泰嬪の侍女」 の所在確認だったから、簡単だろうと思って引き受けたという。

 琳瑶が騙されて連れて来られたように、翠琅も黎家に騙されたのである。

 もっとも黎家もたい昌子しょうしにうまく騙されていたわけだが……


「普通にね、後宮で行儀見習いと聞けば誰だって侍女だと思うよね。

 下女も最初にある程度作法を教えられるけれど、貴族の媛が下女になるなんて、普通は考えないでしょ」


 だかられい彩月さいげつが泰昌子に騙されたのは仕方がない。

 だからあの日、琳瑶と翠琅が出会ったのは本当に偶然である。


 奇縁


 黎家と連絡を取り合っているあいだにまた琳瑶を見失ってしまうのだが、思わぬ形で再会出来たのも翠琅は奇縁だと思っている。


「きっとわたしは、あなたや黎家と縁があるのだろうね」


 そんなことを言って笑っていたが、再び琳瑶の所在が不明となったことを知った時はそれどころではなかった。

 さらには泰嬪が冷宮に部屋を移されることになり、これには翠琅たちだけでなく、老侍女たちも驚き、焦ったに違いない。

 そんな老侍女たちから報告を受けた側室やその侍女たちも。

 ただ当事者の片割れである皇太子・忉誠豊だけは例外である。


「あの人は危機感がないというか、なんというか」


 誠豊にははん皇后を生母に持つ異母兄がおり、本来ならば皇太子次期皇帝の座が回ってくる立場ではなかった。

 前皇太子であった異母兄・とう朱麗しゅれいには碧霞へきか紺斐こんひという同母弟が二人いる。

 だから朱麗の身になにかあっても、范皇后の次子である碧霞が皇太子として擁立されるはずだった。


 実際には誠豊が擁立されたわけだが、もしされなくても第二太子という立場に変わりはなく、生母はたん貴妃きひである。

 こちらも范皇后になにかあれば皇貴妃こうきひとなり、皇后として擁立されてもおかしくはない立場である。

 そのため誠豊は生まれた時から第二太子として重んじられてきたのである。


「でもご本人は立場を勘違いしたとんだ猿で。

 いわゆる素行不良というやつだね」


 それこそ子どもの頃から色々とやらかし、そのたびに生母の丹貴妃がもみ消してきたという。

 元々丹貴妃は喜怒哀楽がはっきりした性格で、少し前に蘭花がやらかした時も、本来の彼女なら激怒していたはず。

 宮官長に命じて冷宮送りにしていてもおかしくはなかったのだが、不出来な誠豊を守るため、貴妃としての品をもって側室の範を示さざるを得なかったのである。


 あの時蘭花を陥れようとしたのはしん貴人きじんではないかという噂があったが、もしそうなら、辛貴人は元々の丹貴妃の性格を知っていて、蘭花が丹貴妃の逆鱗に触れるように仕組んだのかもしれない。

 結果として目論見は外れたが、蘭花は冷宮に送られることになったのである。


 だが実際、宦官に連れて来られたのは身代わりにされた下女。

 それも本来ならば年季奉公にはまだ上がれないはずの子どもだった。

 けれど老侍女たちは決して油断することなく、夜中に琳瑶が起きて、万が一にも現場を見られることのないように眠り薬を使うことを思いついたのである。

 ただこれは老侍女たちの案ではなく側室、あるいはその侍女たちの考えだったのかもしれない。


 念には念を


 皮肉にもそんな用心深さが原因で、眠り薬の入手経路から側室の正体が割れることとなったのである。

 そして翠琅たちにとってはようやく……というところで今夜である。


「まったく、油断も隙もない」


 その言葉は皇太子と側室に向けられているものなのか。

 あるいは琳瑶に向けられているのか。

 またあるいはその両方に向けられているのか。

 わからないけれど、とりあえず琳瑶は謝っておくことにした。


「ごめんなさい」

「心細かったのはわからないでもないから今回は許してあげる。

 もう次はないだろうし」


 それは次になにかやらかしたらこのまま冷宮に放置されるということだろうか?

 とっさに身の危険を感じる琳瑶だが、続けられる翠琅の言葉は違うものだった。


「黎家の協力も取り付けられたし、準備が整い次第出してあげるからもう少しだけおとなしくしておいで」


 先程までの不安が一瞬で吹き飛び、パッと琳瑶の表情が輝く。


「お母様に会えるんですかっ?!」

「いい子にしていたらね」

「はい、いい子にしてます!」


 興奮気味の琳瑶は無意識のうちに声が高くなり、翠琅は、答えながらも自身の唇に一本指を立てて 「静かに」 と促す。

 この時の琳瑶は、自分がこの後の政変に関わる取り引きに利用されたことなど知る由もなく、ただただ母薔薇そうびと会えることが嬉しかった。

 翠琅の言葉は今日明日といった約束ではないけれど、会えると思うだけで嬉しかったのである。


「あなたはどれだけ母君が好きなんだい?」

「凄く好きです!

 大好きです!」


 静かにと言われても興奮が収まらない琳瑶に呆れ気味の翠琅は、「そう」 と素っ気なく相槌を打ってから続ける。


「ではいい子にしておいで。

 そうしたらわたしも、なるべく早く母君と会えるようにしてあげるよ。

 あの猿二人も、いつまでも放置しておけないしね」


 相変わらず皇太子や蘇妃を 「猿」 扱いする翠琅は、苦笑いをする琳瑶を前に話を続ける。


「さっさと始末を付けないと、懐妊でもされては厄介この上ない」

「懐妊?」

「やることをやっていれば子が出来てもおかしくはないだろう」


 それこそ現在進行形でお楽しみの最中だと肩をすくめてみせる翠琅の話に、琳瑶は薔薇と会える喜びが冷めてゆくのを感じる。


「子どもって……皇太子様の?

 でも蘇妃様は皇帝陛下のご側室で……」


 琳瑶と会ったあの日、なぜ後宮に十五歳未満の女子が入れないのかを話した蘇妃は、その心配がないとも話していた。

 そして翠琅は蘇妃と皇太子が恋仲だと話す。

 だから蘇妃が懐妊すれば皇太子の子ということになるが、その身分はあくまでも現皇帝の側室である。

 このことによってどういった事態が引き起こされるのか……


「子どもだと思っていたけれど、案外頭が良い。

 これは少し口を滑らせてしまったかな?」


 口では失敗したなんて言いながらも、翠琅の表情には少しの反省も後悔も見られない。

 おそらく確信犯だろう。


「蘇妃に皇帝の通いがないことは周知だ。

 だから本来は懐妊しない」


 相変わらずこの場合の 「通い」 の意味をわかっていない琳瑶だが、話を促すために黙って頷く。


「それなのに蘇妃が懐妊なんてことになれば、当然父親は誰かと詮議になる。

 あなたも知っているだろうけれど、後宮ここに入れる男は皇帝と太子のみ」


 ここで翠琅が話す太子とは現皇帝の直系男子のことで、息子だけでなく孫も含まれるが、現皇帝の兄弟や叔父、甥、またその子らは含まれない。

 つまりそれらの関係に当たる男子は、皇族であっても後宮に入ることは出来ない。


(翠琅様は?)


 今も目の前にいる翠琅を見てそんな疑問を持ってしまった琳瑶だが、以前に尋ねてはぐらかされている。

 おそらく改めて尋ねてもまたはぐらかされるだろう。

 それに今は蘇妃のことが気になる。

 だからあえて黙って話を聞くことにする。


「つまり皇帝は息子の誰かに自分の側室を寝取られたことになる。

 たいした醜聞だ」


 皇太子と蘇妃の道ならぬ恋は、この須彌しゅみ国皇帝の威厳を傷つけるほどの大事と聞いて琳瑶は言葉を失う。


 だがすでに事態を知っていた翠琅は淡々と話す。

 おそらく皇帝は、国の威厳を守るために息子の愚行をおおやけにせず、生まれてくる子と蘇妃を内々に処分する。

 間違っても皇太子も蘇妃も処分せず、気づかない振りをして生まれてくる子を我が子として育てることはないという。


「実際にどうされるかはわからないけれど、おそらくはこれが無難だろうね。

 今の皇帝の代になってすでに一度皇太子の首がすげ変わっている。

 その時は病死として表向きの体裁を整えたが、今回はそうもいかない。

 二度も三度も同じ手は使えないからね。

 だからといって本当のことをおおやけにするのは、宮中のみならず外聞が悪すぎる。

 となれば国とご自身の体面を保つため、皇帝自身が煮え湯を飲むしかない」


 前皇太子が亡くなった後、范皇后を生母に持つ碧霞第三太子と丹貴妃を生母に持つ誠豊第二太子のどちらを擁立するかで宮中は激しく揺れた。

 本来ならば范皇后を生母に持つ碧霞第三太子が次の皇太子となりそうなものだが、朱麗前皇太子が病死とされた上、その病気がおおやけにされたなかったことも重なり、両親を同じくする碧霞第三太子も同じ病気を発症する可能性があると一部の貴族が指摘。

 范皇后を支持する貴族と激しく対立し、誠豊現皇太子の立太子に時間が掛かった経緯がある。


 慌ただしく皇帝やその後継者の首が変わることは民を不安にさせ、近隣諸国に対しては政情不安を疑わせる。

 そのこともあって、余計に皇帝は誠豊の廃太子を避けようとするだろうとも翠琅は話す。

 むしろそういった経緯がなければ、今回の件をもって廃太子にしていただろうとも話す。


(表向き? 体裁?

 つまり前の皇太子様は、本当は病気で亡くなられたわけではないってこと?)


 では前皇太子の本当の死因は?


 喉まで出掛かる問いを琳瑶は飲み込む。

 理由はわからない。

 わからないけれど、絶対に訊いてはいけないと思ったのである。

 絶対に知ってはいけない、と……。

 だから代わりに違うことを尋ねてみる。


「あの、丹貴妃は皇太子様の……その、蘇妃様とのことをご存じなのですか?」

「知っていて黙って見ているのだとしたら、あの方のことだ、どうせまたろくでもないことを企んでいるだろうね」

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