第伍話 目には目を、薬には薬を?

「そんなわけだから、今夜こそちゃんと話そうか」


 笑顔でそう言った翠琅すいろうだが、ふと思い出したように付け足す。


「そういえば、また侍女たちが菓子を持ってきても食べてはいけないよ」

「え?」

「え? ではないでしょう」

「でも……」


 下女が菓子を口に出来る機会は滅多にない。

 二人の老侍女と老宦官以外に近づく者もいない冷宮ではさらにその機会もなく、がっかりする琳瑶りんようを見て翠琅は小さく息を吐く。


「菓子は好き?」

「大好きです!」


 瞬時に明るくなる琳瑶の表情を見て、翠琅は仕方ないな……という顔をする。

 けれどその口からは出た言葉は……


「では今度、わたしが美味しい菓子を上げるから、あの侍女たちが持ってくる菓子は絶対に食べてはいけないよ」

「今度っていつですか?」


 口を尖らせる琳瑶を見て翠琅は少し意地悪な笑みを浮かべる。


「今度は今度だよ、食いしん坊さん。

 そうだね、あなたがいい子にしていたら」

「子ども扱いしないでください」

「まだまだ子どもでしょう」


 大人げもなく琳瑶を言い負かした翠琅は、約束どおり夜になって琳瑶の部屋にやって来た。

 昼間は見なかった大男の恵彫けいちょうを連れて。


 先日言われたとおり、卓に置いた蝋燭の火を消して待っていると、闇の中、かすかに蝶番ちょうつがいの軋む音とともに古い扉が開き、ことりという小さな物音とともに部屋に明かりが入ってくる。

 手燭を持った恵彫が先に入り、戸口に立ったまま翠琅を迎え入れる。

 決して大きくはない灯りの中、ひっそりと部屋に入ってきた翠琅は笑顔を浮かべて琳瑶を見る。


「こんばんは。

 今日は言い付けを守って起きていられたようだね」


 闇に目が慣れていた琳瑶は、その小さな灯りを少し眩しく感じながらも、昼間のことといい納得がいかない。

 蝋燭の火を消して待っているようにと言ったのは翠琅なのに……。

 どういうことかと尋ねようと思ったが、大男の恵彫が気になって言い淀んでいると、恵彫は手燭を卓に置くと、翠琅と琳瑶の両方に頭を下げて大股に部屋を出て行く。

 そのまま外に出たのかと思ったが、どうやら違うらしい。


 琳瑶が使っている侍女の部屋は廊下に面した共用の居間があり、残る三方に三つの寝室がある。

 廊下から見て正面の部屋を琳瑶が寝室に使っているのだが、恵彫は居間に留まり、部屋の外の様子を伺っている。

 どうやら見張りをしているらしい。

 それならなおのこと灯りは消したほうがいいのではないかと思うのだが、翠琅は笑みを浮かべたまま答える。


「ああ、心配ない。

 やり方を学ばせてもらったからね」

「やり方?」

「そう、やり方」


 異母姉の蘭花らんかとはまたおもむきの違う悪い笑みを浮かべる翠琅は、あの老侍女と老宦官が琳瑶に一服盛ってことを企んだように、今夜はこの逢瀬を邪魔されないように、翠琅があの三人に一服盛ったという。

 しかも念には念を入れ、琳瑶の部屋を訪れる前に、三人がぐっすりと眠り込んでいることを確認してきたという。

 そこまで入念にする必要があったのか? ……といえばあったのだろう。


「見られてもわたしは気にしないけど、あとであなたがどういう目に遭うかわからないからね。

 念には念を入れておかないと」


 そう話した翠琅は、部屋に椅子が一脚しかないことに気づくと、寝台に並んですわろうと促す。

 先に寝台に腰を下ろした翠琅に、隣にすわるように促された琳瑶は手燭を卓の上に置いたまま、翠琅の隣に腰を下ろす。

 もちろん先に口を開くのは翠琅である。


「さて、なにから話そうかな?」

「翠琅様って、何者ですか?」

「お、いい質問だね。

 うん、そうだね、まずはそこから始めようか」


 しん貴人きじんが言った 「後宮の人間は全員敵」 という言葉が忘れられない琳瑶は、何度も翠琅の正体を確かめようとしたけれど、なぜか 「宦官」 という言葉から離れられなかった。

 だが落ち着いて考えてみると、宦官であるかどうかではない。

 宦官がどういったものか理解出来ると、なおさらそこは問題ではないことがわかる。


 何者か?


 それが問題なのである。

 改めて尋ねる琳瑶に納得した翠琅はおもむろに懐に手を入れると、一握りほどの包みを取り出す。

 それを手の平に置いて包んだ紙を広げると、琳瑶が手放してしまったはずのあの髪飾りが出てきたのである。


「わたしのっ!」


 思わず取り戻そうと手を伸ばすけれど、翠琅は意地悪をするように琳瑶から髪飾りを遠ざける。


「ごめんね、これはまだ返すわけにはいかないんだよ」


 返すと言っているということは、翠琅もそれが琳瑶の物であることを知っているらしい。

 だが返せないという。


「でも、それは……」

「とても大事にしている物らしいね」

「返して、お願い」


 あの日、人違いで渡してしまった琳瑶の大切な髪飾り。

 もう戻ってこないと知って、悔しくて、悲しくて、辛くて。

 その髪飾りが今、目の前にある。

 どうしても取り戻したい琳瑶は、翠琅の膝に身を乗り出して腕を伸ばすけれど、背の高い翠琅の腕は長くて届かない。


「返して!」

「大きな声を出してはいけないよ。

 残念だけど、今は返せない」

「どうして? 

 だってそれはわたしの……」

「うん、知っている」

「どうして……」


 目に一杯の涙を溜めて懇願する琳瑶だが、翠琅はどうあっても返せないという。

 それどころか軽く抱え上げられた琳瑶は、ふわりと宙に浮くような感覚のあと仰向けに横たえられ、その上に翠琅が覆い被さってくる。


「わたしの妻になるなら考えてもいいよ」

「なる! なりますから返して!」


 琳瑶が、髪飾りを返して欲しさに言っていることは翠琅もわかっているはず。

 わかっているはずなのに、念を押すように 「約束だよ」 と言った翠琅は、組み敷いた琳瑶と軽く唇を重ねる。


 ところがゆっくりと体を起こした翠琅は、髪飾りを琳瑶に返さなかったのである。

 追いすがるように琳瑶も慌てて起き上がるけれど、翠琅は手早く髪飾りを紙に包み直して懐にしまい込んでしまったのである。


「返して!

 約束したのに……」

「ごめんね、これはまだ返せないんだよ」


 そればかりか翠琅は


「それに考えるとは言ったけれど、返してあげるとは約束していないよ」

「そんな……」


 まんまと騙されたことに気づいた琳瑶はとうとう泣き出してしまう。

 これにはさすがの翠琅も少し良心が咎めたのだろうか。

 苦笑いを浮かべて続ける。


「わたしにも事情があってね」

「事情って?」

「そもそもどうしてわたしの手にこれがあると思う?」


 質問に質問を返す翠琅に、素直な琳瑶は答えを考える。


「どうして……?」

「そう、どうしてこれがわたしの手に渡ったか。

 正確には、わたしはこれを預かっただけでね。

 だからそちらに返す必要がある。

 あなたにとって大事な物だと知っていても、今、ここで返してあげられない事情だね」

「どういう……」


 翠琅の話に琳瑶が思い出したのは、あの日、助けを求めて髪飾りを渡した男のことである。

 見覚えのあるその顔を一目見て、琳瑶は黎家れいかの遣いだと思った。

 でもそれは勘違いだったとあとで気づいて後悔したのだが……。


「ひょっとして、あの人……」

「昼間はあまり時間が取れないからね、少し長くなる話をしようか」


 そう前置きをして始めた翠琅の話とは……。

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