肆章

第壱話 闖入者

 ぎ……ょえーっ!!


 最初のうちはそんな琳瑶りんようの悲鳴を聞いて、老宦官や老侍女たちも何事かと驚いていたが、二日三日もすればすっかり新鮮みを失ったらしい。

 年寄りのわりに順応力が高いというか、なんというか、とにかくすっかり慣れてしまい、驚くどころか顔をしかめることすら面倒がる始末。

 当然虫を前に、恐怖する琳瑶を助けることもしない。

 三人にしてみれば、悲鳴を上げるくらいなら、そんなところ・・・・・・を掃除しなければいいのだろう。

 だが琳瑶は掃除をすることにした。


 なぜそんなところ・・・・・・を掃除することにしたのかといえば、尚寝しょうしんの先輩下女たちが話していたことを思い出したからである。

 庭院にわに落ち葉や枯れ草を放置しないのは、腐ってそこに虫が湧くから。

 それに建物近くに落ち葉などを積もったままにしておくと、そこにたまる湿気が建物を傷める。

 だから尚寝の仕事、特に庭院にわの掃除は疎かに出来ないという。

 そこで琳瑶も、毎日蒲団や枕を干し、扉を開け放って部屋の空気を入れ換える他に庭院にわの掃除をすることにしたのである。


 朝食を摂ったあと部屋の掃除を済ませると、午後からは庭院にわの掃除をする時間にしたのだが、そもそも冷宮には庭院にわと呼べるほどのものはない。

 場所によっては隣の建物と軒先が重なるほど近いのだが、よりによってその隙間に落ち葉が吹き溜まるのである。

 どんなところでも生えるのが雑草だが、どうやらその雑草に引っ掛かって溜まるらしい。


 中庭と呼ぶにはおこがましいほど狭い空間もあるにはあるが、やはりどこもかしこも雑草だらけで、どこから飛んでくるのか、そこに生えている木から落ちたとは思えないほどの落ち葉が降り積もっている。

 それらの落ち葉を全て片付けるのは難しいし、それこそ毎日どころか一日に何回も悲鳴を上げなければならない。

 そこで琳瑶の部屋の周囲だけを掃除することにしたのだが、老侍女にぼやかれた。


「どうせなら全部掃除してくれたらいいのに」


 今も下女の仕事着を着ている琳瑶に下女として仕事をさせたいのだろうか。

 無論琳瑶はお断りである。


(自分たちでやって!)


 即座に反論した琳瑶だが、声には出さず。

 もちろん顔には出ていたし、言葉に出して言ってもいいのだが、ついついいつもの癖で心の中に留めてしまったのである。

 だから老侍女や老宦官に侮られているのだろうか。


 だが琳瑶も、どんなに侮られようと三人の言いなりになるつもりはなかった。

 きっと一つ頼み事を聞けば次から次に頼まれて、そのうちに本当に下女として扱われるに違いない。


 絶対に嫌


 それこそ下女になりきって、そのうちに自分で食事も摂りに行くようになれば冷宮を出ることも出来るが、三人もそこまで馬鹿ではないし、それでは冷宮を出られても後宮は出られない。

 行く宛てがなく、結局冷宮に戻ってくることになる。

 それでは意味がない。

 だから琳瑶もその案は即座に抹消した。

 そして別の方法を考えながら今日も掃除をしていて大きなムカデを発見。

 悲鳴を上げたのである。


 ふ~……ふ~……ふ~……


 小動物が虚勢を張って威嚇をするように、全身の毛を総毛立ててムカデと睨み合う琳瑶。

 無論ムカデは全く気にしていないのだが、琳瑶は握った箒で臨戦態勢を取る。

 その様子を少し離れたところで老宦官が、どこで手に入れてきたのか、仕事中だというのにのんびりと煙草をふかしながら見ている。

 そこに老侍女の一人がやって来て、何事か話すと、二人連れだってどこかに行ってしまった。


 冷宮に連れて来られて数日が経った頃には、こうして一人になることが時々あり、冷宮から抜け出すチャンスは見つけた。

 だが一度でも失敗すれば、三人はもう琳瑶を一人にしないだろう。

 だからこのチャンスを使えるのは一回だけ。

 その時にはあとのこと・・・・・も考えておかなければならない。

 例えば誰か保護してくれる人を確保するなど、なにかしら方法を用意しておかなければすぐにでも連れ戻されるだろう。


 今日もそんなことを考えていたのだが、ムカデの出現で一瞬にして臨戦態勢に変更。

 冷汗をかきながら睨み合っていたのだが、不意に背後から落ち葉や枯れ草を踏みしめる足音が近づいてくる。

 てっきりつい先程行ってしまった老宦官が、別の建物から、中庭と呼ぶのもおこがましいほどの空間を横切って戻ってきたのかと思って気にもしなかったのだが、その足音は琳瑶のすぐそばまで来ると、不意に長靴が視界の隅から伸びてきてムカデを踏みつける。


「ひっ!!」


 思わず悲鳴を上げそうになる琳瑶の口を大きな手が塞ぐ。

 とても老宦官の手とは思えない大きな手で、力強く琳瑶の顔を握ってくる。

 同時進行でムカデの硬い体を頑丈な長靴で踏み潰すと、狭い中庭の片隅に琳瑶を抱えて連れて行く。

 すると木の根元に置かれた大きな庭石の向こう側に、足を投げ出してその庭石に背を預けている人影がある。

 琳瑶を見上げる、その整った顔には見覚えがあった。


「……翠琅すいろう様?」

「やぁおチビちゃん、久しぶり」


 驚く琳瑶に応えた翠琅は眠そうに大きなあくびを一つ。

 それから琳瑶を抱える人物に、手振りで琳瑶を下ろすように指示する。

 ゆっくりと地面に下ろされた琳瑶は、ムカデと戦うため反対に持っていた箒を持ち直し、視線を翠琅からもう一人の人物に移す。


 黒っぽい官服を着た大男である。

 後宮の宦官にはいないくらい背も高く、肩幅も広い。

 しかも来ている官服も少し宦官とは違うようにも見える。


 宦官ではないのだろうか?


 そんなことを考えながら大男を見上げていると、眼下から翠琅が話し掛ける。


「おチビちゃんが驚くから、とりあえず恵彫けいちょうは下がってなさい」


 恵彫、それが大男の名前らしい。

 仏頂面の男は周囲を気にしながらも 「よろしいのですか?」 と翠琅に尋ねる。


「うん、大丈夫でしょう。

 でも見つかると厄介だから適当な部屋に隠れててくれ」

「わかりました」


 静かに応えた大男は、現われた時と同じように、中庭と呼ぶのもおこがましい狭い空間を大股に横切ると、少し高い位置にある高欄に手を掛けた……と思ったら軽々と乗り越えてしまう。

 そしてそのまま廊下の暗がりに姿を消してしまう。

 だがおそらく遠くには行っていないのだろう。


(……ん? あの官服って……)


 不意に琳瑶の脳裏によぎったのは初めて後宮に来た日のこと。

 宮城や後宮の門を守る衛士たちが着ていた官服を思い出したのである。

 もし衛士たちと同じ官服なら、あの男は武官では? ……などと考えていると、翠琅が話し掛けてくる。


「ごめんねぇあんな大男を連れてきてしまって。

 でも怖くないからね、安心して」

「あ、いえ、別に、大丈夫です。

 翠琅様こそ、こんなところでなにをしているんですか?」

「なにって……うん、とりあえず掃除をしている振りをしてくれるかな?

 さっきの宦官が戻ってくると面倒だからね」


 どうやらここに翠琅がいることを隠したいらしい。

 けれど中庭と呼ぶのもおこがましいほど狭い空間である。

 すぐバレるのではないかと琳瑶は思ったが、翠琅は大丈夫だと笑う。


「あの宦官はもう結構な歳で、耳も遠いし目もだいぶん悪いらしい」


 だから箒で掃く真似をしておけば掃除をしていると思うだろうし、その音で話し声も聞こえないだろうという。

 面倒ごとは避けたい琳瑶だが、翠琅には訊きたいことがある。

 それにあわよくば一つ頼まれて欲しいこともあったので、ここは翠琅の話を信じて指示に従うことにする。


「そういう素直なところはいいね」

「それより、翠琅様はこんなところでなにをしているんですか?」

「もちろんおチビちゃんを探しに来たんだよ」

「わたしを?」

「うん、おチビちゃんを。

 やっと見つけたと思ったら、少し目を離した隙にいなくなって……」


 翠琅はここで軽く溜め息を一つ吐くと、すぐに言葉を継ぐ。


「あまり手間を取らせないでくれる?」

「好きでこんなところ・・・・・・に来たわけではありません」

「そのこんなところ・・・・・・ってどういうこと?」

「どういうって……冷宮に連れて来られた理由ですか?」


 あの日言われた蘭花の言葉を思い出すのも腹立たしい琳瑶だが、堪えて返すと、翠琅からは意外な言葉が返ってくる。


「だからね、その冷宮ってなに?」


 掃除をしている振りを続けなければならない琳瑶だが、あまりにも意外な問いを返され、手を止めて翠琅を見てしまう。

 そしてさらに問いを返してしまう。


「……翠琅様、本当に宦官ですか?」

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