第伍話 部屋移り
だけど待てど暮らせど返事が来ない。
それどころか豊衣の姿すら見ないのである。
(まだ来ないのかな?)
そんなことを考えながら仕事中もそわそわと落ち着かない様子の琳瑶を、先輩下女たちも心配げに見守る。
さりげなく顔見知りの宦官に豊衣のことを尋ねてもくれたらしいが、なぜかはぐらかされたという。
この時先輩下女たちは、官女や下女たちのあいだで豊衣が人気者であることや、宮官長のお気に入りであることなどに忖度したのではないかと思ったが、本当のところはわからない。
わからないが、豊衣が琳瑶に返事を届けてくることはなかった。
もっとも琳瑶は、手紙を託した翌日から返事はまだかまだかとそわそわしていたから、さすがに気が早いと先輩下女たちには笑われた。
笑われながらも返事を待っていたが、豊衣を見掛けることすらない日々が続いた。
まさか豊衣に託した手紙が
もちろん二人に正体がばれていることも知らずに、である。
そんなある日、とうとう起った。
「聞いた?」
「聞いた聞いた、
琳瑶が母からの返事を待って落ち着かない日々を送っていたある日の朝、いつものように仲のいい先輩下女三人と朝食を摂ろうと入った食堂はいつもよりざわついていた。
そして何事かと澄ました耳に入ってきたのが 「泰嬪」 である。
(お姉様?
またなにかしたの?)
泰嬪こと異母姉・
だからさほど驚かなかったけれど、今日はいつもと様子が違う。
食事をしながらも耳を澄ましてみると……
「ついに冷宮送りだって」
「なにしたの?」
「なにって、これまでだって色々やってきたじゃない。
その積み重ねでしょ?」
「そうそう。
それにほら、豊衣様」
「たいした用もないのに、以前にも増して部屋に呼びつけてたらしいわ」
「今、宮官長一番のお気に入りだもんねぇ」
「このあいだなんて三日連続、ほぼ一日部屋に留め置いたらしいわ」
「そんな長い時間、なにしてたわけ?」
「さぁ?」
いつもの琳瑶は先輩下女たちのたわいのない話を聞きながら朝食を摂るのだが、この日ばかりは、琳瑶だけでなく先輩下女たちも食堂中で囁かれる蘭花の話に聞き耳を立てる。
「あ~あ~」
「ついにって感じ?」
「泰嬪ってお馬鹿なの?」
蘭花を馬鹿呼ばわりする言葉に
「冷宮ってどこにあるんですか?」
「わたしも聞いたことがあるだけなんだけど……」
そう前置きをした先輩下女の一人が、朝のお勤めが始まってから教えてくれたところによると、そもそも冷宮というのは宮や部屋の名前ではないという。
「あんた、北側に行ったことは」
「ありません」
琳瑶が素直にそう答えると、先輩下女は話を続ける。
「まぁあっちは側室様も少ないけど、あんまり建物の状態もよくなくてね」
北側ということも関係あるのだろうか。
日当たりの悪い部屋が多く、廊下や柱、壁、屋根などの傷みも激しいという。
そのためか、部屋を割り当てられるのは下級の側室ばかり。
おそらく実家の権力が弱いか財力が低く、宮官長がぞんざいに扱ってもいいと判断をした側室たちだという。
「宮官長って……」
「言っただろ?
宦官はがめついって」
先輩下女のわかりやすい説明に、琳瑶も (なるほど) と納得する。
さらに続く話によると、その中でも特に痛みの激しい部屋が通称 「冷宮」 と呼ばれているのだという。
いつ頃からそう呼ばれるようになったのかはわからないが、今はあえて 「冷宮」 として維持するために最小限の補修しか行なわれていないというその部屋には変わった決まりがある。
入宮してきた側室たちは実家から自分の身の回りの世話をする侍女を引き連れてくるのだが、冷宮を部屋にもらった側室には専属の侍女が二人と宦官が一人付けられる。
そして家から連れてきた侍女はみんな帰されてしまうというのである。
一人も残すことは許されない、それが 「冷宮」 の決まりだという。
「これも聞いた話だけど、その侍女って言うのが酷い年寄りで、満足に世話もしてくれないっていうか、出来ないっていうか」
「でも、専属で宦官がつけられるっていうのは?」
そういう話は聞いたことがないという琳瑶に、先輩下女はさらに言う。
「この宦官も年寄りなんだけど、世話をするんじゃなくて監視の役目らしい」
「監視?」
「そう、冷宮の側室様が逃げ出さないように見張るのが役目なんだって」
つまり 「冷宮」 は側室が逃げ出したくなるような部屋ということらしい。
三人の先輩下女は、一番長くて三年近く勤めているが、冷宮の場所は知らないし、そのあいだに側室が部屋移りさせられたこともないというから、蘭花が久々の冷宮送りらしい。
それで余計に話題になっているのだろう。
「泰嬪は入宮してまだひと月だっけ?
しかも陛下のお通いもないし」
「あっさり部屋移り決定だね」
「でも宮官長にしては我慢したほうじゃないかねぇ」
「泰嬪は例の件で
「嫌われているかどうかは知らないけれど、でもまぁ取りなしてはくれないだろうね」
西側の建物に住む側室たちを束ねている丹貴妃。
入宮の挨拶の時、西側の建物に部屋をもらった蘭花は
偶然噂を聞きつけた琳瑶の暗躍で未然に防げたものの、挨拶の申し入れをした事実は丹貴妃の耳に入ってしまった。
「ミスは誰にでもあるものだから仕方ありません。
これから後宮の作法を覚えていっていただければ……」
蘭花の暴挙に丹貴妃はそんな模範回答をしたらしいが、もちろん貴妃としての品位を保つための上辺だけ。
実際は不快に思っていたはず。
あるいは腸が煮えくりかえっていたかもしれない。
だが貴妃としての品位を保つために範を示したのだろう。
だからと言って困ったことがあって蘭花が泣きついても、おそらく丹貴妃の侍女たちは取り次ぎもしないだろう。
琳瑶もそのことがなければ、すぐにでも蘭花の部屋に行ってバリキャリ侍女を捕まえ、丹貴妃のところへ相談に行くよう言い付けていたところである。
だが門前払いが目に見えている以上、蘭花の部屋には近づかない。
今回の 「冷宮」 送りも止むなしと考えたが、場所について先輩下女たちに訊いたのはもちろん近づかないようにするためである。
この後宮において蘭花の部屋は琳瑶にとっての鬼門である。
忌避するべき場所を確認するのは当然のことだが、蘭花のことにばかり気をとられていてある人物のことをすっかり忘れてしまっていた。
その忘れていた人物が琳瑶の前に現われたのは翌日、お勤めの最中である。
琳瑶と同じように箒を片手に持って現われたその人物は、不敵な笑みを浮かべて琳瑶を見る。
「お久しぶりですね。
「
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