第肆話 手紙の行方 ー翠琅
一つ、信用のおける宦官に頼むこと
一つ、ぼったくられないように注意すること
この二つが、いつも
それなのに実母・
「ではわたしが責任を持ってとどけさせましょう」
他の宦官より少し話をする機会が多いくらいで、特に豊衣と親しいわけではない。
当然信用出来るかどうかもわからないくらい希薄な関係だが、豊衣からの提案にうっかり飛びついてしまったのである。
しかもこの時のやり取りで豊衣は不審な言動を見せたのだが、琳瑶も隠しておかなければならない自分の正体に関わる 「
琳瑶は豊衣の不審な言動に気づいていなかったのだが、焦る豊衣はあえて 「黎家」 について必用以上に追及しないことで話を収めたのである。
そうしてまるで気づいていない琳瑶は豊衣に手紙を託すことにしたのである。
しかも手紙を届けるための駄賃もいらないという。
押しつけられた財布代わりの巾着を返した豊衣は、目的を達成したら琳瑶が代筆や代読の小遣い稼ぎを辞めると思ったのだろう。
「でも、出来たら代筆は続けてあげてください。
文字の読み書きが出来る下女は少ないので、皆さん助かると思います」
こういう細かい気遣いが豊衣の人気の元なのだろう。
ただ顔がいいというだけなら他にもいるが、下女のことをここまで気遣ってくれる宦官自体、豊衣くらいかもしれない。
だが琳瑶も、これからも小遣いは必要になるかもしれないことを今回学んだから、代筆や代読は続けるつもりでいた。
だからそう言って豊衣と別れて仕事に戻ったのだが、このあと豊衣はとんでもない災難に見舞われたのである。
「豊衣殿」
そう呼び止められたのは琳瑶を見送った直後のことである。
仕事に戻って行った琳瑶に続き、自身も仕事に戻るため
「……
まさかそんなところに人が居るなんて思わなかった豊衣はひどく驚き、すぐには声を出せなかったが、塀にもたれ掛かるように腕組みをして立っていたその人物は、整った顔に優美な笑みを浮かべて話し掛けてくる。
「久しぶりですね。
なにをそんなに驚いているのです?
まるで化け物にでも会ったように」
「い、いえ、そんなことは滅相も!
まさかいらっしゃるとは思わなかったので……」
「ああ、そういうこと」
翠琅は納得したように笑むと、足下の砂利を踏みしめながら豊衣に近づいてくる。
「てっきりわたしの顔が化け物に見えるのかと思ったよ」
「決して……決してそのようなことは……」
怯えたように同じ言葉を繰り返す豊衣は、慌ただしく頭を振って否定する。
本当に化け物と遭遇したかのように怯える豊衣を、翠琅は楽しそうに眺めながら話を続ける。
「ある意味、化け物なのかもしれないけどね」
「翠琅様、お戯れを……」
「まぁいいよ、あまりあなたを苛めると宮官長がうるさそうだから」
露骨にホッとするのは豊衣の弱点だろう。
しかも安心するのはまだ早かった。
豊衣のすぐそばに立った翠琅は手を差し出してくる。
「翠琅様?」
その手と翠琅の笑みを交互に見ながら意味を尋ねる豊衣に、翠琅は手を差し出したまま続ける。
「手紙、預かったのだろう?」
「手紙……ですか?」
話が唐突すぎて理解が追いつかない豊衣だが、翠琅はその様子をとぼけていると思ったらしい。
笑みを浮かべたままの顔をずいっと近づけて繰り返す。
「そう、て、が、み」
今にも唇が触れそうなほど麗しい顔を近づける翠琅は、わざとらしくいち音ずつ区切って言葉を強調する。
それが功を奏したのか、ようやくのことで意味を理解した豊衣は慌てて後ずさり、探るような目を翠琅に向ける。
「……その、手紙というのは……」
「あの小さな下女に頼まれて手紙を預かっただろう?」
そう言いながら改めて手を差し出してくるから、豊衣も、改めてその手と翠琅の顔を交互に見る。
そして、やはり探るように言葉を返す。
「な、んのことでしょうか?」
緊張のためか、不自然なところで途切れてしまうのも小心な豊衣らしいミスである。
この時の豊衣は、本来なら年季奉公に入った新しい下女は、半年が経たなければ後宮の外には手紙を出せないという決まりを思い出し、破った琳瑶が叱られると思った。
だから手紙の存在そのものを隠せば誤魔化せると思ったのである。
けれどその手は、無意識のうちに預かった手紙を入れた懐を押さえてしまう。
すると翠琅の目が、緊張感で強ばる豊衣の顔と、隠した手紙を守ろうとする手とを交互に見、やがて豊衣の顔で止まる。
「あなたは隠しごとが下手だから」
「あの……」
「先に言っておくと、あなたやあのおチビちゃんを叱ろうなんて気はないよ。
わたしにその権限はないしね」
ここで一度言葉を切った翠琅は 「知っているだろう?」 と続ける。
「その……詳しいことは存じませんが……」
「うんうん、宮官長からそう言われているのだろう?
もちろんこのことを宮官長に密告するつもりもないよ」
「ですが……」
まだ渋る豊衣に、翠琅はさらに言う。
「これも先に言っておくと、あなたがあのおチビちゃんに肩入れする理由もわかってるつもりだよ。
まぁ理解は出来ないけれどね」
「翠琅様?」
翠琅の言わんとするところを理解しかね、豊衣は怪訝な顔をする。
「だってそうだろう?
あなたには関係ないじゃないか、あのおチビちゃんは」
「それはそうかもしれませんが……」
「それともあのおチビちゃんについてもなにか言われているの?」
「いえ、特には……」
「そうだよねぇ。
だってあなたを
ハッとした豊衣は先程とは違った驚きを見せる。
「翠琅様、まさかと思いますが……」
「うん、君が誰の
「あの……!」
反射的に口止めを考える豊衣だが、翠琅が先手を打って言う。
「さっきも言ったけれど、宮官長に報告するつもりはない。
あなたがどうなろうとわたしの知ったことではないからね」
信じてもいいかわからず、なにも言えない豊衣に翠琅はさらに続ける。
「だからね、て、が、み」
「ですが、これは大事な預かり物で……」
差し出した手、その指先で豊衣の胸を突いて手紙を渡すように迫る翠琅。
豊衣は後ずさって交わそうとするけれど、翠琅も逃すつもりはないらしい。
「そんなことは百も承知だよ」
「でしたら……」
「あなただって危ない橋は渡りたくないだろう?
わたしだっておチビちゃんに危ない橋を渡らせたくない」
「それはどういう……」
「あなたはおチビちゃんが琳瑶媛だって知っているんだろう?」
刹那、豊衣は心臓が止まるかと思った。
つい先程、初めて琳瑶の口から 「黎家」 という言葉を聞いてとんでもない憶測をしてしまったばかりの豊衣は、こんなにすぐ、それも翠琅の口から憶測を確信に変える言葉を聞くことになるとは思いもしなかったのである。
隠しようもないほどの驚愕を見せる豊衣に、翠琅は楽しそうに 「おやおや」 と笑ってみせる。
「正直、わたしもあなたが敵か味方が判じかねているのだが、少なくとも媛に危害を加えることはない……と思っていいのかな?」
「それは……大旦那様次第で、わたしには……」
「報告しなければいいよ。
だってあなたが言いつかった役目ではないだろう?」
「そうなのですが……」
覚悟が決まらない豊衣にさらに翠琅は言う。
「あなたはこれまでどおり、おチビちゃんが琳瑶媛であることは知らない振りをする。
わたしはあなたのことを見て見ぬ振りをする。
もちろん媛に危害を加えることもないよ。
だってそうだろう?
黎家を敵に回すのは得策ではないからねぇ。
だから……」
豊衣を見る視線で 「わかっているだろう?」 と伝える翠琅は、改めて手を差し出す。
そして観念をした豊衣は、琳瑶から預かった手紙をその手に乗せた。
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