第拾弐話 お喋りな側室 ー辛花烏 弐


豊衣ほうい殿には他にもお仕事がございましょう?」


 柔らかくも強い圧を感じさせるしん貴人きじんの言葉に今にも負けそうな豊衣は、辛貴人の用件が終わったあと琳瑶を東の建物まで連れて戻らなければならないなど同席するための理由を思いつくそばから並べるが、勝敗は見えていた。


「まだ入って間がないというのなら、侍女に送らせましょう。

 わたくしの侍女はくだらないことをする者ばかりではありませんから。

 いっそ散歩がてら、わたくしが連れて参りましょう」

「いえ、貴人のお手を煩わせることは出来ません」


 どこまで辛貴人が本気で言っているのかはわからないが、さすがにこの提案には豊衣だけでなく琳瑶りんようも慌てる。

 そんな二人を見てフッと笑った辛貴人は話を続ける。


「どうせ暇なのです、かまいません。

 でもわたくしと違って豊衣殿はお勤めがございましょう?

 ここにいてもただ立っているだけですることもございませんし、時間を無駄にすることはないと思うのです」

「決してそんなことはございませんので、どうぞ、お気遣いなく」


 食下がる豊衣に一度は口を閉ざした辛貴人だが、少しばかり口調を改めて 「豊衣殿」 と呼びかける。


「豊衣殿がこの下女を気に掛けるのもわかります、とてもお優しい方ですからね。

 ですから後宮中から慕われているのでしょう」

「そのようなことは……」


 やんわりと辛貴人の言葉を否定しようとする豊衣だが、辛貴人がぴしゃりと 「そうなのです!」 と遮る。

 ついに堪忍袋の緒が切れた……とばかりに語気を荒らげた辛貴人は、驚く豊衣や琳瑶を前に、呆れたように続ける。

 この時、周りにいた侍女たちは特に反応しなかったから、おそらくこれが辛貴人の性格なのだろう。


「まったく、自覚がないというのも困りものです。

 まさかと思いますが、宮官長のお気に入りという自覚もないわけではありますまい」

「それは……」

「自覚しているのなら自重なさいませ。

 あなたが気に掛ければこの下女が宮官長の悋気に触れるのです」


 痛いところを衝かれて反論出来ない豊衣に、辛貴人は語気を強めたまま容赦なく畳みかける。


「わかったならさっさとお勤めにお戻りくださいませ」

「では……必ず東側の尚寝しょうしんの者のところにお連れくださると……お約束いただけますか?」

「だからそう言っているではありませんか」


 最後の粘りも通じず、やはりぴしゃりと言われて豊衣も観念したらしい。

 申し訳なさそうな視線を一瞬だけ琳瑶に向けると、辛貴人にお辞儀をする。


「それでは、わたくしはこれで」

「ご苦労様でした」


 取り次ぎや案内をしてきた侍女が、今度は豊衣を部屋の外へ連れ出すのを見送った辛貴人はしばらく黙っていたが、その侍女が戻ってきた瞬間に深く息を吐く。

 となりにある次の間からさらに外に出たなら、もう話を聞かれる心配はないと思ったのかもしれない。


「……あんな優柔不断のどこがいいんだか」


 皇帝の側室らしい堂々とした先程までの姿とは一変、苛立ちも露わに吐き捨てる。

 するとすぐに周囲の侍女たちが宥めにかかる。


花烏かう様のお気持ちはわかりますが……」

「わかっているわ、宮官長の機嫌を損ねない程度に扱っておけばいいのでしょう?」

「その通りでございます」


 ごく短いやり取りだが、黙って聞いていた琳瑶も察する。

 つまり辛貴人は豊衣が嫌いなのだ、と……。


 だが辛貴人が早々に豊衣を追い払いたかったのには、嫌いという以外にも理由があった。

 豊衣は琳瑶を気に掛けて同席しようとしたのだが、下手に彼を長居させれば辛貴人が引き留めたと噂を流されかねない。

 実際は違うが、実際などどうでもいい。

 そんな噂が流れることで辛貴人が宮官長の悋気に触れることを喜ぶ者がいて、その者たちは自分たちに都合のいいように話を曲げて噂を喧伝するのである。

 後宮はそういう場所だから。

 わかっている辛貴人はそれを嫌ったのである。


「あれは優しいと優柔不断を勘違いしたは典型的な馬鹿ね。

 ただの無知よ。

 自分の行動一つで周囲にどれだけ迷惑がかかるか、全く考えていないのだから。

 宮官長の趣味は聞いていたけれど、優しいと言うより、押せば自分の言いなりになりそうなのを選んでるだけなんじゃない?」


 宣下があってから入宮までの約二ヶ月、嫁入り支度を楽しんでいただけの蘭花らんかと違い、辛貴人は色々と後宮のことについて学んでいたらしい。

 一般的な後宮の作法や決まり事だけでなく、現在の状況などについても。

 心底尹宮官長や豊衣を嫌悪するようにぼやくと、取り残されていた琳瑶に視線をやる。


「その点、お前は利口ね。

 下手に口を挟んじゃいけないって、よくわかってる」


 泰家たいかで鍛えた処世術である。

 今も辛貴人の許しがないので琳瑶は口を噤んでいる。


「名前はなんと言ったかしら?」

「リンと申します」


 胸の前で両手を組んだ琳瑶は、袖で顔を隠すように頭を下げながら答える。

 すると辛貴人はにっこりと笑う。


「賢い子だわ。

 辞めさせた侍女の代わりにお前が欲しいくらい」

「辞めさせた?」


 少し顔を上げて尋ねる琳瑶に辛貴人は答える。


「お前に意地悪をした侍女よ。

 聞けば本当にくだらないことをしたものだわ。

 わたくしの足を引っ張るような侍女はいらないの。

 昨日のうちに荷物をまとめさせて今朝一番で里に帰したわ」


 辛貴人の言葉は、だから安心して……とは続かなかった。

 むしろ逆の言葉が出てくる。


「でもくだらないことを考える者はどこにでもいくらでもいる。

 一人くらい追い出したって無意味なの。

 だからお前も、くれぐれも油断しては駄目よ」


 それこそ下女同士でも、いつ誰が裏切るかわからないとも言う。

 さすがにあの優しい先輩下女たちに限って……と琳瑶は思うけれど、辛貴人は油断は禁物だと話す。


「ここでは全員が敵。

 自分を守れるのは自分だけよ。

 そう思いなさい」


 だからくだらないことをして下手に宮官長の不興を買うような侍女はいらない。

 その不興が雇い主である側室に向くことをわかっていない使用人に情けは無用である。

 そんな辛貴人の話を琳瑶は黙って聞いていた。

 すると不意に両側から声が掛かる。


「花烏様、下女を脅してはいけませんわ」

「そうですわ、なんのためにお呼びになったのか」

「そう言えば謝るために呼んだんだったわね」


 侍女に窘められた辛貴人は本来の目的をようやくのことで思い出し、すっかり忘れていた自身に呆れた様子を見せる。

 そこに琳瑶が先手を打つ。


「いえ、それには及びません。

 側室様にそのようなことをしていただく身分ではございませんので」

「……本当に賢い子ね。

 それに可愛い子だわ」


 改めて頭を下げる琳瑶を見て意味深な笑みを浮かべる辛貴人は、侍女に 「ねぇ」 と呼びかける。


「この子、とても可愛いと思わない?」

「確かに」

「ええ」


 侍女たちの同意を得て満足した辛貴人は続ける。


「お馬鹿な泰嬪たいひんよりこの子のほうがよっぽど可愛いわ。

 ほんと、あれのどこが薔薇そうび様の娘なの?

 噂は所詮噂だったわね、とんだ評判倒れだわ」


 つい先日に会った蘇妃そひと同じことを言い出す辛貴人に、琳瑶は無意識のうちに 「あの……」 と口を滑らせてしまう。

 すぐに (しまった!) と焦るけれど、辛貴人は気を悪くするどころか面白そうに笑顔で琳瑶を見る。


「なぁに?」

「いえ、申し訳ございません」

「いいのよ、なにか気になったのでしょう?

 言ってご覧なさい?」


 ここでは全員が敵


 今度はつい先程聞いたばかりの辛貴人の言葉が脳裏に浮かび、焦りとともに物凄い勢いで警戒心が頭をもたげる。

 訊いてもいいか迷っていると、辛貴人はさらに促してくる。


「本当に頭のいい子ね。

 ついうっかり口を滑らしたちゃったけど、すぐにさっきわたしが言ったことを思い出したのでしょ?」

「……側室様の気を引こうとして、わざと口を滑らせた振りをしたかもしれません、よ?」


 語尾に付けた疑問形の 「よ?」 は余計だったかもしれない。

 そんなどうでもいいことを考えていると、辛貴人は益々面白そうに笑う。


「その機転の速さもいいわね」

「ありがとうございます」

「それで? なにを言おうとしたのかしら?」


 どうあっても誤魔化されてくれないらしい辛貴人に琳瑶が折れる。


「……本当に、よろしいのですか?」

「ええ、是非ともきかせて欲しいわ」

「その……噂のことです」


 散々逡巡して、ようやくのことで琳瑶が話を切り出すと、辛貴人は 「噂?」 と首を傾げるが、やはり頭の良い人物である。

 すぐに 「ああ」 と声を上げる。


「泰嬪のことね?」

「はい」

「あの噂はね……そういえば誰が流したのかしら?」


 噂が流れ始めた頃、まだ辛貴人は入宮していない。

 泰嬪こと蘭花と辛貴人が入宮した時には噂は後宮中に広まっていたというから、辛貴人は噂の震源地を知らないという。


 おそらく蘭花も


 泰家とつながりのある家出身の官女ではないか? ……というのが辛貴人の予想である。

 ついでに、その噂のせいで蘭花ばかりが持て囃されて面白くなかった……ともぼやくが、さらに評判倒れでザマァとも笑う。

 だが琳瑶が知りたいのはそういうことではない。


「それで泰嬪は本当に薔薇様の娘だったんですか?」


 本当のことを知っている琳瑶だが、後宮ではどういうことになっているのかが気になったのである。

 それで率直に尋ねてみたのだが、刹那、辛貴人の表情が変わる。

 どうやら琳瑶の質問が意外だったらしい。

 一瞬驚いた顔をして唇を固く結んだが、すぐに端を上げて笑みを浮かべる。


「……面白いことを訊くのねぇ。

 でも確かに気になることよね」


 話しながらうんうんと頷いて同意してみせる辛貴人は、目だけはじっと琳瑶を見ている。

 琳瑶も逸らすことなく辛貴人の目を見る。


「……面白くないことはさほど広まらないから仕方ないんだけど、実は泰嬪の生母はたい大人たいじんの今のご正室で、このご正室は元々側室で、ご正室だった薔薇様を追い出してご正室に納まった方でね、泰嬪の妹君が薔薇様のご実子というわけ」


 貴族の家では珍しくない話だが、辛貴人の話はずいぶんと泰家の内情に詳しい。

 わざわざ調べたのかとも思ったが、辛貴人も挨拶で会った他の側室から聞いたのだという。

 つまり一部の側室は蘭花が薔薇の実子でないことを知っているが、あえて噂をそのままにして評判倒れと蘭花を嘲笑っているのである。

 こんなことをしてなにが楽しいのか琳瑶にはわからなかったが、あの日、黎家れいかの遣いが言っていた言葉を思い出す。


「きっと他にすることがないんでしょうね」


 そう言ってあの遣いの男は肩をすくめていた。


(そういうこと……)


 琳瑶も心の中でポツリと呟く。

 ついでにいま辛貴人が琳瑶と話しているのも、おそらく暇潰しなのだろう。


「つまり泰嬪自身は、薔薇様どころか黎家とも全く血のつながりがないわけ。

 それでどうしてひんなのかしら?」


 蘭花が 「嬪」 として入宮したことが面白くないのは辛貴人だけではない。

 そもそも泰家の家柄なら、せいぜい 「貴人きじん」 であり、蘭花の生母・艶麗えんれいの実家である茶家さかは 「貴人」 ですら届かない家柄である。

 このあたりの不明瞭な事情も、やたらと蘭花の噂が後宮を賑わしている理由でもあるのだろう。

 もちろん蘭花自身が噂の種を振り撒いているのも事実である。


「品位もないし、とんでもないお馬鹿だし。

 泰嬪の最近の噂は知っていて?」


 尋ねられた琳瑶は頷く。


「ご衣装のことですね?」

「そう衣装のこと」


 泰家の屋敷と変わらない生活を送る蘭花は、ある側室を怒らせ、ある側室を困らせている。

 入宮して間もない蘭花と辛貴人は、先に入宮していた側室たちとの親睦を深めるという名目で挨拶に出向き、また挨拶に出向かれている。

 その時に着る衣装は相手と被らないようにするのがマナーである。

 蘭花が挨拶に出向く時は、あらかじめ侍女が先方の侍女に当日の衣装を伺い、色や柄が被らないように当日蘭花が着る衣装を選ぶ。

 逆の時は先方から侍女が、当日に蘭花が着る衣装を伺いに来る。


 そうやって双方の衣装が被らないように配慮するのだが、蘭花はいざ着付ける時に気分が変わったなどと言って衣装を変えるのである。

 そのため挨拶に出向いた上位の側室と色が被っていたり、挨拶に出向いてきた下位の側室と柄が被っていることがたびたびあり後宮中の物議を醸していた。

 これはもう噂ではなく事実である。

 明らかな問題行動である。


「作法のなんたるかも弁えない馬鹿よ。

 まったく、泰家ではどんな躾を受けたのか」


 呆れた辛貴人は大きく溜息を吐き、首をすくめてみせる。


「今の宮官長はとにかく面倒を嫌う方だから、さぞかし泰嬪を鬱陶しく思っているでしょうね。

 ただでさえお気に入りの豊衣殿に手を出されて面白くないというのに、ねぇ?」


 同意を求められて琳瑶は困る。

 だが辛貴人は気にすることなく続ける。


「すでに陛下には皇太子がいて、なにかあってもスペアの太子が何人もいて、いまさら若い側室が入宮したところで、子を産むどころか陛下がいらしてくださることもない。

 だったらそこそこの高官に下賜されたほうが幸せになれるってもんでしょう」


 それこそ実家より高い家柄に嫁げるかもしれないと辛貴人は言う。

 つまり 「いまさら」 をわかっていて、それでも貴族が若い娘を入宮させようとする理由はそういう目的である。

 そう考えれば琳瑶も、父や継母が異母姉の入宮を喜んだ理由もわかる。


 一方で先日話した蘇妃を思い出す。

 いずれ尼寺に送られてしまうだろうと嘆いていた蘇妃と、高官に下賜されて幸せになることを考える辛貴人の違いは年齢かもしれない。

 それに蘇妃のほうが入宮して長い。

 あるいは彼女も、入宮した頃は辛貴人と同じように考えていたのかもしれない。

 ただ来ない皇帝を待つだけの日々が彼女を変えてしまったのかもしれない。


 だが辛貴人は、このままでは蘭花にもそんな日は来ないだろうと話す。

 ここで再び出てくるのが 「冷宮」 である。


「でも泰嬪は、せいぜい冷宮で飼い殺しにされたらいいのよ。

 あのお馬鹿さんにはお似合いの末路だわ」


 冷宮とは一体……?

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