第拾話 噂と憶測


 琳瑶りんようが下女や官女たちの痛い視線に晒されながらもじょう豊衣ほういに連れて来られたのは、いつも掃除をしている東側の建物でもなければ蘭花らんかが生活をしている西側でもない南側の建物の一画である。


 東西南北


 大きく四つに分けられる後宮の建物群は、北側を除いた三つには、それぞれに住まう側室たちを束ねる存在がある。

 琳瑶が普段掃除を担当している東側は皇族が多く住まう場所でもあるが、その皇族と側室たちを束ねているのははん皇后である。


 はん紅緋こうひ


 元は二人いる貴妃きひの一人だったが、現皇帝の第一太子を出産。

 その第一太子が皇太子として擁立されるとともに立后した。

 だがその皇太子は成人を前に暗殺されたため、たん貴妃きひが産んだ第二太子が皇太子として擁立された。


 とう誠豊せいほう


 御年22歳になる今の皇太子である。

 異母弟に范皇后が産んだ太子が二人もいるため、立太子には多くの貴族の反対があった。

 その反動か、あるいは思わぬ幸運に恵まれたことに浮かれているのか。

 やや問題行動が多く、皇帝や皇后を悩ませているという。

 立太子後、東側の建物群の中でも隔離された春宮に居を移し、すでに何人かの側室を持っている。

 その生母である丹貴妃は范皇后が廃されなかったため、今も貴妃のまま。

 泰嬪たいひんこと琳瑶の異母姉・蘭花や蘇妃そひが部屋を持つ西側の建物に住まう側室たちを束ねている。


 たん真玉しんぎょく


 范皇后と同時期に入宮した彼女は年齢も同じ40代半ばだという。

 その二人より少し若いりゅう貴妃きひは30代半ばくらい。

 范皇后が立后して空いた貴妃の後釜であるこの柳貴妃が、南側の建物に住まう側室たちを束ねている。


 りゅう水菜すいさい


 後宮内では、皇后はもちろんだが、同じ立場であるはずの丹貴妃よりも格下に扱われているという柳貴妃だが、この先太子を産む可能性は低い。

 柳貴妃もその自覚があるのか、後宮内の権力争いからは退き、琳瑶が豊衣に連れて行かれた南側の建物群のどこかに、自身が産んだ二人の公主とともに暮らしているという。


 柳貴妃は30代半ば。

 琳瑶の実母薔薇そうびとあまり変わらない年齢だから、二人の公主も琳瑶と同じ年頃かもしれない。

 もちろんだからといってお友だちに……という話にはならない。

 いま琳瑶は、豊衣に連れられて柳貴妃が二人の公主と暮らしている南側の建物を歩いているが、貴妃に用がないなら部屋の近くは通らないもの。

 それこそ下女は遠回りしてでも遠慮しなければならないから、普段は琳瑶が東側の建物にいることを考えても、公主と会うことはまずないだろう。


 琳瑶がいつも担当している東側の建物なら、先輩下女が 「あちらの建物は皇族のお住まいだからあんたは近づいちゃいけないよ」 などと教えてくれる。

 そういった場所は失礼のないようにベテランが担当するのである。

 だが琳瑶は南側の建物で働いているわけではないので柳貴妃や公主たちの部屋がどこにあるのか知る必要はないのだが、なにも言わず前を歩く豊衣は沈黙したまま、それでも時折思い出したように小さく溜息を吐く。

 どうやらしん貴人きじんと会うのが憂鬱らしい。

 その理由には琳瑶も心当たりがあった。


 泰嬪たいひん


 言わずとしれた琳瑶の異母姉・蘭花のことである。

 彼女は入宮してまだ半月ほどだがすでに色々とやらかしており、いま後宮で囁かれている噂の多くを占めていた。

 まさに噂の人である。

 それは後宮に入った側室が一番最初にしなければならない皇后との挨拶から始まっている。

 ただあの一件は尚宮しょうきゅうが悪いということで、皇后が尚宮を蘭花と辛貴人の両方に謝罪に行かせることで手打ちにしている。

 皇后がそういう形で収めたのだから誰も文句は言えないわけだが、蘭花と辛貴人の双方には不満が残ったかもしれない。


 特に辛貴人


 もちろん蘭花に対しての不満である。

「嬪」 と 「貴人」 の身分差は明らかだが、それをあんな形で見せつけられたのだからきっと面白くなかったに違いない。

 あるいは立場を弁えた人格者なのか。

 辛貴人がその件について、泰嬪こと蘭花に対して不平や不満を漏らしているという噂はない。


 その件については……


 少し話は変わるが、南側の側室たちを束ねる柳貴妃は後宮の権力争いからは引いているが、社交的な性格で、よく側室たちをお茶に招いてお喋りに花を咲かせている。

 新たに入った側室に対しては、どこの宮に部屋をもらった側室であっても、一度は顔を合わせてみたいと挨拶を兼ねてお茶に呼ぶのだという。

 堅苦しい挨拶とは別に、ゆっくりお茶を飲みながら話をしたいらしい。


 当然挨拶は皇后が一番最初だから東側の側室たちはともかく、西側の側室たちは、皇后の次に丹貴妃に挨拶をしなければならない。

 それから同じ身分である柳貴妃と挨拶をする。

 これが南側の側室であれば柳貴妃と挨拶をして、それから丹貴妃の順番となるわけだが、西側の建物に部屋をもらった蘭花は、なにを思ったのか、皇后と挨拶を済ませたその日のうちに柳貴妃に面会の申し入れをしたというのである。


 この話を琳瑶が耳にしたのはほんの偶然だった。

 その日は雨が降っていたため、庭掃除ではなく廊下の掃除をしていたところ、通りかかった二人の侍女が話していたのである。

 下女が側室の姿を見掛けることはあまりないが、側室に代わって部屋の外で用事をする侍女の姿はよく見る。

 だから珍しくなかったし、顔を寄せるようにヒソヒソと話しているのも珍しくなかった。

 気にせず掃除をしていたのだが 「泰嬪」 という言葉が耳に入った瞬間、無意識に反応してしまったのである。


(お姉様、どこまで馬鹿なのっ?)


 思わず掃除を放り出し、こっそりと侍女たちのあとをつけて話を最後まで聞いた琳瑶は、思わず声に出して姉を罵るところだった。

 西側の建物で一番偉いのは丹貴妃である。

 その丹貴妃を後回しにして柳貴妃に挨拶をするということは、丹貴妃を蔑ろにしていることになる。


 貴族社会も王宮も身分社会であり後宮も例外ではない。

 挨拶の順番一つでも間違えれば大問題となる。


 しかもこの蘭花の愚行は相手方である柳貴妃にも累の及ぶこと。

 もし気づかずに早々の申し入れを受けて蘭花と会っていれば、柳貴妃も丹貴妃を蔑ろにしたことになるのである。

 本来ならば二人は同じ貴妃だが、范皇后と皇后の地位を巡って争った丹貴妃より格下とされる柳貴妃。

 子が公主二人しかいないというのもあるだろう。

 そのため柳貴妃の立場を悪くするわけにはいかない侍女たちは対応に困っていたのである。


 これ以上持ち場を離れるのはいけないとわかっていた琳瑶だが、こっそりと、だが迅速に蘭花の部屋に向かうと、蘭花の命令だったとはいえ、琳瑶を後宮まで引き摺ってきた憎きバリキャリ侍女の一人を捕まえて物陰に連れ込む。

 そして柳貴妃の侍女たちから聞いたことを話して聞かせ、柳貴妃と丹貴妃の部屋に走らせた。

 もちろん蘭花には内緒で、である。


 この時バリキャリ侍女から聞いた話によると、蘭花はどこからか柳貴妃のお茶のことを聞いたらしい。

 おそらく取り巻きの侍女なら誰からそんな話を聞いたのか知っていたかもしれないが、働かない彼女たちの分も仕事をしなければならないバリキャリ侍女たちは忙しく、気づかなかったという。


 丹貴妃を差し置いて柳貴妃に面会の申し入れをしたことも知らなかったという。

 琳瑶からこっそりと教えられて慌てて対応をするも、柳貴妃のお茶会をとても楽しみにしていた蘭花は癇癪を起こして暴れ、彼女たちはどこまでも貧乏くじを引くことになった。

 どうやら皇后との挨拶の時といい、蘭花は相変わらず泰家たいかの屋敷で暮らしていた頃と変わらないらしい。


 困ったものである


 近寄らないようにするため蘭花の部屋の場所を調べた琳瑶だったが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかったし、自分から足を運んでしまったのは不本意きわまりない。

 しかも持ち場を離れたことを先輩下女に叱られたが、官女には報告しないでくれたのが不幸中の幸いだったかもしれない。

 だが蘭花のせいで叱られたのは納得がいかなかったし、放っておかなかった自分にも腹が立った。


 結局琳瑶の暗躍で蘭花の愚行は未遂に終わったが、そういうことがあった……という噂が広まることまでは止められなかった。

 もちろん噂は丹貴妃の耳にも入ったのだが……


「ミスは誰にでもあるものだから仕方ありません。

 これから後宮の作法を覚えていっていただければ……」


 といったような寛容なコメントが出されたらしい。

 もちろんたちまちのうちに丹貴妃の言葉も後宮中に広まったのだが、その裏側でひっそりと囁かれた憶測がある。

 誰が蘭花の侍女に、柳貴妃のお茶に呼ばれることがどれだけ光栄なことか……とか、高級な茶葉に美味しい菓子が出されることなどなどを吹き込んだのか?

 そういったことが大好きな蘭花の性格を見越してそんなことをしたのは誰か……という憶測がこっそりと流れたのである。


 辛貴人


 皇后との挨拶の件で面白くなかった辛貴人が謀った悪質な意趣返しではないかと……とまことしやかに憶測が流れたのである。

 どうやら豊衣もその噂も憶測も知っており、これからその辛貴人に会うということで、無関係ながらも憂鬱になっているらしい。

 一方の琳瑶は、憂鬱というより緊張していた。

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