第玖話 豊衣の内緒話

「リン」


 いつもの朝のように先輩下女たちと朝食を摂った琳瑶りんようは、やはりいつものように朝のお勤めに向かおうとして呼び止められる。

 振り返ると尚寝しょうしん梨葉りよう直属の、だが先日とはまた違う官女が立っていた。

 食事を終え、三々五々に散ってゆく下女たちの中、琳瑶は先輩下女たちと別れて一人、官女の案内に従って廊下を歩く。

 すると人気の少ないところで宦官のじょう豊衣ほういが立っていた。


 琳瑶はたまたま行く手に豊衣が立っていただけと思ったのだが、どうやら違うらしい。

 案内してきた官女は豊衣の前で立ち止まったのである。

 そして胸の前で両手を組むと、その袖に顔を埋めるように頭を下げる。


「リンを連れて参りました」

「ありがとうございます」


 会釈を返しながら豊衣が応えると、官女は心得たように立ち去ろうとする。

 ここで琳瑶は昨日、先輩下女たちに言われた 「宦官と二人きりにならないように」 という忠告を思い出すが、豊衣は官女が立ち去るのを待たずに用件を切り出してくる。

 官女は豊衣の用件を知っているのか、豊衣は話が官女に聞こえるかもしれないなんてことは全く気にせず話し出してしまったため、琳瑶は官女を呼び止めることが出来なかった。


しん貴人きじんがお呼びです」


 官女を呼び止めようとしていた琳瑶は、穏やかに告げてくる豊衣の言葉に 「え?」 と返す。

 すると豊衣は聞こえなかったのかと思い、繰り返す。


「辛貴人がお呼びです」

「辛……あの、昨日の……」

「ええ、昨日の侍女の雇用主です」


 苦笑を浮かべる豊衣を見て、琳瑶は面倒なことになったと思った。

 しかもそれが顔からだだ漏れになっていたのだが、豊衣は誤解したらしい。


「大丈夫、あなたが叱られることはないから」

「いえ、そういうことでは……」


 そういうことではない……と言いかけた琳瑶だが、豊衣にはそういうことにしておいたほうがいいと途中で気づく。

 面倒を避けたいのは琳瑶の都合で、そのこと自体知られたくないのである。

 もちろん年齢詐称は豊衣も気づいているだろうけれど、そのことが表面化して後宮を追い出されたくないというのは琳瑶の都合である。


 だがこの豊衣という宦官は年齢のわりに正直者というか、素直というか。

 不自然に途切れた琳瑶の言葉が継がれるのを、おとなしく待っているのである。

 そのため琳瑶と豊衣、二人のあいだに不自然な沈黙が流れる。


「…………」

「…………」


 ただ待っているだけの豊衣と、この不自然な沈黙が気まずい琳瑶。

 もちろん先に折れるのは琳瑶である。


「……あの、なんでもありません」

「そう?

 それならいいのだけれど……」


 思いのほかあっさりと納得した豊衣だが、不意になにかを思い出して言葉を途切れさせる。

 すると今度は琳瑶がその先を待って沈黙する。


「…………」

「…………」


 ただ待っているだけの琳瑶と、どう切り出すか考え込んでいる豊衣。

 この沈黙が気まずい豊衣は、考えがまとまるのを待たずに話し出す。


「その……昨日さくじつのことだけど……」

昨日さくじつ?」

「えっと……あの、あなたが辛貴人に怒られることはない。

 これは確かだから安心してください」

「わかりました」

「それで、ですね」

「はい」


 琳瑶は豊衣の話に素直に相槌を打っているだけなのだが、それが豊衣には急かされているように感じたらしい。

 会話を重ねるごとに言葉が詰まってきていたのだが、ここにきてまた沈黙してしまう。


「…………」

「…………」


 あくまでも話を聞く立場をとって待ちの姿勢に入っている琳瑶と、その姿を前に、話さなければ……話さなければ……と内心で焦る豊衣。


「そ、の……」

「はい」

「えーっと……」

「お話しし辛ければ別に……」

「あっいえ、そうではなくて、その、お話ししておかなければならないというか……」


 全く要領を得ない豊衣の話に首を傾げていた琳瑶だったが、豊衣に言われた 「昨日さくじつのこと」 と心の中で繰り返した瞬間脳裏に閃くものがあった。

 これは直感というものだろう。

 琳瑶はその直感に従って豊衣に尋ねてみる。


「あの、翠琅すいろう様のことですか?」

「どうしてわかったんですかっ?!」


 次の瞬間、驚いた豊衣は琳瑶の細い肩を掴みかからんばかりに迫ってくる。

 思わず背を逸らせる琳瑶を見て、豊衣も自分の行動に気づいてさらに慌てる。


「あ、すいません!

 ちょ、と驚いてしまって……」


 慌てて一歩下がった豊衣は改めて琳瑶を見るが、まだ動悸が治まらないらしくすぐには本題を切り出さない。


「……あなたは本当に頭のいい子だね」

「なんとなくそう思っただけです」

「そうなんだ」

「翠琅様がどうかしたんですか?」

「うん、その翠琅様のことなんだけど、えっと……あなたは翠琅様に会ってしまったけど、出来たら忘れて欲しいんです」

「翠琅様のことをですか?」


 琳瑶の問い掛けに豊衣は黙って頷く。

 このあとも豊衣はその事情を話してくれなかったけれど、辛貴人の侍女が琳瑶に意地悪をした場に居合わせたのは豊衣だけで、箒を木の枝から下ろしたのも豊衣で、その場に翠琅は現われなかった……ということになっているらしい。

 いや、そういうことにして欲しいらしい。


 誰が?


 先輩下女たちは翠琅のことを知らず、外廷と内廷を行き来する仕事をしている宦官ではないかと話していた。

 後宮内で力仕事をしていることが多い宦官とは身分が違う宦官だとも話していたから、宮官長となにかあるのかもしれない。

 豊衣の話では、その宮官長にも翠琅のことは話していないというから、宮官長の独占欲から翠琅を守るために豊衣が画策したとも考えられる。


 いずれにせよ琳瑶には関係のない話である。

 その関係ない話にわざわざ自分から首を突っ込んで面倒に巻き込まれるのは御免である。

 だから豊衣の申し出に同意したが、最後に気になることを言われる。


「翠琅様のことは人に話さないでくれると助かります」


 そう言われ、すでに先輩下女たちに話してしまった琳瑶が正直にそのことを話すと、豊衣は少し困った顔をしたが怒ることはなかった。


「その様子なら大丈夫だと思いますが、今後は、もし、万が一にも翠琅様とお会いすることがあっても口外無用でお願いします」

「わかりました」

「では参りましょうか。

 すっかりお待たせしてしまった」


 急ぎましょうと促された琳瑶は、豊衣の案内で辛貴人の部屋に向かう。

 そこでは煌びやかに着飾った若い側室が琳瑶と豊衣の到着を待ちわびていた。

 先日たまたま話をする機会があった蘇妃そひとは対照的なくらい、きらぎらしく華やかで明るい側室である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る