第捌話 宦官 ー杖豊衣


 琳瑶りんようが先輩下女たちに相談したのは、翠琅すいろうしん貴人きじんの侍女がした意地悪を宮官長に報告すると言ったことについてである。

 年齢を詐称している琳瑶はとにかく目立たないことを心掛けているし、先輩下女たちも、特に尹宮官長には気をつけるようにと言っていたからである。

 そのくせ忠告が現実となって相談したのに、彼女たちは 「じょうという宦官」 の話題で盛り上がり始めたのである。


「杖様って、あの杖様よね?」

「どの杖様?」


 その日あったことを一通り話した琳瑶は、早速どうしたらいいか教えてもらえると思ったのだが、見当違いな質問を返されて呆気にとられる。

 思わずさらなる質問返しをしてしまったが、先輩下女たちはそんな琳瑶を置き去りにして盛り上がり始める。


じょう豊衣ほうい様って、ちょっと素敵よね」

「綺麗な方よね」

「凄く親切で優しいし」


 そんな言葉が先輩下女たちの口から出てくる。

 自分のことで手一杯だった琳瑶は全く知らなかったが、どうやらあの杖という宦官は、下女だけでなく官女たちにも人気が高いらしい。


 そもそも琳瑶は 「あの薔薇そうび様」 が美人の基準なので、薔薇に並ぶ美人でなければ美人と思わないのだが、あの杖という宦官は、男としては確かに中性的な顔立ちをしていた。

 先輩下女たちはそこがいいと騒いでいる。

 なにがいいのかさっぱりわからない琳瑶はすっかり話題から取り残されてしまい、一人で黙々と食事を続けていたら、気がついた下女の一人がからかってくる。


「あんたはまだ子どもだからわからないんだろうねぇ」

「全っ然わからない」

「そういじけなさんな。

 そのうちわかるよ」


 それこそあと二年、三年もすれば……と笑われ、琳瑶は現実を思い出す。

 王宮から右も左もわからない外に放り出されないように、牢屋に入れられないように、年齢詐称を隠すことに必死になっていてここしばらくうっかり忘れていたが、琳瑶にはもう一つ目的があった。

 実母薔薇のいる黎家れいかと連絡を取ることである。


 三年後


 琳瑶より先に働いている先輩下女たちはもっと早いが、琳瑶の年季が明けるのはその三年後である。

 しかも琳瑶はその三年を、ただの下女として日々の仕事をこなしていればいいわけではなかった。

 何事もなく穏便に後宮生活をやり過ごせたとしても、このままでは三年後に行く宛てがないのである。


 琳瑶が母の暮らす黎家の屋敷に行こうとしていたことを、もし父のたい昌子しょうしが知っていて後宮に、それも下女として奉公に出したとしたら、年季の明けた琳瑶が頑張って泰家たいかの屋敷に辿り着けたとしても入れてくれないだろう。

 あの日、黎家に辿り着かなかった琳瑶を心配した薔薇は、泰家に人を遣って事情を確かめているはずだが、きっと昌子は琳瑶が家出したとかなんとかいって誤魔化したに違いない。


 そしてそのまま行方不明ということに……


 だからこのままおとなしく年季が明けるのを待っているわけにはいかないのである。

 少なくとも琳瑶はそう思っている。


 だが実際は、琳瑶が黎家に行こうとしていたことを昌子は知らず、薔薇に言われて琳瑶を迎えに行ったれい彩月さいげつによって教えられたのである。

 残念ながら彩月は……正確には行き違いを予想して手を打っていたはずのそう英成えいせいが、ニアミスをしながらも琳瑶を逃してしまったわけだが、彩月も、琳瑶は後宮で蘭花らんかの侍女をしているという嘘の情報を昌子に吹き込まれている。


 だが黎家の権威を以てしても手を出せないのが後宮である。

 蘭花の部屋で働いていると見せかけて、実際は下女として働かせ、年季の明ける三年後、15歳になった琳瑶を家に連れ戻し、甥の晶春しょうしゅんと結婚させようというのが昌子の狙いである。

 このことに、企んだ昌子の他に誰が気づいているだろうか。

 少なくとも当事者である琳瑶は気づいておらず、泰家の屋敷には帰れないし、二度と帰りたくもないと思っている。

 二度と父親の顔も見たくないと思っているほどである。

 そのためにも行方不明のまま忘れ去られてしまう前に黎家と連絡を取りたいのだが、一朝一夕に名案など浮かぶはずもない。

 そこでまずは後宮になれるところから……と思っていたら、すっかり忘れていたのである。


 現実を思い出して考え込む琳瑶をよそに、相変わらず先輩下女たちは杖というあの宦官の話で盛り上がっている。

 彼女たちの言うとおり、中性的と言われれば琳瑶も確かにそうだと思うけれど、それでどうして盛り上がるのかわからないのである。

 同じ盛り上がるなら二人目の翠琅と呼ばれていた宦官のほうでは? ……と思った琳瑶は、さりげなくを装って翠琅のことを訊いてみたのだが、先輩下女たちは意外な反応を見せる。

 なんとそんな宦官は知らないというのである。


「まぁあたしたちだって全員を知ってるわけじゃないけどさぁ」

「でも聞いたことのない名前だねぇ」

「ほら、あれじゃないか?

 外廷でもお仕事がある人たちだから」

「ああ、確かに。

 ほとんど見ない人もいるねぇ」


 宦官の数は決して多くはないけれど、役目柄後宮の外に出ることもある。

 そのためあまり見掛けることのない宦官もいるらしく、琳瑶が会ったあの宦官もそうではないかと彼女たちは話す。

 杖豊衣が翠琅に 「様」 を付けて呼んでいたことも、彼女たちは当然だろうと話す。


「豊衣様は後宮に入られてまだ間がないから」

「あんたが入るより少し前だったんじゃないかな?」

「そうそう、そのくらい」


 つまり琳瑶同様に杖豊衣も新人だから、ほとんどの宦官が彼にとって上の立場にあるというのである。

 だから誰にでも 「様」 を付けて呼ぶのだと説明されて琳瑶も納得する。

 ただ翠琅は、外廷の仕事もしている宦官だとしたら、荷物を運んだりするなど力仕事の多い一般的な宦官より身分は上だとも教えてくれた。

 下女と官女、侍女など、着るものですぐにわかる女たちと違い、宦官は皆黒っぽい官服を着ているからわかりにくい……とも彼女たちは笑いながら話していた。

 ちなみにこの話は薔薇の手紙には書かれていなかったので琳瑶も興味深く聞いていたが、先輩下女の一人にある注意をされる。


「でもあんた、あんまり宦官と二人きりにならないほうがいいよ」

「叱られますか?」

「あんたは言うことが可愛いねぇ」


 そう言って琳瑶の頭を撫でてくれた彼女は、「んー……」 と少し考え込んでから答える。


「聞いた話だから本当か嘘か知らないけど、あんまり若いうちにちょん切っちまうと、あれがまた生えてくることがあるらしいんだよ」

「あれ?」


 意味がわからず首を傾げる琳瑶に、下女は恥ずかしそうに顔を赤らめながら続ける。


「あれだよ、あれ。

 わかるだろ?

 男の大事なあれ」

「また生えるあれ」


 琳瑶は全くわかっていないのだが、話している下女だけでなく、他の下女たちまでが恥ずかしそうに顔を赤くする。


「ここは人目に付かないところなんて一杯あるからね。

 宦官と二人きりになりそうになったら、とりあえずその場を離れな。

 いいね?」


 実際はよくわからなかったのだが、宦官と二人きりにならないほうがいいという忠告は理解出来たので 「わかりました」 と琳瑶が答えると、他の下女たちが急に声を潜めて言い出す。


「特に豊衣様は気をつけな」

「そうそう、豊衣様には、ね」

「ああ、あの噂?」

「そうそう」

「宮官長ね」


 となりに、あるいは卓を挟んで向かい合ってすわっているのに、またしても会話から一人取り残されてしまった琳瑶だが、昼間、杖豊衣に会った時、最後に現われた三人目の宦官が尹宮官長が杖豊衣を呼んでいると言っていたことを思い出す。

 そこで下女たちに尋ねてみる。


「なにかあるんですか?」

「あるある」

「これは内緒だよ」

「とかいって、みんな知ってるだろうけど」

「豊衣様は宮官長のお気に入りなのさ」

「それで何かにつけて側に呼びつけたがるんだよ」

「宮官長が気に入りそうな顔だものね」


 なるほど


 これは重要な情報である。

 後宮での生活を穏便に過ごすため尹宮官長を避けるなら、そのお気に入りである杖豊衣ともかかわらないほうがいいだろう。

 琳瑶の個人的な直感で言えば翠琅のほうが怪しかったのだが……。

 しかもこの話にはまだ続きがあって、なぜか先輩下女たちの会話に泰嬪たいひんこと異母姉の蘭花が登場する。


「でも、ほら、なんて言ったかしら?」

「ああ、新しく入った側室様?」

「そうそう」

「泰嬪でしょ?

 宮官長と豊衣様を取り合ってるって」


 一人が 「それそれ」 と言うと、他の下女たちも同意するように激しく頷く。

 今日の昼間、琳瑶が杖豊衣を含む三人の宦官と会った。

 その一人であり、他の二人から 「様」 付けで呼ばれていた翠琅が


「杖殿は人気者ですね」


 そう言われた杖豊衣が困惑していた理由が、先輩下女たちの話でなんとなくわかった。

 泰嬪こと蘭花に言われて豊衣を探していた自分に続き、もう一人、豊衣を探していたことを揶揄したのだろう。

 さらにその用件が、宮官長が呼んでいることを伝えに来たと聞いてさらに豊衣が困惑したのも今の話でわかる。

 しかも先輩下女たちの話を聞くと、蘭花の呼び出しも、宮官長の呼び出しも実はたいした用ではなく、ただ豊衣を側に呼びたかっただけのようにも思えてくる。


「よりによって宮官長のお気に入りに手を出すなんて、ねぇ」

「他の側室様たちはすぐに手を引いたっていうじゃない」

「そりゃそうでしょう。

 尹宮官長は嫉妬深いからさぁ」

「そうそ、下手をしたら冷宮れいぐうに入れられちゃうもの。

 すぐに手を引くに決まってるじゃない」


 そう言った先輩下女が 「あ……」 となにかに気づくと、ほかの下女たちも少し慌てたように揃って口に手を当てる。

 口にしてはいけないことを言ってしまった、そんな感じである。


(冷宮?)


 これも薔薇の手紙には書かれていなかった言葉である。

 まだまだ後宮の全容を把握していない琳瑶だが、この時はそういう建物がどこかにあるのかと思った。

 少なくとも琳瑶が配属された東側の建物の中には、そういう名前の宮はなかったような気がする。


 どこにあるのだろう?


 蘭花がその 「冷宮」 というところに部屋が変わった時に備え、場所を知っておいたほうがいいかもしれない。

 もちろん遭遇しないようにするためである。

 なんとなくそんなことを考えて眠りについた翌朝、よりによって杖豊衣のほうから琳瑶の前に現われた。


「辛貴人がお呼びです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る