第参話 憂鬱な妃 ー蘇栄娘

「そこのお前、名前は?」


 そばまで来てそう声を掛けてきた侍女に手を引かれた琳瑶りんようは、東屋でくつろぐ妃の前に立たされる。


「こちらは蘇妃そひ栄娘えいじょう様です」


 侍女にそう紹介された若い妃は、蘭花らんかより少し歳上だから20歳前後。

 あとで他の下女に聞いたところ、西側の建物に部屋を持つ中級妃の一人だという。

 飛び抜けた美人ではないが、それなりに整った顔立ちをしており、衣装にも気品がある。

 だが少し濃いめの化粧に彩られた表情は物憂げだった。


「リンと言ったかしら」

「はい」

「支度に行った侍女がずいぶん幼い下女がいると話していたから見に来たのだけど……」


 琳瑶を見てそこまでを言った蘇妃は、近くに控える侍女に視線を移して続ける。


「年季奉公の下限は何歳いくつだったかしら?」

「15です」


 すぐに返ってくる侍女の答えに、蘇妃は 「そうよねぇ」 と呟く。

 そして視線を琳瑶に戻す。


「お前、本当は何歳いくつなの?」


 物憂げな表情を浮かべながらもわずかに口の端を上げて問い掛ける蘇妃に、琳瑶は返答に困る。

 一呼吸ほど遅れて 「15です」 と答えたけれど、おそらく手遅れだろう。

 一瞬の躊躇いは嘘の証し。

 本当ならすぐにでも答えるべきだったのである。


 後宮に来て五日ほど。

 外との連絡手段どころか後宮内もまだよくわからない状態で、宮城の外に放り出されても牢に入れられても困る。

 先日、尚寝しょうしん梨葉りようを前にした時以上に焦りと緊張に表情を強ばらせる琳瑶だが、しばらく黙って琳瑶を見ていた蘇妃は、やがて笑みを浮かべる。


「後宮の人手不足も極まれり、ね。

 こんな子どもまで雇い入れるなんて」


 そう言って卓の上の湯飲みに手を伸ばすと蓋を取り、軽く茶を口に含むと、湯飲みを卓に戻して再び蓋をする。

 それから言葉を継ぐ。


「見たところ利発そうな子だけれど、さすがに幼すぎるわねぇ」


 12歳を15歳と偽るのは無理がありすぎる。

 それは琳瑶もわかっている。

 だからといって牢に入れられても困るが、宮城の外に放り出されても困る。

 なにかしら策を思いつくまでは、なんとしても後宮にとどまり続けたい。

 その一心で 「15歳」 を主張しようとした琳瑶だったが、先に蘇妃が言葉を継いでくる。


「いいのよ、お前にも事情があるのよね。

 見ればわかるわ、きっといいところの子だった・・・んだろう?」


 どうやら蘇妃は、琳瑶を没落した貴族や商家、あるいは側室の子どもだと思ったらしい。

 一人でも食い扶持を減らすため、年齢を偽って奉公に出された可哀相な子ども。

 そもそも12歳を15歳と偽るのには無理があるわけで、おそらく尚寝の梨葉も最初の時点で気づいていたはず。

 そう考えれば今一緒にいる下女たちも気づいている可能性があって、それでも誰もなにも言わないどころかやたら琳瑶に親切なのは、ひょっとしたら可哀相な身の上に同情しているのかもしれない。


(確かに、みんなの視線に憐憫を感じるかもしれない)


 口減らしに子どもを奉公に出す親は珍しくないが、やはり12歳というのは幼い。

 しかも 「いいところの子」 が年齢を偽ってまで奉公に出されるというのはよほどのことである。

 借金の形に遊郭に売られなかっただけまし。

 それこそ後宮を追い出されれば、12歳という幼さで遊郭に売られてしまうかもしれない。

 だからみんな気づかない振りをして、口を噤んでくれているのかもしれない。


 思えば後宮に入る時も、平民らしからぬ衣装を着ていた琳瑶を門の衛士がそのまま通したのも、前例が何度もあったからかもしれない。

 ただ元凶である昌子しょうしは、こんな形で自分の愚策がフォローされているとは思っていないだろう。


「黙っていてあげる代わりに、少し話し相手をなさい。

 さ、そこにすわって」


 卓を挟んだ向かいの椅子にすわるように言葉と視線で指示してくる蘇妃だが、戸惑った琳瑶は少し離れて立つ他の下女を振り返る。

 すると先程庇ってくれようとした下女が無言で首を横に振るのを見て、琳瑶もすぐに理解する。


「あの、ここで……」


 立ったままでいいと答える琳瑶に、蘇妃は少しつまらなそうに 「そう?」 と答えると、視線で侍女に指示を出す。

 すると指示を受けた侍女が他の下女たちに仕事に戻るように言う。

 もちろん下女たちは琳瑶を気にしたけれど、蘇妃に


「食事の支度が出来るまで相手をしてもらうだけ。

 用が済んだら返してあげるわ」


 そう言われ、下女たちはやむなく次の掃除の場所へと向かう。

 後ろ髪引かれるように何度か琳瑶を振り返りながら彼女たちが行ってしまうと、改めて蘇妃は琳瑶に話し掛ける。


「立っているのはいいけれど、せめてもう少し近くへいらっしゃい」


 そう言われて琳瑶は、今度は近くにいる侍女をチラリと見る。

 すると頷き返されたのでゆっくりと卓に近づく。


「用心深いけれどまだまだ子どもね、すぐばれる嘘を吐くなんて。

 でも可愛い子だわ」


 蘇妃に 「そう思わない?」 と同意を求められた侍女の一人は 「確かに」 と応える。


「ほら、このあいだ入った新しい子」

「新しいと仰いますと、泰嬪たいひんでございますか?

 それともしん貴人きじんでございますか?」


 泰嬪とは蘭花のことである。

 思わぬところで出て来た蘭花の名前に内心どきりとする琳瑶だが、侍女と話す蘇妃は気づいていない。

 その二人の会話によれば、どうやら蘭花と同じ時期にもう一人、側室が入宮しているらしい。

 貴人というのは嬪より一つ下の位である。


「泰嬪」


 蘇妃の答えに侍女は 「ああ」 と声を応える。


黎家れいか薔薇そうび様のご令嬢が入宮なさるというから、皆、どんな美人がいらっしゃるかと期待していたのに、とんだ評判倒れだったわねぇ」

「お言葉ではございますが、それなりの美しさかと……」

「ええ、そうね、それなりね」


 突っ込み不可避の案件だったが、琳瑶は泰家で鍛えた忍耐をここでも発揮して堪える。

 蘭花は薔薇の娘ではない。

 彼女の実母は艶麗えんれいである。

 それなのにどこでどうなって蘭花が薔薇の娘ということになったのだろう?


 確かに薔薇が昌子の正妻だった頃は、妾腹とはいえ蘭花も薔薇の娘だった。

 少なくとも薔薇は、夫である泰昌子の娘として遇していた。

 その薔薇が昌子と離縁した今、蘭花の母は実母の艶麗で薔薇の娘は琳瑶一人である。

 だが蘇妃と侍女の話によると、美人と名高い薔薇の娘が入宮するということで、どんな美人が来るのかと後宮中の噂になっていたというのである。


(よくわからないけど、でも、お父様たちが黎家の祝いにこだわった理由はなんとなくわかったかも)


 薔薇の娘なら黎家から祝いが贈られて当然である。

 結果として黎家は祝いの言葉だけに留めたが、それを知っているのは当の黎家と泰家だけ。

 もし蘭花が薔薇の娘として入宮したことを知っているなら、本当は昌子が花嫁道具として揃えた品々を黎家からの祝いと言い触らしているかもしれない。

 それだって黎家の遣いの男は物を見る目があればわかると言っていたから、蘇妃は気づいているのかもしれない。

 だが琳瑶が薔薇の実子であることは知らないはずだし、知られてもいけない。

 侍女と話しながらもチラリと送ってくる蘇妃の視線を、琳瑶はぎこちなく目を逸らしてかわす。


 蘇妃はたった今 「評判倒れ」 という酷評を 「それなりの美しさ」 と侍女に訂正されたばかりなのに 「でもねぇ」 と言葉を継ぐ。


「あれだったら、全然この子のほうが可愛いじゃない。

 本当に15になれば綺麗な子になるわ」


 母薔薇がとびきりの美人であることは娘の琳瑶も認めるところだが、あと三年で、自分が母似の美人になれるかというと疑問である。

 それこそ蘇妃の買いかぶりだと思う。


「ねぇリン、知ってる?」

「なんでしょう?」


 不意に問い掛けられた琳瑶は率直に問い返す。


「どうして年季奉公の下限が15歳なのか」


 年季奉公の下限が15歳であることは薔薇の手紙に書いてあった。

 だから琳瑶も覚えていたけれど、その理由まで書いていなかったから俄に興味が沸いてくる。

 首を横に振って応えると、蘇妃は憂鬱そうな表情を浮かべる。


「皇帝陛下のお手つきになるかもしれないから」


 琳瑶は 「お手つき」 の意味を訊こうとしたが、それより早く蘇妃が言葉を継いでくる。


「でもねぇ、そんな心配なんて全然いらないのよ。

 それこそ陛下が後宮のあちらこちらで女を食い散らかしているみたいに言われてるけれど、実際に陛下のお姿を見ることすら滅多にないの。

 わたしなんて陛下の側室として入宮したはずなのに、未だにただの一度もお見掛けすらしたことがないんだから」


 つまり蘇妃は皇帝の通いがない。

 そんな自身を憂えるあまり、彼女は憂鬱な表情を浮かべているのだろうか。

 琳瑶は男女の営みすら知らないのだが、それでも蘇妃の話で、皇帝が彼女を相手にしていないということはわかった。

 だから皇帝は一度も彼女に会いに来ないのだと。


 そもそも現皇帝にはすでに皇后がおり、皇太子を筆頭に何人もの太子がいる。

 もちろん公主も。

 それこそ現皇太子がなにかしらの理由で廃太子になっても、いくらでも代わりがいるのである。


 実際に今の皇太子は前の皇太子が急逝したために擁立されたのだが、現皇后の実子ではなく貴妃の子である。

 だが前の皇太子の死は皇后に非のあることではなかったため廃されることなく、年齢順に貴妃の子である現皇太子が擁立された。


 もしこの皇太子が、またしても事故などで命を落とすことがあっても、年齢的にも母親の身分的にも、問題なく現皇后の第二太子が新たな皇太子として擁立されるだろう。

 さらには皇后にはもう一人太子がいるときた。

 どう考えても若い側室たちがいまさら子を産んでも、その子らや生母が陽の目を見ることはないのである。


 それでも蘭花を嫁がせたのは昌子の虚栄心である。

 ならば蘇妃が入宮したのも、やはり父親の虚栄心だろうか。

 実父の考えることはなんとなくわかる琳瑶だが、さすがに他人の父親の考えることはわからない。

 会ったことすらない人間ならなおさらである。


 でも疑問に思うことはある。

 だがそれを訊いてもいいものか悩んでいると、蘇妃から話し出す。


「このまま陛下のお通いがなければ、そうねぇ……あと五年もすれば、わたしは尼寺送りになるんじゃないかしら?」

「お寺?」

「ええ、そのまま死ぬまで寺で過ごすの。

 来ない陛下をこの後宮で待ち続けるより、いっそそのほうがいいのかしら?

 どう思う?」

「どう……って……」


 三年後には年季が明けて後宮を出て行く琳瑶を羨んでいるのだろうか。

 あるいは皇帝の手がついて、死ぬまで後宮で暮らすことと比べているのか?

 琳瑶にはわからないけれど、ここで時間切れとなる。

 蘇妃の朝食の支度が整ったのである。

 冷める前に食べるよう勧める侍女を前に、蘇妃は朝食に添えられていた菓子の一つに手を伸ばす。

 敷かれていた紙を抜き取ると、そこに菓子を三つほど包んで琳瑶に差し出す。


「話し相手をしてくれたお礼よ、持っていきなさい。

 他の者に見つからないように食べるのよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る