第弐話 灰かぶり媛 弐


 広い広い後宮の建物は、大きく分けて東西南北の四つに分かれる。

 琳瑶りんようが配属された東側には皇帝や皇后が住まう宮殿があり、未成年皇族も多い。

 皇太子の住まいである春宮もこの東側にある。

 そして南側と西側には二人いる貴妃が一人ずつ住まう。

 他の上級妃や中級妃、下級妃のほとんどがこの南側と西側の建物で起居しており、蘭花も西側の建物に部屋を与えられているという。


 一方北側の建物は、妃はもちろん官女も宦官も下女も少なくひっそりしているという。

 いっそこの北側に配属されたかった……と琳瑶は思ったのだが、選べる立場ではない。

 親しくなった他の下女にさりげなくそんなことをぼやいてみたら、それはやめたほうがいいと言われてしまう。

 どうやら北側の建物は訳ありらしい。

 実際に暮らしている妃も決して少なくないので、全ての建物が訳ありというわけではなく、訳ありの建物が幾つかあるということなのだろう。


 この日も皆と一緒に起床した琳瑶は朝食を摂ると、他の下女たちと一緒に掃除用具を取りに行こうとして官女に呼び止められる。

 名前は知らないけれど尚寝しょうしん梨葉りよう直属の官女で、今日一日西側の庭を掃除するように琳瑶に言い付けてきた。

 西側を担当している下女の一人が急な腹痛を起こしたらしく、手が足りないから……ということだった。


 琳瑶は西側ときいて即座に (嫌だ) と思ったけれど、泰家たいかの屋敷で鍛えられた辛抱強さで堪える。

 どうして琳瑶が嫌だと思ったのかといえば、蘭花らんかの部屋が西側の建物の一室にあるからである。

 もちろん正体を隠しているためそんなことは口が裂けても言えないが、断ることも出来ない立場である。

 言われるまま官女の案内で西側の建物に移動する。

 折角他の下女たちとも少し仲良くなれたのに……と残念に思っていると、前を歩く官女に言われる。


「西側の手伝いは今日だけだから。

 明日も体調が悪いようなら別の者を行かせます。

 でもお前だけを特別扱いするわけにはいかないからね」


 こういうことはよくあるらしい。

 今回琳瑶が応援に選ばれたのは、入ったばかりなので後宮の建物の配置などを覚えさせるためだとも官女は話していた。

 そのうち場所を聞いただけで一人で行けるように……ということらしい。

 これから三年間暮らす場所なので、早く馴染むようにという配慮でもあるのだろ。


 それに蘭花と遭遇することがあっても、おそらく忙しくて琳瑶にかまっている時間はないはず。

 黎家れいかの遣いの男は、妃たちの後宮生活を 「きっと他にすることがないんでしょうね」 なんて暇人のように言っていたけれど、実際はそんなに暇ではない。

 特に入宮直後は。

 それこそ入宮したその日、部屋に入った直後から妃としての勤めが始まると言ってもいい。


 人目につかないように宮城に入った花嫁行列は、後宮まで車で乗り入れられないため途中から徒歩になる。

 皇帝の使者の誘導で、頭から被ったベールで顔を隠した花嫁装束の蘭花を先頭に、お気に入りの侍女、真新しい嫁入り道具を運んだ従者が続く花嫁行列が後宮の門に到着すると、そこでは門を守る衛士の他に数人の男女が出迎えていた。

 これより先は男である皇帝の使いや従者は入れないため、代わりに荷を運ぶ宦官や下女、それに後宮内を案内する官女である。


 出迎え一行を代表して官女が歓迎や祝いの言葉を述べて簡易な挨拶を済ませる。

 そして広い後宮内、その官女に案内されて入った蘭花の部屋で先に着いていた侍女たちと合流し、大慌てで持ち込んだ花嫁道具を片付け、もともと部屋にある調度を整える。

 なぜなら案内してきた官女が、これから宮官長が挨拶に来ると告げたからである。

 そのために侍女たちは急いで部屋を片付け、蘭花の衣装や髪を直したりと慌ただしくなる。


 後宮の門前で官女と交わした挨拶が簡易だったのは、正式な挨拶は宮官長と交わすためであり、この数日後には、後宮の女主人である皇后に挨拶をするため出向かなければならない。

 そのあとは先に入宮している、蘭花より上位の妃たちに挨拶をするために出向き、蘭花より下位の妃たちが挨拶のために出向いてくる。

 日程の調整は尚宮しょうきゅう局の宦官や官女がしてくれるが、妃の人数も多く、ひたすら挨拶を交わし合うだけの日がひと月以上続くという。


 琳瑶同様に蘭花も入宮してまだ五日ほどだから、今頃は皇后との挨拶を済ませて妃同士の挨拶合戦に慌ただしくしているか、あるいは皇后との挨拶に備えて衣装選びに忙しくしているか。

 もちろん妃同士の挨拶合戦も、衣装や髪型はもちろん、もてなしの茶器や茶菓子選びにも気を抜くわけにはいかない。

 つまり琳瑶にかまっている余裕など、心にも時間にもない日々を過ごしていると思われる。


 琳瑶が薔薇そうびに後宮のことを尋ねたのは何気ない興味本位だったから、書かれていたことがこんな形で役に立つとは思いもしなかった。

 だがそれでも、やはり蘭花がどこかにいると思うと西側に行くのは嫌だった。


 今日一日を一緒に働く下女たちと顔を合わせたのは初めてだったが、幸い皆気が好さそうで、案内してきた官女が入ったばかりの新人だと琳瑶を紹介したこともあってか、細かいことまで丁寧に教えてくれた。


 最初に掃除をしたのは建物と建物のあいだにある幾つかある庭院(にわ)の一つで、小さな池と東屋が設えてある。

 年長の下女数人が東屋の掃除を始めると、琳瑶は他の下女たちとその周りの落ち葉を掃き集める。

 その最中、綺麗な衣装を着た若い女がやってきて、東屋の掃除をしている年長の下女の一人に話し掛ける。

 琳瑶も何気なく箒を動かしながら耳を傾けてみると、妃の一人がこの東屋で朝食を摂るから早く掃除を済ませろというのである。


 あらかじめ、それこそ昨日のうちにでも言っておいてくれたらもっと早い時間に掃除を済ませていたはずだが、こんな妃の気まぐれは後宮では日常茶飯事である。

 むしろこの程度なら可愛いものだとあとで年長の下女がぼやいていたが、とにかく今は掃除を済ませることが先決である。

 知らせに来た侍女に急かされるように掃除を終えたが、下女たちが下がる前に妃本人がやって来てしまった。


 入ったばかりで状況を理解出来ない琳瑶だが、他の下女たちの様子を見る限りよろしくないことはわかる。

 尚寝の梨葉に言い付けられてあとで折檻されるか、あるいはこの場で妃に叱責されるか。

 いずれにせよ怒られるのは間違いないだろう。

 素性を隠し年齢を偽っている琳瑶は、目立つことを避けるために他の下女たちのうしろに隠れるようにひっそりと立つ。

 もちろん申し訳なさもあったけれど、とにかく目立つことを避ける必要があった。

 だから隠れたのだが、妃に連れられてきた侍女の一人がわざわざ琳瑶のそばまで来て声を掛けてくる。


「そこのお前、名前は?」

りん……と申します」


 一瞬本名を名乗りそうになって焦る。

 そんな琳瑶の内心に気づいたわけではないだろうが、横に立っていた年長の下女が慌てて侍女に取りなすように言い出す。


「あの、この子はまだ入って間もない者で、その……」

「そう、新入りなのね」


 意外なところから聞こえてきたのは妃の声である。

 普通の妃は朝食の支度が出来たところにやってくるが、その妃は朝食の支度前にやってきて、東屋の椅子にゆったりと掛けて目の前で進む朝食の支度を眺めていた。

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