弐章

第壱話 灰かぶり媛 壱

 泰家たいかの屋敷から無理矢理連れて来られた後宮までは酷く遠かった。

 黎家れいかの屋敷とどちらかが遠いか? ……と問われれば、琳瑶りんようの答えは 「わからない」 である。

 これまでに黎家の屋敷には何度か行ったことがあるけれど、いつも父と同じ車で、歩いて行ったことは一度もない。

 後宮に至っては全く初めて来る場所で、どちらが遠いかなんてわかるはずもない。

 だがわかることもある。


 とにかく遠かった


 今までほとんど屋敷から出たことのなかった琳瑶には、とても歩いてこられる距離ではなかったことは確かである。

 琳瑶を捕まえて無理矢理連れてきた蘭花らんかの侍女も、琳瑶を騙した安子あんしも途中でへばっていたから、何度か 「ここで捨てていって」 と言ってみたが、安子はともかく、蘭花の侍女たちは 「駄目です」 とか 「もう少し歩いてください」 とか 「頑張ってください」 などと言って、決して琳瑶を途中で置いていこうとはしなかった。


 もともと蘭花の侍女は、とにかく気に入られたくておべっかばかりのイエスマンならぬイエスウーマンと、実務に長けたバリキャリに分かれる。

 蘭花のお気に入りはこのおべっかばかりのイエスウーマンたちなのだが、彼女たちは口先ばかりで仕事は疎かになりがち。

 とにかく蘭花に取り入ることにばかり忙しくしているのである。


 そのため実務に長けたバリキャリたちが必要なのだが、彼女たちも蘭花の機嫌を損ねればいとまを出されてしまう。

 だから表面上は蘭花の機嫌を損ねないように適当に合わせて過ごしており、日頃琳瑶に素っ気ないのもそのためである。

 だからここで琳瑶を見失えば自分たちが無事に済まないこともわかっている。

 それに町中で、右も左もわからない子どもを一人にすればどうなるかもわかっている。

 だからどうしても後宮まで琳瑶を連れて行く必要があったのだろう。


 これが幸いだったかどうかはわからないけれど、足を棒にして疲れ果てながらも、全員が無事後宮に辿り着くことが出来た。

 ただ安子だけは途中で何度も


「置いていってもいいですけど、わたしのせいにしないでくださいね」


 そんないつもどおりのことを言っていた。

 しかしこれも後宮に着くまでのことである。

 琳瑶はもちろん一緒に来た蘭花の侍女たちも、安子が今どこにいるかを知らない。

 それどころか侍女たちは琳瑶がどこにいるかも知らないし、琳瑶も彼女たちがどこにいるのかを知らない。


 それどころではなかった


 後宮に着いてすぐ侍女たちと引き離された琳瑶と安子は、官女の案内で別々の場所に連れて行かれたのである。

 そこがどこなのかを考える間もなければ疲れた体を休ませる間もなく、連れて行かれた部屋で手渡された仕事着に着替えるように言われる。


「ちょっと大きかったねぇ」


 手間のかかる盛装ならともかく、普段の着替えくらいなら一人でも出来るようになっていたのは幸いだった。

 初めて着る仕事着に少し手間取ったけれど、無事に着替えを終えた琳瑶を見て先輩の下女は少し笑っていた。


 見たところ蘭花と同じような年齢だから17、8歳くらいだろうか。

 琳瑶と同じ仕事着を着ていたが、少し色が褪せた生地に痛みも見える。

 それなりに長く勤めている下女かもしれない。

 彼女は少し大きい琳瑶の仕事着を手直ししてやると、また別の部屋に案内する。

 そこには明らかに身分が違うとわかる官女がいた。


 椅子にすわって琳瑶を待っていたのは年齢30歳くらい。

 琳瑶や先輩下女とは違う衣装を着ていて、表情や座った姿勢にも威厳が感じられる。

 その官女を、案内してきた下女は 「尚寝しょうしん梨葉りよう様よ」 と小声で紹介してくれた。


 尚寝とは役職の一つで、皇帝の寝所や寝具の管理の他、園庭の管理などをする尚寝局の長のことである。

 少し前に薔薇そうびからもらった手紙に書かれていたことを思い出していると、梨葉と紹介された官女は、すぐ脇にあった机の上に置かれた文箱の中から一枚の紙を取り出して見る。


「……お前がリンか」


 これから琳瑶は 「リン」 という名前で、この後宮の下女として働くことになる。

 別れる前に蘭花の侍女がそう言っていた。

 後宮の下働きの年季は三年。

 明けるまで後宮から出られないというのも薔薇からの手紙で得た知識である。

 もちろん他にも得た知識はある。

 そのことを思い出し、手にした紙と琳瑶を見比べている梨葉の様子を窺い見る。


「……15にしてはずいぶん小さいね」


 特に後宮は、下女でも皇帝のお手つきになる可能性があるためだろうか。

 妃が自分の家から連れてくる侍女も含めて、宮中で働けるのは男女問わず15歳以上と決まっている。

 つまり本来なら12歳の琳瑶は働けないはずだが、おそらく父の昌子しょうしが偽ったのだろう。

 名前すら 「リン」 に変えられた琳瑶は 「15歳」 ということにされていた。

 それが梨葉にバレたのではないだろうかと琳瑶は冷汗が止まらない。


 下女として後宮に入れられた琳瑶はこれから三年、外に出ることが出来ない。

 でも年季が明ける三年後に黎家、あるいは泰家に戻る場所があるのだろうか。

 もちろん琳瑶の望みは黎家で母親と一緒に暮らすことである。

 けれど約束を破って黎家に行かなかった琳瑶を、薔薇は許してくれるだろうか。

 約束を破ったことを怒っていなくても、三年後には行方不明のまま忘れ去られているかもしれない。


 だからと言って泰家にはもう戻れない。

 戻れたとしても琳瑶は戻りたくない。

 どうしても父や継母の仕打ちを許せないのである。


 でもここで梨葉に嘘がばれたらどうなるか?

 最悪の場合、牢屋に放り込まれるかもしれないが、今ならせいぜい王宮から放り出されるだけで済むかもしれない。

 それでも、今、歩いたこともない町に一人で放り出されるのは怖かった。

 王宮から黎家までの道もわからないし、時間も時間である。

 陽のあるうちに黎家に辿り着けなければ、夜の町をどこでどう凌げばいいのかわからない。

 だからとりあえず下女として後宮に留(とど)まり、外と連絡を取る方法を探ろうと考えたのである。

 そのためにも梨葉に本当の年齢がバレるわけにはいかなかった。


 いっそ本名を明かして助けを求めることも考えたけれど、泰家の娘を名乗ることは出来ない。

 この後宮には蘭花がいるのだから家に問い合わせるまでもない。

 用意周到に侍女が言いくるめられていたことを考えれば蘭花もこのことを知っているはずだから、おそらく琳瑶のことを問われれば嘘つき呼ばわりするだろう。


 では黎家の娘を名乗るか?


 大切にしていたあの髪飾りすら失ってしまった琳瑶には身を証す品の一つもなく、やはり嘘つき呼ばわりされて、下手をすると牢に入れられてしまうかもしれない。

 結局琳瑶はこの時点では様子を見ることを選んだのだが、すぐにこの選択が正解だったことを知ることになる。


「それが一番小さい服かい?」


 梨葉に尋ねられた先輩下女は 「はい」 と小さく答える。

 すると梨葉は 「仕方がないねぇ」 と溜息混じりに呟く。


「手直しでどうにかなりそうだし、まぁいいだろう。

 体も小さいし、とりあえず簡単な仕事から教えてやりなさい。

 利発そうな子だからすぐに覚えるだろう」


 そういうと 「下がりなさい」 と手振りで示す。

 琳瑶は先輩下女に連れられて部屋を出ると、その足で早速仕事開始である。

 琳瑶に割り当てられた簡単な仕事とは庭掃除だった。


「掃除道具はここ。

 使い終わったら必ず戻して頂戴」


 先輩下女は箒やちりとり、集めた落ち葉などを入れるための籠、集めた落ち葉を捨てる場所など、足早にではあったけれど丁寧に教えてくれる。

 道具をしまってある場所は広い後宮内に幾つかあるけれど、琳瑶が割り当てられたのは東の建物を中心とした庭である。

 もちろん他にも同じ場所を担当する下女はいるし、年季が明けるなどで下女が辞めれば他の場所と人数を調整するための移動もある。

 人間関係などでの移動もあるが、当面は東の建物周辺の庭掃除が琳瑶の仕事となった。


 初日は泰家から後宮まで初めて歩いた距離で酷く疲れていた。

 特に腰や足が。

 でも板間に薄い蒲団を敷いただけでは体が痛くてよく眠れず、翌朝は寝坊しそうになった。

 幸いにして大部屋で、同室の下女が起こしてくれたので朝食を食べ損ねずに済む。

 そのあとは休憩を挟みながら一日中庭掃除である。

 他にも掃除をする場所はあるけれど、新入りである琳瑶は一番簡単な仕事ということで、他の下女数人と庭掃除が割り当てられたのである。


 一日箒を握っていると手にはすぐマメが出来て潰れてしまう。

 これが酷く痛んだが、手当をしてもらうとまたすぐに仕事である。

 仕方がないとはいえ痛みを堪えながら仕事をすると、三日ほどでコツ、あるいは要領のようなものが掴めてくる。

 箒の握り方やチリトリの使い方。

 それに籠に入れた落ち葉を落とさないように背負う方法など、少しずつコツがわかってくるとマメも出来なくなるし、仕事も楽に早く出来るようになってくる。

 それに日がな一日掃除をして体を動かしていると考えもまとまるような気がするし、少し慣れてくると一緒に働く下女たちも話し掛けてくれるようになった。


「そのうちに手が慣れるよ」


 ほとんどがたわいない世間話ばかりの中、そんなことを言って手のマメを気遣ってくれた下女もいた。

 そうして後宮勤めも五日ほど経った頃、琳瑶はある妃と出会った。

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