第拾弐話 蘭花の入宮
その距離を十二歳の子どもを一人で歩かせるのは心配だから……と薔薇も最後まで食下がったが、琳瑶も最後までいらないと引き下がらなかったのである。
薔薇には説明しなかったけれど、父の
少なくとも琳瑶はそう思っていた。
当然
そうして蘭花の入宮の前日から、琳瑶は自分の部屋でおとなしくしていた。
予想通り父の昌子が前々日にそう言ったからである。
でも本当におとなしく過ごしていたわけではない。
これも予想通りだが、蘭花の入宮当日、安子は朝の身支度を終えた琳瑶を部屋に一人置き去りにしてどこかに行ってしまった。
おそらく蘭花の部屋に行ったのだろう。
もちろん琳瑶の勝手な予想だが、実際に安子がどこにいるかなんてどうでもよかった。
おかげで一人になった琳瑶は計画を実行することにしたのである。
まず衣装を着替える。
安子にくすねられた三枚の古着以外にも、今はほとんど着なくなった古い衣装は他にも数着あり、その一着に着替える。
もちろん古くなったとはいっても生地はよく、少し褪せてはいるけれど痛みはない。
髪型はいつもと同じだが、お気に入りのバラの髪飾り以外は全て外した。
そして母の手紙を詰め込んだ文箱を取り出す。
他の物は諦めたけれど、これだけは絶対に持っていこうと決めていた。
これからは母と一緒に暮らせるけれど、どうしてもこれだけは手放したくなかったのである。
ほとんど出たことのない屋敷の外に、これからたった一人で出る。
そして歩いて黎家の屋敷を目指す。
自分で決めたこととはいえ、母に会える嬉しさ以上に無事に辿り着けるかわからない不安のほうが大きく、勇気を出すため文箱に顔を近づけて母の香りを嗅ぎ、自分を奮い立たせる。
どうしても時間の経った文は、焚きしめられた
それでもこうやって箱の中にまとめておくとなんとか保つことが出来るのだが、墨や料紙の臭いが混じってしまうのはどうしようもなかった。
どうせ安子は当分戻ってこない。
そう思うと気兼ねなく存分に母の香りを堪能することが出来た。
もうすぐ母から直接この香りを嗅ぐことが出来ると思うと家を出る勇気も湧いてくる。
だがどうしても蓋を閉じる気になれなくて、あと少しだけ……と未練がましく嗅いでしまう。
あと少しだけ……
たぶん安子が戻ってくるのは蘭花の出立を見送ってから。
それに安子のことだから、部屋に戻ってきた時に琳瑶がいなくても探そうとはしないだろう。
なにもせず部屋で待っているか、琳瑶がいないのをいいことにまたどこかに行ってしまうかのかのどちらかだろうが、だからと言って彼女が戻ってくるギリギリまで部屋にいるわけにはいかない。
琳瑶の計画としては、安子が部屋に戻ってくる頃には屋敷を出ておきたい。
いっそ安子も蘭花と一緒に後宮に行けばいいのにとさえ思ってしまうが、それはあり得ない話だから、そろそろ諦めて文箱の蓋をする。
そして開かないように紐で縛り、目立たない布で包む。
これを持ってお遣いの振りをしようという作戦だが、実際に持ってみると結構重い。
だがこれだけはどうしても置いていきたくなかった。
少し無理をしてでも持っていくと決め、あとは部屋を出るタイミングだけである。
安子から聞き出した話では、家族全員で迎えに来る皇帝の遣いを出迎えて挨拶をし、それから出立となるらしいのだが、儀礼的な挨拶に限って時間がかかるもの。
そのあいだに琳瑶は部屋を抜け出し、そのまま屋敷をも抜け出す予定だったのだが予定外のことが起る。
安子が戻ってきたのである。
「お嬢様……あら? 着替えたんですか?」
もう二度と安子と会うことはないと思っていた琳瑶は言い訳を考えておらず、思わぬ指摘にギクリとする。
だが安子は安子である。
「最近はそのご衣装着てなかったのに、珍しいですね。
どういう風の吹き回しですか?
まぁいいですけど」
そんなことを言い出す。
だから琳瑶も下手なことは言わず、このまま上手く誤魔化そうと考えた。
しかも安子のことである、またすぐどこかに行ってしまうだろう。
だから余計なことは言わずにやり過ごそうと思ったのだが、またまた予想外のことが起る。
なんと昌子が琳瑶を呼んでいるというのである。
「お父様が?」
「はい」
さすがに怪訝な顔をしてしまう琳瑶だが、安子は、いつもは見せない愛想のいい顔で答える。
「でもこれから陛下のお遣いをお迎えするんじゃ……」
「多分そうですね」
「じゃあ衣装を着替えないと……」
さすがに古着で皇帝の遣いを迎えるのはよくないのではないかと考える琳瑶だが、安子は、ついさっき見せたばかりの愛想をどこかにうっちゃっていつもの調子に戻る。
「大丈夫です、お嬢様には関係ないんで」
「関係ない?」
「はい、関係ないです」
「でも……お父様が呼んでるのよね?」
「そうです」
昨日は琳瑶に、部屋でおとなしくしているように言っていた昌子だが、なにかあって急に予定が変わり、琳瑶も出迎えの挨拶に同席させようとした。
そのために安子が呼びに来たのかと思ったのだが、安子は違うという。
ではどういうことなのか? ……という琳瑶の戸惑いをよそに、安子はその小さな背中を急かすように押す。
「とにかくお呼びです。
早くしてくださいよ、わたしが怒られるじゃないですか。
ほんと、お嬢様ってグズなんだから」
そんなことを言いながら背中を押す安子が無理矢理琳瑶を連れてきたのは、普段使われていないらしい部屋で、入宮のお伴をする蘭花の侍女たちが控えていた。
特に蘭花のお気に入りの姿が見えないのは、今も蘭花の側にいるかららしい。
決して広くない部屋には、お気に入りではない侍女たちが身支度を調えて控えており、安子に連れられてきた琳瑶を見てヒソヒソと耳打ちし合う。
(嫌な空気)
日頃琳瑶と蘭花の侍女に交流はないが、蘭花と琳瑶の姉妹仲が悪いため、侍女たちも当たり前のように琳瑶を嫌っている。
そんな彼女たちの中に放り込まれて居心地がいいはずがない。
なにやらごそごそしている安子に、いったいどういうことなのか訊こうとしたら布包みを押しつけるように手渡される。
「安子、どういうこと?
お父様が呼んでるんじゃなかったの?」
「そんなこと言いましたっけ?」
しれっと嘘を吐く安子に、手渡された包みについて訊いてみる。
「これはなに?」
「あ、ここで開けないでくださいよ。
お嬢様のためにわざわざ用意してあげたんですから」
「なにを?」
「もちろん着替えですよ」
威張るように胸を張って答える安子に、琳瑶はすぐピンとくる。
琳瑶の部屋から安子が持ち出した古着のことである。
ヒシヒシと感じる危機感を堪え、冷静に安子を
「着替えなんてどうするの?」
「だって必要ですよね?
お嬢様も蘭花お嬢様の侍女として、一緒に後宮に連れて行ってもらえることになったんですよ」
「ひょっとして安子も?」
「もちろんです!」
おそらく琳瑶を連れ出す代わりに安子も一行に加えてもらったのだろう。
誇らしげに胸を張って答える安子を見て琳瑶は激しい怒りを覚える。
(安子、絶対に許さない!)
激しい怒りと恨みを抱く琳瑶だが、今は安子よりも考えなければならないことがある。
最初はどうにかして逃げ出すことを考えたけれど、安子を含め、蘭花の侍女は皆琳瑶より歳上ばかり。
しかも一人や二人ではなく、腕力でも人数でもかなわない。
ならばせめてこのことを知らせなければ……と思い、考える。
蘭花とお気に入りの侍女数人は、迎えに来た皇帝の遣いと一緒に車で後宮に向かうため、安子を含めた他の侍女たちは、一足先に
使用人用の通用口を出て、そのまままっすぐ通用門へ向かう一行に引き摺られるように連れて行かれる琳瑶は、門を出てすぐのところで見覚えのある男が泰家の屋敷に向かって歩いてくるのに気がつく。
前後左右を安子や蘭花の侍女たちに囲まれて歩いていた琳瑶は、男とすれ違う直前、両手に抱えるように持っていた包みをさりげなく落として足を止める。
前を歩いていた侍女は気づかずそのまま行ってしまうため、出来た隙間を抜け出すと見覚えのある男に駆け寄る。
「お願い、助けて!」
突然声を掛ける琳瑶に男は驚いて足を止める。
まだ若い男である。
決して身なりは悪くないが、やはり使用人と思われるその男は、慌てた様子の琳瑶に驚きを隠せず立ち止まり、追いかけてくる侍女たちをチラリと見る。
「お願い、お母様に知らせて!
助けてって!」
そう言った琳瑶は頭に手を当てると髪飾りを外し、男の胸に押しつける。
この髪飾りを見ればわかってくれるはず、そう思ったのである。
「お嬢様、いけません!」
「早くこちらへ」
慌てて駆け付けた侍女たちは、口々にそんなことを言いながら琳瑶を男から引き離す。
そしてなんでもなかったように琳瑶を連れ去ろうとする。
「あの……」
琳瑶と侍女のやり取りに気圧された様子の若い男はなにか言おうとするけれど、代表するように安子が 「なんでもありません!」 と声高に返すと黙り込んでしまう。
だが慌てていて、琳瑶が髪飾りを男に手渡したことには誰も気づかなかったらしい。
男のほうもなにかを察したのか、さりげなく受け取った髪飾りを袖口に隠し、慌ただしく琳瑶を連れ去る侍女たちを見送る。
あの男は黎家に知らせてくれるだろうか?
左右を歩く侍女に両脇を抱えられ逃げられなくなった琳瑶は、おとなしく歩きながらも考える。
気がかりで気がかりで考える。
そして気がつく。
琳瑶があの男に見覚えがあると思ったのは気のせいだったのではないか、と。
黎家の迎えは琳瑶自身が断っている。
それがこんなところでタイミングよく遭遇するなんて都合がよすぎるのではないか? ……と気がつき、自分の勘違いだったのではないかと思ったのである。
だとすれば黎家に知らせてもらえないどころか、大切にしていた髪飾りまで失ってしまったことになる。
そのことに気がついた琳瑶は十二年の人生で最大の後悔に襲われ、次に逃げ出す機会を窺うことを忘れてしまった。
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