第拾話 七年前のあの日


琳瑶りんようや、大きくなったら母と暮らしましょう」


 七年前の琳瑶はまだ五歳だった。

 あの頃に比べたらずいぶん背も伸びたし、力も強くなった。

 いろんなことも覚えたし、読み書きだって出来るようになった。

 でもまだまだ子どもだから、母と暮らせる日はもっとずっと先だと思っていた。

 それが先日届いたいつもより分厚い手紙は 『琳瑶や、そろそろ母と暮らしませんか?』 という誘い文句で締めくくられていたのである。


 最初にその文面を見た時は、ただただ信じられなかった。

 次にその部分の筆跡を今までに届いた母の手紙と見比べてみた。

 間違いなく母薔薇そうびの筆跡である。

 それでもまだ信じられなかったから自分の頬を思い切りつねってみた。


 痛かった……


 それでもまだ信じられなかったから、部屋に戻ってきた侍女の安子あんしにも頬をつねってもらう。

 だがこれは間違いだった。

 意地の悪い安子は、日頃の鬱憤を晴らす勢いでつねったのである。

 おかげで他の使用人に頼めばよかったと後悔するくらい思い切りつねられた跡は酷く腫れてしまい、夕食の時間になっても赤く腫れたまま。

 それを見た姉の蘭花らんかに笑われてしまう。


「あんた、なにそれ?

 なに? あの役立たずな侍女と喧嘩でもしたわけ?」


 安子の他に琳瑶の相手をする使用人なんていないと言いたげな蘭花だが、名前は覚えていないらしい。

 おそらく元は自分の侍女だったことも覚えていないのだろう。

 昼間のこともあり酷く機嫌の悪い蘭花だったが、それは母親の艶麗えんれいも同じである。


「みっともない顔をして!

 使用人に叩かれるなんて、情けない!」


 本当に使用人に叩かれたなら情けない話だが、実際は琳瑶のほうからつねってみて欲しいと頼んだのである。

 だがそれは口が裂けても言えない。

 それを言えばなぜそんなことを頼んだのか? ……という話になり、あの手紙に書かれていたことを話すことになる。

 おそらく艶麗や蘭花は大丈夫だが、父の昌子しょうしには薔薇の誘いを知られてはいけないと思ったのである。


 理由は七年前のあの日である。

 昌子と離縁することを決めた薔薇を黎家れいかの使用人が迎えに来た日、なぜ薔薇が琳瑶を置いていったのか?

 本当は薔薇は琳瑶も連れて帰るつもりだったのだが、いくら探しても琳瑶が見つからなかったのである。

 だが離縁した以上、いつまでも泰家たいかの屋敷にいることが出来ない薔薇は、琳瑶の侍女を残して黎家の屋敷に帰るしかなかったのである。


 当時五歳だった琳瑶には、母親が屋敷を出て行った日の記憶がない。

 それは七年経って十二歳になった今でもわからない。

 その日の記憶だけがすっぽりと抜けたままなのである。


 だがわかることもある。

 黎家の権勢を恐れていた父の昌子がなにかしたということである。

 もちろん琳瑶の勝手な憶測に過ぎないが、おそらく間違いないだろう。

 当時いた侍女たちの話では、薔薇が出ていった翌日の朝、琳瑶は自分の部屋の寝台で眠っていたというのである。

 目を覚してからいくら聞いても前日のことを全く覚えていなかっただけでなく、琳瑶の記憶にある前日は薔薇が出ていく前の日だったのである。

 そして昌子は、突然母がいなくなったことに泣きじゃくる琳瑶を慰める振りをして繰り返し言い聞かせたのである。


「母の再婚の邪魔になるから、お前はこのまま父の屋敷で暮らしなさい」


 淋しくて悲しくて母に会いたがった琳瑶だけど、邪魔者になって母に嫌われるの嫌だった。

 だからずっと我慢していたのだが、成長とともに父の目論見に気づいた。

 そしてあの日、自分がどこにいたのかを考えたのである。

 今も記憶はないままだが、おそらく薬を盛られて眠らされ屋敷のどこかに放り込まれていたのだろう。

 黎家の屋敷ほどではないが、泰家の屋敷だって十分に広い。

 ほんの五歳の子どもを隠せる場所などいくらでもある。

 たぶん琳瑶の憶測は間違いないだろう。

 そんな狡猾で陰険な父の妨害を阻止するためにも、絶対に母の誘いを知られるわけにはいかないのである。


 もし知られたら……


 琳瑶はもう五歳の子どもではない。

 あの頃のように簡単に丸め込むことは出来ないが、かといって昌子がなにもせず、琳瑶を黎家に送り出してくれるとも思えない。

 それこそどんな手段を使ってでも邪魔をしてくるだろう。

 つまり琳瑶が母親の許にいくための障害は、蘭花でもなければ艶麗でもなく父の昌子なのである。


 絶対に隠し通す


 そのためにも艶麗や蘭花になにを言われてもここは黙って耐える……のはいつものことである。

 だから機嫌の悪い二人に、頬が晴れていることをいくら馬鹿にされても、いつものように黙って耐える。

 そして夕食を摂り終えると、さっさと自分の部屋に引き上げる。

 むしろいつもと同じように過ごすほうが父も不審に思わないだろう。

 そうやって薔薇との約束の日までをやり過ごすことにした。


 そう心に強く決意した琳瑶だったが、自分の部屋に戻ると俄に不安になる。

 あの手紙の最後にあった一文が、ひょっとしたら自分の願望が生み出した幻覚だったのではないかと思ってしまったのである。

 安子がいないことを確認してから文箱にしまった手紙を取り出すと、改めて文頭から手紙を再読する。


 長い長い手紙である。

 しかも読み終えたあと、我慢しきれず料紙に焚きしめられた薔薇の香を嗅いでしまい、この夜は寝るのが遅くなってしまった。

 けれど朝になるといつもと同じ時間に安子が起こしに来る。

 おかげで寝坊せずに済んだのだが、ひょっとしたら安子に感謝したのは、一年の付き合いでこの時が初めてだったかもしれない。


 だがこの感謝もすぐに撤回することになる。

 琳瑶が気がついたのはこの数日後だが、安子がついに琳瑶の物をくすねたのである。

 あまりにも仕事が出来なさすぎて蘭花に見捨てられ、押しつけられた琳瑶も、手癖だけは悪くなかったから我慢出来たのだが……。

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