【完結】海の見える坂道(作品240518)

菊池昭仁

海の見える坂道

第1話

 「上村うえむら部長! 今夜みんなで飲みに行くんですけど部長も一緒にいかがですか?」


 私がデスクで帰り支度をしていると、こずえが声を掛けて来た。


 「今日は華金だもんな?」

 「たまには部長も行きましょうよ! 部長の石原裕次郎、また聴かせて下さいよお!」


 私は財布から3万円を抜き取り、梢に渡した。


 「これで1次会の足しにしてくれ」

 「お金じゃなくて、部長と飲みたいんですう」

 「いいから取っておきなさい。悪いが今日は人と会う約束があるんだ」


 私は嘘を吐いた。


 「もしかしてデートだったりして?」

 「まあそんなところだ」

 


 私は5年前に妻を亡くしていた。

 子供がいなかったのは良かったのか悪かったのか? 今ではよくわからない。



 「部長はダンディーですからね? まだまだイケてますよ!

 いいんですか? こんなにいただいても?

 いつもすみません、ありがとうございます!

 次回は必ず参加して下さいね、それじゃあ遠慮なく。

 みなさあーん! 部長から3万円もカンパしていただいちゃいましたあ!」


 梢はヒラヒラと札を振ってみんなに見せた。


 「ありがとうございます」

 「部長、いつもすみません」

 「ゴチになります!」

 「部長大好き!」



 私は部下に気を遣うのも、遣わせるのも面倒だった。

 そしてそれは残された貴重な時間を、そんなことで使いたくはなかったからだ。

 私は余命宣告を受けていた。




 「残念ですが、上村さんは心筋梗塞のようです。

 上村さんの心臓は現在、30%しか動いていません」

 「つまりそれは余命宣告と理解してよろしいのでしょうか?」

 「取り敢えず今、狭窄しているこの動脈を開放する必要があります」

 「先生、この閉塞している血管が通れば心筋が再生されるわけではありませんよね?

 このまま放置するとどうなりますか?」

 「最終的には肺に水が溜まり、プールで溺れたような状態になります」

 「それだけ伺えば十分です。私は自分の人生に後悔はありません。

 戦国時代であれば、50年が男の寿命でしたよね?

 しかもまともな医者なんていなかったわけだし、私は貝原先生が主治医で本当に良かったと思っています。

 出来ることなら苦しくなる前に死にたいものです。

 そんな溺れる状態になる前に死にたい。

 死んだ女房もあの世で待ってるでしょうしね?

 「あなた、モタモタしていないで早くこっちに来なさいよ」ってね?」


 貝原医師は明らかに困惑しているようだった。


 「大丈夫ですよ、すぐにそうなるわけではありませんから」


 この医者はやさしい医者だった。

 最後に気休めを言うのを忘れることはなかった。



 誰も私がそんな病気を抱えているとは思わない筈だ。





 月曜日の午後、銀行の三浦が会社にやって来た。

 打ち合わせも終わり、淹れたお茶もすっかり温くなった頃、三浦が言った。


 「それでは上村部長、今期の決算書が出来上がりましたらお知らせ下さい、取りに伺いますので。

 今期もかなり好調なようで何よりです」

 「三浦次長、聞きましたよ、今度、本店にご栄転されるそうじゃないですか? おめでとうございます」

 「それも御社のおかげですよ。どうです? そのうち一杯?」

 「では私にご馳走させて下さい。次長のご栄転のお祝いに」

 「とんでもありません、私に接待させて下さいよ。

 お世話になっているのは私の方ですから」

 「でもなんだか寂しくなりますね? 三浦次長が弊社の担当から外れてしまうのは」

 「ありがとうございます上村部長。それは私のセリフですよ。

 部長とお付き合いさせていただき、私もすごく勉強になりました」

 「逆ですよ。私の方こそです」


 私は空虚なこのやり取りに疲れ、話を打ち切ることにした。

 所詮、銀行は晴れた日に無理やり傘を押し付け、雨が降りそうになるとそれを簡単に奪い去るのだ。

 この三浦は典型的なそんな銀行員だった。



 「申し訳ありませんが三浦次長、これからお客様がいらっしゃるのでそのうち、こちからお誘いしますね?」

 「これは失礼いたしました。上村部長とお話しをしていると、つい時間を忘れてしまいます。

 では今後とも当行をよろしくお願いします。次回は私の後任を連れてご挨拶に伺いますので」

 「わかりました。三浦次長さんのような優秀な方だといいのですが」

 「私よりもはるかに優秀な女性行員ですよ。うちの女性役員候補ナンバーワンですから」

 「女性の次長さんなんですか?」

 「おそらく次の人事異動では本店の支店長に昇格するはずです。それにかなりの美人ですしね?

 ご期待下さい、上村部長。

 銀行内でも彼女は高嶺の華ですから」



 

 そして一週間後、三浦が連れて来た後任の女性を見て私は息を呑んだ。

 それは高校生の時に付き合っていた、大谷梨奈だったからだ。

 梨奈は私が銀行との窓口になっていることを事前に知っていたようで、私を見て静かに微笑んでいた。



 「私の後任になります、大谷でございます」


 すると梨奈はいかにも初対面だという感じで私に名刺を出して丁寧に挨拶をした。



 「初めまして、福邦銀行の大谷でございます。今後とも三浦の時と同様、引き続き当行と良いお付き合いをお願いいたします」

 「こちらこそ、よろしくお願いします」



 私はあの時の淡い初恋を思い出していた。

 それは手を握ることもない、青臭い恋だった。

 あれからもう20年が過ぎていたのか?


 梨奈は中森明菜や松田聖子のように、美しく年令を重ねて円熟味えんじゅくみを増していた。

 左手の薬指には結婚指輪が光っていた。


 「それでは上村部長、次の挨拶周りがございますのでこれで失礼いたします」

 「お気をつけて。わざわざご丁寧にありがとうございます」

 「ではこれからも、当行をよろしくお願いいたします」


 三浦と梨奈は帰って行った。




 その日の夜、私の携帯に梨奈から電話が掛かって来た。



 「びっくりしたでしょう? 私があなたの会社の担当になるなんて?」

 「君が銀行員になったのは噂では知っていたが、まさかウチの担当になるとはね?

 お手柔らかに頼むよ」

 「そうなるように私が仕向けたのよ。あの三浦ってイヤな奴でしょう? 私、あの男、大っ嫌い。

 部下の手柄は全部自分の手柄にして、そしてミスは部下のせいにする。

 銀行では「モズ」って渾名あだなされているわ。

 ほら、モズってあんなに小さな鳥なのに、小賢こざかしくて惨忍な鳥でしょう?」

 「モズのか?」

 「ところで奥さん、大変だったわね?」

 「知っていたのか?」

 「ええ。あなた、同級会にも来ないから、太田君から聞いたの。ねえ、今度、一緒に食事でもしない?」

 「いいけど」

 「じゃあ今日でもいい?」

 「今? もう22時だぜ?」

 「大丈夫、いま私、洋ちゃんの家の前にいるから」


 カーテンを開けると、家の前にシルバー・メタリックのクーペが停車し、ハザードランプが点滅していた。



 私はすぐにスーツに着替え、梨奈の助手席に乗り込んだ。


 「ごめん、もう飲んでいるから運転が出来なくて」

 「急に押しかけて来てごめんなさい。なんだかすごく懐かしくて。

 変わってないわね? あなたはあの時と同じ瞳をしていたわ。

 近くのファミレスでもいいかしら?」

 「ああ」


 私たちの長い思い出話が始まろうとしていた。


 


第2話

 近くには駐車場のある飲食店が少なく、24時間営業のファミレスはかなり混雑していた。



 「何にする?」


 大きなメニューを広げながら、梨奈が私に尋ねた。


 昼間の黒いスーツ姿とは違い、家に戻って着替えて来たのか、梨奈はセレブ・ミセスといった感じで髪を下ろして軽くウエーブを掛けていた。

 梨奈からは女房が好きだった、Diorの『rose de rose』の香水の香りがほんのりと香っていた。



 「クリームソーダ」

 「部長さんが飲むものじゃないわね? 随分とかわいい物を注文するじゃないの。

 じゃあ私はミックスフライ・セットにしようかな?」


 ほころぶ笑顔がとてもチャーミングだった。高校生だった頃の面影がまだ残っていた。



 店員にそれらを注文すると、梨奈はドリンクバーから飲み物を持ってやって来た。



 「それってアイス・ティーなのか?」

 「ルイボスティーだよ、飲んでみる?」

 「いやいいよ、俺はドリンクバーを頼んではいないから」

 「そういう真面目なところ、変わってないね? あの頃と同じ」

 「結婚しているのか? 今日、指輪をしていたようだけど?」

 「していたわよ、つい最近まではね。でももう別れたのよ、ほらね」


 梨奈は左手を私に見せて笑った。


 「私はいい女だから指輪をしていても口説かれちゃうのよ。外したらもっと面倒だからいつもは着けているの。うふっ 魔除けみたいなものよ」

 「そうか」

 「どうして別れたのか訊かないの?」

 「訊いちゃ悪いのかと思ってさ」

 「マジメか? あはははは」


 梨奈は笑ってルイボスティーのストローを口に咥えた。

 私はその彼女の仕草に見惚みとれた。


 「カラダの相性が悪かったのよ。ただそれだけ。

 それに他に女もいたみたいだしね?」

 「・・・」

 「高校生の時、どうして私があなたとさよならしたのかわからないでしょう?」

 「梨奈はモテたからな?」

 「私には洋ちゃんは勿体もったいない人だと思ったからよ。私はそんなあなたに相応しくない女だと思った。

 そして今日再会して、あなたはもっと男に磨きが掛かっていてキュンとしちゃった。

 背中に哀しみがある男って素敵よ、守ってあげたくなっちゃう」

 「こうしてクリームソーダを飲んでいる、女房に先立たれた惨めな中年オヤジの俺がか?」

 「なんだかとても寂しそうだった。

 世界中の不幸を全部自分ひとりで背負っているような、そんな感じがしたの」

 「君の方こそ、もっと魅力的な女になっていて驚いたよ。

 しかも今度は本店の支店長に昇格するそうじゃないか? やっぱり梨奈は凄いよ」

 「その分、男性行員たちからのねたみやそねみも凄いけどね?

 影では「枕営業でのしあがった女だ」とか言われているわ」



 梨奈の食事が運ばれて来た。


 「ああ、お腹空いたー。いただきまーす」


 梨奈は両手を合わせていただきますをすると、ナイフとフォークを使って優雅に食事を始めた。

 梨奈が食べるとファミレスの食事も、ミシュランの星のある店での食事のようだった。

 私はクリームソーダのアイスクリームを、ソーダ水の中にアイスが溶けて濁らないようにと、長いスプーンを使って慎重にそれを掬って食べていた。


 今、私の目の前で美味しそうに海老フライを食べている女、それが私の初恋の女、大谷梨奈だった。





第3話

 食事を終えると、私は梨奈の運転するクルマで家まで送ってもらうことになった。


 「ねえ、これから夜の海を見に行かない?」

 「これから? 大洗へか?」

 「そう、大洗港のフェリー埠頭」

 「俺はかまわないけど、運転、疲れないか?」

 「大丈夫、ここから高速で1時間くらいだから。たまに一人で行くのよ、嫌なことがあった仕事帰りとかに」

 「そうか? 夜の港はいいよなあ。明かりが暗い海に揺れて」

 「そこでね? 思いっきり泣くの。声を出して」

 

 私はその時の梨奈を想像して切なくなった。

 女が男性社会で生きていくことは大変なことだ。梨奈はそれに耐えているのだと。


 「俺も親父が銀行員だったからよく分かるよ。

 銀行から帰って来るといつも疲れ切ってイライラしていたから。

 俺が就職活動をしようとした時、普段無口な親父がボソっと俺に言ったんだ。「銀行だけは辞めておけ」ってな?」

 「お父さんは正解よ。私にも子供がいたら絶対に銀行員だけにはさせたくないもの」

 「でも待遇と世間体はいいよな?」

 「コスパは悪いけどね? あはははは」


 対向車は殆どなかった。追従して来るクルマもない。

 緩やかなカーブ、快適な深夜のドライブだった。

 思えば女の運転するクルマの助手席に乗ったのは初めてだった。

 亡くなった女房の洋子は運転免許は持ってはいたが、運転するのはいつも私だった。

 


 いくつかのトンネルを抜け、高速を降りてクルマはフェリー埠頭に着いた。

 私たちはクルマを降りて港の潮風に当たって背伸びをした。

 少し磯の香りがした。



 「あー、最高! まさかこうして昔の彼と、夜の港デートが出来るなんて思わなかったーっ」

 

 私はそんな梨奈を抱き締めたい衝動に駆られた。

 夜の海に埠頭の明かりがゆらゆらと漂っていた。


 「何もかも忘れて、このままフェリーに乗船して北海道に行きたいね?」

 「何もかも忘れて・・・か。それもいいかもしれないな?

 でもそれには君は失うものが多すぎる。俺にはもう何もないから俺は行けるよ、この船で北海道へ」

 「あら? 私だって失いたくないものなんてないわよ、あなたと同じ。何もないわ」

 「だったらいつか一緒に行こうか? 北海道に」

 「いいなあ、北海道。でもどうして人は寂しくなると北に行こうとするのかしらね?」

 「敗北って言うしな? 「敗れて北に」かあ」

 「そうかあ。でもあなたは敗北してはいないでしょう? 再婚はしないの?」

 「梨奈はどうなんだ?」

 「それは再婚はしたいわよ、いい人がいればだけどね。うふっ」


 梨奈は私をちらりと見て笑った。


 「梨奈ならいくらでもいるだろう? 君の旦那になりたい男たちが」

 「私をお嫁さんにしたい男性? そりゃいるわよ、私、いい女だもん。エッチも上手だって褒められるしね?

 でも駄目なの、の心が。もう誰も愛せない・・・」


 なんとなくわかる気がした。

 男と女は「お似合い」だとか「似合わない」とかではない、縁があるかどうかなのだ。 それを人は「宿命」と呼ぶ。

 運命などと言う甘いものではない。それは生まれながらに背負った十字架なのだ。

 おそらく人は、どこに生まれ、どんな仕事に就き、誰と家族になるのかは既に決められているような気がする。

 だが人生を決めるのは自分の意志だ。どう生きるかは自分次第なのだ。

 人生はポーカーと同じだ。配られた手札で戦うしかないのだ。

 私はその時、死んだ洋子の事を思い出していた。



 「洋三と洋子だなんて私たち、ヨーヨー夫婦だね? 運命を感じちゃう。あはははは」


 そう言って洋子は笑っていた。

 死は私たちふたりには無縁なものだと思っていた。いや、寧ろ考えたことさえなかった。

 そしてまさか洋子の方が私より先に死ぬなんて思いもしなかった。


 

 「何を考えてるの? 亡くなった奥さんのこと?」

 「今日の朝食は何を食べようかなあって考えていた」

 「ねえ、朝食作ってあげようか?」

 「えっ」

 「私じゃイヤ? これでも私、お料理も出来るのよ。ちょっとだけ主婦もしていたしね?」

 

 うれしかった。ひとりでする食事ほどわびしいものはない。

 男がひとりでする食事は食事ではない。それは「えさ」だ。


 「なんだか眠くなっちゃったなあ。少しどこかで休んでいかない? 朝食までまだ時間があるから」

 

 私たちは近くのラブホテルへとクルマを進めた。

 

 


第4話

 結婚してからラブホテルに来たことはなかった。

 このラブホには若い頃に利用した猥雑さはなく、洗練されたアジアン・リゾートのようなホテルだった。

 

 (時代はラブホテルまでも変貌させたのか?)

 

 梨奈は飲物の冷蔵庫の前で商品を眺めなら私に尋ねた。


 「何か飲む?」

 「それじゃビールを」


 私は財布から1,000円札を出して梨奈に渡した。


 「ありがとう」

 

 梨奈はそれを入金口に入れ、缶ビールを2つ、そこから取り出して私にそのうちの1本を渡してくれた。

 彼女は缶ビールを開け、私もプルタブを開けた。


 「私たちの遅れて来た青春に乾杯」 

 「乾杯」


 私たちは乾杯をして、そして笑った。


 「あはははは」

 「うふふふふ」


 若くはない私たちには大人の余裕があった。

 それは余裕ではなく「ゆとり」なのかもしれない。

 私たちはやさしく唇を重ねた。


 「なんだか不思議。 ずっとあなたと一緒にいたような気がする」

 「そうだな? あの頃は手を繋いだこともなかったのにな?」

 「だから良かったのかもよ? 思い出が美しい韓流ドラマみたいのままで」

 「韓流ドラマか? よく見るのか? 韓流ドラマ」

 「けっこう好きよ。あのくっつきそうでくっつかないもどかしさがいいのよねえ」

 「そんなものか?」

 「女はいつまでも、心だけは乙女のままでいたいものなのよ」

 

 そう言って梨奈はビールを飲んだ。

 死んだ洋子もそんなことを言っていた気がする。



 ビールを飲み干して、梨奈が言った。


 「お風呂にお湯入れて来るね?」


 梨奈が浴槽へと向かった。

 カランから湯が浴槽へ落ちる音が聞こえ、梨奈が戻って来た。

 

 「脱がせて」


 私は梨奈とキスをしながら服を脱がせ、彼女は下着とストッキングだけの姿になった。

 そして私もトランクス1枚になった。

 彼女がベールで覆われた天蓋てんがい付きのベッドへ移動して私を誘った。

 

 「来て」


 私はストッキングを伝線させないようにと、慎重に彼女の長い足からパンストを抜き取った。

 見るとパンティの女の部分に滲みが出来ていた。

 私は梨奈をやさしく抱きしめ、ブラのフォックを片手で外すと、パンティに手を掛け、それを滑らせるように足から抜き去り、それを枕の下にそっと隠した。

 濡れた下着を放置するのは恥ずかしいだろうと思ったからだ。


 「お風呂の前に少しだけ、しちゃう?」


 そう言って梨奈は私のトランクスを脱がせると、私のそれを愛おしそうに舐めて、咥えた。

 私は既に家で入浴を済ませていたので罪悪感はなかった。

 そして彼女も家でシャワーを浴びて来ていたようで、香水とボディーソープのフローラルな香りがしていた。

 梨奈のそれは人妻だったこともあり、慣れているようだった。


 (別れた旦那にもこんなふうにしてやっていたのだろうか?)


 私は久しぶりの感触に吾を忘れ、梨奈の頭を無意識に両手で押さえていた。

 梨奈の動きが次第に加速され、激しく上下を繰り返した。


 私もをしてあげたいと思い、そのまま梨奈に覆い被さり、シックスナインの体位を取り、彼女の陰核を舌で探った。

 すでにそこは蜜で溢れ、ぷっくりと膨らんでいた。

 私がソコを舌でチロチロと舐め始めると、梨奈は短い声を発した。


 「あっ」


 私はそのままその行為を続けた。

 すると今度は彼女がそれに耐えられなくなり、遂に私のペニスを口から離してしまった。

 徐々に高まって行く、梨奈の甘くて切ない喘ぎ声が部屋に響いた。

 それはとても知的で清楚な彼女からは想像が出来ないものだった。


 「上手よ、すごくいいの・・・、あっ、オナ、オナニーよりもすごい、あ はうっ

 駄目よダメ、もう駄目かも、ごめん、なさ・・・い、うっ」


 梨奈は両足を硬直させ、足の裏を内側に曲げて快感を貪っているようだった。

 すると梨奈は軽い痙攣をして果てた。


 「はあはあ ごめんなさい、ね、はあ 私ばっかり、先に、イッちゃって」

 「風呂の湯を止めて来るよ」


 すでに大きな浴槽には湯が溢れていた。

 私はカランを止めると梨奈の所へ戻り、本格的に前戯を始めた。

 私たちのカラダの相性は良かった。

 彼女はセックスに対して実に積極的で貪欲だった。

 まるで全身が性感帯であるかのように、私の愛撫や舌に即座に反応を見せてくれた。

 そして私は梨奈の敏感なポイントを探し当てるとそれを自分の脳に記憶した。


 「あっ ふう~ん は は は あ あんあん・・・」


 彼女の切なげな吐息に私は触発され、梨奈の十分に潤ったそこにペニスを宛てがうと、彼女にこれから侵入を開始することを宣言した。


 「入れるよ」

 「うん、来て・・・」


 私はゆっくりと挿入を始めた。

 年齢的に妊娠の可能性は低いとはしても、私はコンドームを装着するため、一旦ペニスを引き抜いた。

 するとそれを察知した梨奈がそれを制した。


 「大丈夫よ私、子供は出来ないカラダだから」


 梨奈は悲しそうにそう言った。


 「だからそのまま中に出してもいいわよ。寧ろその方が好き・・・」


 私は再び挿入を開始し、彼女の表情をつぶさに観察しながら腰の動きを調整した。

 子宮口にぺニスが当たる感触が懐かしい。

 私は洋子と死別してから、女を抱いていなかった。

 そして射精が近付いていたが我慢した。

 梨奈を先にいかせてやりたかったからだ。



 「おねがい! そのまま中に欲しい! おねがい、来て! 今、欲しい!」


 私は腰の動きを加速させ、梨奈の中に射精した。


 ドクン ドクン


 規則正しくザーメンが梨奈の中へと送り出されて行くのがわかる。

 私たちはお互いにエクスタシーの中へと落ちて行った。


 

 梨奈のオルガスムスはまだ続いているようだった。

 私はそれが収まるまで、梨奈を抱きしめ、そのままペニスを梨奈の膣へと残したまま、じっとしていた。


 ようやく梨奈がクールダウンした時、私は自分自身を引き抜いた。

 白い精液が梨奈の美しいそこから淫らに流れ出し、肛門にまで伝い始めた。

 私は慌ててそれをティッシュで拭いた。


 「すごく良かった。もっと早く出会っていればよかったなあ。うふっ」


 梨奈はそう言っておどけてみせた。


 私はその時、自分に余命が迫っていることを思い出した。

 

 (これから私はどう梨奈に接して行けばいいのだろう?)


 私は現実に引き戻されて行った。




第5話

 儀式を終えた私たちはいつの間にか眠ってしまった。

 予めセットしておいたアラームで目が覚めた。


 「もう起きなきゃね?」

 「今日は会社だしな?」

 「休んじゃおうか? ズル休み」

 「あはははは 出来ることならそうしたいものだ」

 

 梨奈は私にカラダを寄せて来た。

 すべすべとした絹のような柔肌だった。


 「朝食、作るって約束したからもう起きなきゃね?」

 「朝食は『すき家』でいいよ」

 「朝ご飯はいつも和食なの?」

 「たまにパンの時もあるよ、クロワッサンとカリカリに焼いたベーコン・エッグにオレンジジュース、そして食後にコーヒーを一杯」

 「クロワッサンなんて女子みたいね?」

 「食パンって一度に食べ切れないだろ? それにすぐにパサパサになってしまうし」

 「銀行の同僚にね? 毎朝の朝食で、家族がそれぞれに食パンを一斤ずつ食べるんだって。凄いと思わない?」

 「それは凄いね? 一斤というとかなりの量だ」

 「家族が朝の情報番組なんかを見ながら、多分彼はこう言うのよ、「今日は午後から雨かあ」するとお母さんがパンを齧りながらこう言うんじゃないかしら? 「忘れずに傘を持って行きなさいよ」なんてね?

 そしてまた黙々と一斤の食パンを貪るように食べる家族って、素敵だと思わない? あははは」

 「何を付けて食べるんだろう?」

 「きんぴらゴボウとか納豆だったりして?」

 「コーン・ポタージュスープじゃなくて、ワカメと豆腐の味噌汁でか?」

 「それじゃご飯やないかい! あはははは

 私、用意に時間が掛かるから先にお風呂に入って来るね?」

 「ああ」


 そう言って梨奈が私に軽くキスをして、ベッドを降りようとした時、私は枕の下に入れて置いた彼女のパンティーを梨奈に渡した。


 「これ、忘れているよ」

 「そこにあったんだあ? ノーパンで帰るところだったわよ。この日のために買ったパンツなのよ、これ。欲しい? あげようか?」

 「後で処分に困るから遠慮しておくよ」

 「えー、処分しちゃうんだあ。記念に取って置いてくれたらいいのに」


 私は余計なことを言ってしまったと後悔した。

 なぜなら私は「終活」のために、遺品になるような物を処分し始めていたからだ。

 梨奈の香りが残る下着など、捨てたくはない。


 梨奈は下着と服を抱え、バスルームへと消えた。

 



 酔も醒めたので、帰りは私がクルマの運転を代わった。


 「この夜明け前のロマンティカル・ブルーって素敵」

 「夜明け前っていいよな? これから街が目を覚まし、動き出すのって」

 「日暮れ前もキレイだけどね? 宵の明星、一番星とかすごく明るいじゃない?」

 「夜明けの明星と宵の明星、どちらも神秘的だよな?」

 「金星のことだよね? ビーナスだっけ?」

 「美と希望の星だな? ビーナスは。

 その輝く美しさから「美の女神」としてのビーナス、アフロディーテと金星が呼ばれる所以ゆえんだ。

 あの女の記号があるだろう? あれは手鏡を具現化したものらしいが、金星の記号はあれになる。つまり女なんだよ、金星は」

 「ふーん、物知りなんだね? 洋三は?」


 俺にはもう希望はない。だが梨奈と再会して一夜を共にしたことで、私の絶望は少し薄らいだ気がする。

 だがその潤いが激しいかわきにつながるのは明白だった。

 梨奈は俺にとってビーナスだった。

 だがもう梨奈と会うのは止めよう、そうしないと私は生に執着してしまいそうだからだ。


 「ねえ、今度一緒に映画でも観に行かない?」

 「どんな映画だ?」

 「恋愛映画。どっちかが死んじゃう泣けるやつがいい」

 

 (梨奈、今、君の隣で運転している俺がその死んでしまう恋人なんだよ)


 私は少しアクセルを踏み込み、スピードを上げた。


 「そんな恋愛映画って、今やっているのか?」

 「やってなければネット配信で探せばいいでしょう? 洋三の家はネット配信に加入しているの?」

 「していない。俺はあまり映画やドラマは観ないから」

 

 私は咄嗟とっさに嘘を吐いた。

 あると言ってしまえばそれがまた、梨奈と会う口実になってしまうからだ。


 (会いたい、でももう会ってはいけない)


 私の心は葛藤していた。




 私の家に着いて、梨奈が運転席に座った。


 「ねえ、今度いつ会える?」

 「俺から連絡するよ」

 「なるべく早く会いたいなあ。でも今日はダメだけど」

 「忙しそうだもんな? 梨奈次長さんは」

 「そういう日もたまにあるのよ。それじゃあまたね? 愛してるわ、洋三。キスして」


 私は梨奈にキスをした。これが最後のキスだと自分に言い聞かせるかのように。


 「それじゃあ気をつけてな?」


 梨奈はドリカムの歌のように、テールランプを5回点滅させて去って行った。

 寂しさと切なさが込み上げて来た。


 「ア・イ・シ・テ・ルのサインか・・・」



 私は出勤の用意を整え、洋子の仏壇に手を合わせた。


 「洋子、怒っているか? 俺が昔の初恋の女を抱いたことを。

 でも安心してくれ、もう会うことはないと思うから。

 それじゃあ行って来るよ」


 私は会社へと出掛けて行った。




 

 その夜、梨奈には上村と会えない理由があった。


 「梨奈、お前のここから男の精液の匂いがするぞ」

 「あっんっ ウソばっかり」

 

 老人は梨奈の陰部を執拗に舐め続けた。


 「ワシを裏切ったら許さんからな?」

 「裏切るわけないでしょ? 頭取」


 梨奈は頭取である霧島の愛人だったのである。




第6話

 私は2日間、梨奈に連絡をしなかった。

 そして3日目に梨奈からLINEが届いた。



     体調でも悪いの?



 既読になっても返事がないことをいぶかって、梨奈はまたLINEをして来た。



     どうしちゃったの?



 それでも私は返信をしなかった。

 すると今度は、



     バカ! もう知らない!



 私は思わず笑ってしまった。

 梨奈は遂に痺れを切らし、電話を掛けて来た。

 一度目の電話には出なかった。

 すぐにまた梨奈は電話を掛けて来た。

 私は仕方なく電話に出た。


 「もしもし」

 「どうして連絡してくれないのよお! 既読スルーにして!」

 「もう、会うのは辞めにしようと思うんだ」

 「どうして? もう私に飽きたの? 愛してないの!」

 「君とのことはいい思い出にして置きたいんだ」

 「わけワカメなんだけど。これから会いに行ってもいい?」

 「ダメだ」

 「会いたいの、今すぐ!」

 「俺は梨奈をしあわせにすることが出来ない」

 「あなたにしあわせになんかしてもらわなくてもいい、私があなたをしあわせにしてあげる!」

 「ありがとう、初恋が叶ってすごくうれしかったよ。もう連絡はしないでくれ。それじゃおやすみ」

 「ちょっと待ってよ! もしもし?・・・」


 私はスマホの電源を切った。


 「これで良かったんだ」


 私は梨奈とのことは夢だったと思うことにした。




 金曜日、突然梨奈が会社にやって来た。


 「上村部長、福邦銀行の大谷次長様がおみえです」

 「わかった、すぐ行く」


 

 応接室に行くと梨奈が鋭い視線を私に向けた。

 ゾクッとするほどいい女だと思った。

 


 「上村部長、アポイントメントも取らずに突然すみません、本日は資料をお届けにあがりました。

 どうぞ御査収下さい」


 そのA4の書類にはこう書かれてあった。



              


     上村部長様



                             大谷梨奈



           『映画の夕べ』へのお誘い



     本日、19時より、スカラ座にて映画鑑賞会が開催されます。

     付きましてはご参加の確認に◯をお願いします。

     尚、時間厳守でお願いいたします。



             

           参加する ・ 参加する



    

      ※不参加は許さないから! 洋三のバカ!




 私は笑って「参加する」を丸で囲った。

 梨奈はうれしそうに書類を鞄の中に仕舞った。


 「それではお忙しいところ、申し訳有りませんでした。

 重要なお知らせでしたので直接お会いしてお渡しさせていただきました。

 ではこれで失礼いたします」


 梨奈が席を立とうとした時、梢がお茶を持って入って来た。


 「あらもうお帰りですか?」

 「ええ、緊急の連絡書類があったものですから」

 「そうですか」

 「お茶を淹れていただいたんですね?」

 「はい」


 すると梨奈はお盆のお茶を取ると再び椅子に座った。


 「せっかくなので、お茶をいただいてから失礼します。

 凄く美味しいお茶ですね? このお茶が御社の業績を反映しているようですわ。

 御社には優秀で素敵な社員さんがいてよかったですね? 御社は安泰ですね? 上村部長」

 「彼女の淹れるお茶には定評があるんですよ」

 「母が静岡の出身なもので、お茶の淹れ方にうるさいんですよ」

 「とてもいい香りがします。温度も丁度いいわ。ありがとうございます」


 お茶を飲み終えると梨奈は席を立った。


 「本当はお替りをしたいところなんですけど、今度また美味しいお茶をご馳走して下さいね?」

 「よろこんで!」


 梨奈は満足げに応接室を出て行った。






 仕方なく、私は梨奈と映画に付き合うことにした。

 それは潰れると噂のある古い映画館だった。

 映画は『ソフィーの選択』だった。

 主演はメリル・ストリープ。

 アメリカ南部に住む作家志望の青年は「スティンゴ」と渾名されていた。

 スティンゴは自分探しのためにニューヨークで暮らし始める。

 そこでメリル・ストリープ演じるソフィーと出会い恋に落ちるというストーリーだった。

 そして最後は・・・。


 梨奈は私の隣で何度もハンカチで涙をぬぐっていた。

 そして私の手を握って私に寄り添った。




 映画館を出ると、梨奈が言った。


 「いっぱい泣いたらお腹空いちゃった。ご飯食べに行こうよ」

 

 梨奈は私と腕を組んで歩き出した。

 女とは泣いたり笑ったり、つくづく忙しい生き物だと思った。



 私たちは映画館の近くにある町中華の店に入ることにした。


 「とりあえずビールと餃子を下さい」

 「かしこまりました」


 小太りの割烹着を着て三角巾をした女将さんらしい人が注文を取った。

 梨奈はメニューを眺めていた。

 美しい女だと思った。さっき見たメリル・ストリープが目の前にいるように私は感じていた。

 

 (別れられない、梨奈と別れたくない)


 私はそう考えてしまっていた。

 私の決心はもろくも崩れた。


 「ねえ何が食べたい?」

 「君の好きな物でいいです」

 「どうして敬語なのよ?」

 「今夜は弊社の大切なメインバンクの方の接待だからです」

 「ぶつわよ、しまいには」

 「梨奈の好きな物でいいよ」

 「それじゃあねえ、酢豚と海老チャーハン、それから春巻とトンポーロー麺でいい?

 それをふたりでシェアしようよ」


 私はそれに同意した。

 瓶ビールとお通しのザーサイが運ばれて来た。グラスは2つ。

 梨奈は三ツ矢サイダーのコップにビールをいでくれた。

 乾杯をした。


 「あー、美味しい! やっぱり町中華にはこのコップで「633」だよね?」

 「633?」

 「瓶ビールの大瓶って633ミリリットルでしょう? だから町中華の常連はそう言うんだって」

 「なるほど」


 私は一息でビールを呷った。

 梨奈はうれしそうに私のコップにビールをそそぐと、さっき観た映画の話を熱く語り始めた。

 餃子と他の料理も運ばれて来て、俺たちのテーブルは一気に華やいだ。


 「私ね? 夢だったんだあ、映画を観た帰りにね? こうして好きな人とビールと餃子でさっき観た映画の話をするのが」

 

 洋子ともよく映画を見に行ったが、帰りはいつも洋食屋が多かった。

 

 「ねえ、聞いてる?」

 「もちろん聞いているよ、それで?」

 「それでって、全然聞いてないじゃないのよお、まったく!」

 「ごめんごめん、梨奈のことばかり見ていたからつい」

 「私、絶対に別れないから」


 そして梨奈は酢豚を食べ、海老チャーハンを頬張った。

 私はそんな梨奈を見て微笑んだ。


 (守りたい、この女を守りたい)


 私はビールを飲み、トンポーロー麺を啜った。


 「それ、美味しい?」

 「ああ、豚バラの角煮が柔らかくて美味いよ、八角が効いているしな? ちゃんと毛を剃って表皮も残してあるし」


 梨奈がそれに箸を伸ばした。


 「うん、ほっぺが落ちちゃいそう!」

 

 私は梨奈の前にトンポーロー麺を置いた。


 「海老チャーハンも食べてみなよ」


 私たちはそうして料理を交換しながら食べた。


 「いちいち小皿になんか取らなくてもさあ、こうして食べる方が美味しいよね?

 だって私たち、もう付き合っているんだから。間接キッス? あはは」


 そういって笑う梨奈を、私はとても眩しく感じた。

 

 


第7話

 食事を終え、私たちは店を出た。


 「洋三のお家に行きたい」

 「家に来てどうするんだ?」

 「あなたがどんな生活をしているのか見てみたいの」

 「何も無いよ、男の独り暮らしなんて」

 「でも見たいの。あなたのお家が」

 「好きにしろ」

 「好きにする」


 梨奈はうれしそうだった。

 別に見られて困るような物はないが、躊躇ためらいがなかったわけではない。

 それをすることで、また梨奈との距離が縮まることを憂慮ゆうりょしたからだ。

 だがそれを拒めば、梨奈の感情は更に高まるだろう。

 梨奈は一度言ったことはそれをやり遂げようとする。それは高校生の時からそうだった。

 初志貫徹。俺たちは似た者同士だった。




 玄関に入って梨奈は不思議そうに辺りを見渡した。


 「思った通りだった。脱ぎっぱなしの靴もサンダルも出ていない、キチンと磨かれた玄関。

 そしてお花まで飾ってある」

 「花は邪気を吸ってくれるからな?」 

 「それじゃあ私の邪気も吸われちゃうかもね?」


 梨奈はそう言って、珍しく寂しい顔をした。

 梨奈がリビングのドアを開けた。


 「独身男性の家とは思えないほどキレイに片付いているのね? ちょっとがっかりだなあ」

 「ここには物がないからな? でも何もがっかりすることはないだろう? ゴミ屋敷の方が良かったのか?」

 「だってお掃除してあげられないじゃない? せっかくいいところ見せたかったのに」

 「何か飲むか?」

 

 梨奈はリビングと隣接した和室にある、仏壇へと近付いて行った。


 「この人が奥さんなのね? 綺麗な人。お線香をあげさせて」


 私は灯明に火をともした。

 梨奈が線香をあげ、洋子の位牌に手を合わせてくれた。


 「順番が違うよな? 普通は旦那の俺が先だろう?」

 「順番なんか関係ないわよ。死にゆく定めの人が亡くなるだけ。それは神様がお決めになることだから」

 「どうして人は死ぬんだろうな? どうせ死ぬなら生まれて来なければいいのに」

 「苦しいことや辛いことばかりの人生なのにね?」

 「生きることの意味ってあるんだろうか?」

 「意味があるから生きているんじゃないの?」


 私も洋子に線香をあげ、鐘を鳴らした。

 澄んだ鐘のが部屋に響いた。

 私は重い気分を変えるため、少し軽快なジャズナンバーを流した。


 「ウイスキーかジンはある?」

 「どっちもあるよ」

 「ライムは?」

 「レモンならある」

 「それじゃあジンをツーフィンガーで、そしてレモンを入れてちょうだい」

 「ソーダで割るか?」

 「うん、お願い」


 私はグラスに氷を入れ、ジンを注いで炭酸水を入れて軽くステアした。

 レモンを絞り、櫛形に切ったレモンをグラスに刺した。


 「ジン・トニックだ」

 「ありがとう」


 梨奈はそれを一口飲んだ。リップを塗った唇が、ぷっくらとしてなまめかしい。


 「銀行、辞めようかなあ」

 「どうして? イヤなことでもあるのか?」

 「嫌なことばっかり。御社のに会いに行くこと以外はね? うふっ」

 「何の前触れもなく、突然やって来るもんな? 大谷次長さんは」

 「ねえ、銀行辞めたらあなたの奥さんにしてよ」

 「俺と結婚したらバツがもうひとつ付くかもしれないぞ」

 「そんなの結婚してみなきゃわかんないじゃない。洋三とならうまくやっていける自信があるんだけどなあ」


 (梨奈、俺はお前よりも先に逝くんだよ)


 「レーズンバターとアーモンドがあったから、今持って来るよ」

 

 すると梨奈が私の腕を掴んだ。


 「洋三と一緒にここで暮らしたいの。結婚までのお試しでもいいから」

 

 私はダイニングテーブルの上に置いてある、タブレットケースを梨奈に見せた。


 「何のお薬なの? こんなに沢山。洋三、病気なの?」

 「心筋梗塞なんだ。今、俺の心臓は30%しか動いていないらしい。

 俺はいつ死んでもおかしくない体なんだよ」

 「嘘! そんなの嘘よ! 嘘だと言いなさいよ! ふざけるのもいい加減にして!

 冗談じゃないわ! なんであなたが心筋梗塞なのよ! そんなの絶対に許さないから! せっかく再会出来たのよ私たち! どれだけ遠回りしたと思っているのよ! これからでしょう? 私たちの人生は! そんなの、そんなのあんまりよ!」

 「だから俺は梨奈とは付き合えない、結婚することは出来ないんだ。わかってくれ、梨奈。

 俺はお前をしあわせにすることが出来ない」

 「わかんないわよ! 分かるわけないじゃない! やっと巡り会えたのよ! これからでしょう? 私と洋三の恋物語が綴られて行くのは!」


 梨奈は私の胸にすがって泣いた。 私は梨奈を強く抱きしめた。


 「私、決めた。銀行を辞めてあなたと一緒にこの家で暮らす」

 「それは勿体ないだろう? 君は銀行の女性役員候補なんだから」

 「そんなのどうでもいい。私は銀行の役員になるより、あなたのお嫁さんになりたい」

 「梨奈・・・」


 私はCDコンポのスイッチを切った。

 今の私たちに音楽は不要だったからだ。

 

 

 


第8話

 翌日、梨奈は支店長に辞表を提出した。


 「大谷次長、これはどうゆうことだね? 朝から悪い冗談は止めてくれ」

 「私の大切な人が重篤じゅうとくな病気になってしまい、看病してあげたいのです。

 業務の引継ぎはキチンとさせていただきます。お世話になりました」


 梨奈と頭取の関係は、銀行内では「公然の秘密」だった。

 支店長の小田は霧島頭取から梨奈の仕事がし易いようにサポートをしろと厳命を受けていた。


 「それは君の恋人ということなのかね?」

 「そうです」


 梨奈はきっぱりと言い放った。

 小田は考えあぐねていた。

 まさかそのまま頭取に報告するわけにはいかない、ましてや辞職させることなどもっての他だ。

 間違いなく本店から地方の田舎支店か、あるいは出向になることは避けられない。

 銀行には小田の代わりなどいくらでもいたし、またこの椅子を狙っている者は山程いた。

 いずれにせよ小田の出世の道は閉ざされてしまう。


 「ではどうだろう、この辞職願は私の一存では受理するわけにはいかない。直接霧島頭取に了承を得てくれないか? 君は頭取の「期待の星」だからね?」


 そう言って小田は嘲笑ちょうしょうした。


 「わかりました。では直接頭取に辞表を提出させていただきます」

 「わかっているとは思うが、この件については僕は関知していないということでお願いしたい」

 「心得ております」


 梨奈は頭をさげ、支店長室を出た。


 もちろん梨奈は霧島には別れを告げるつもりだった。

 支店長の小田を飛ばして、いきなり人事部長に辞表を出すのはこくだろうと、小田の面子めんつを立てたまでのことだった。

 いずれにせよ、小田の将来はもうない。




 今日は頭取が買ってくれたマンションに頭取が来る日だった。


 「風呂は湧いているだろうな?」

 「はい」


 頭取が服を脱ぎ捨てるとそれを梨奈は拾って歩き、ハンガーへ服を掛け、下着を畳んだ。


 「お前も一緒に来い」

 「後から行きます」


 霧島は突き出てたるんだ腹を震わせ、洗面脱衣室に消えた。



 「失礼しまーす」

 「こっちを向け。よく開いてアソコを見せろ」


 梨奈は指で陰唇を広げて霧島に見せた。

 すると頭取は浴槽からあがり、梨奈にキスをし、いつものように梨奈のカラダを舐め回して来た。

 梨奈は唇を外す口実に、スポンジにボディソープを付け、泡立てると頭取のカラダを洗い始めた。

 だらりと垂れ下がったままのペニス。すでにEDになっていた霧島だが、女への執着は相当なものだった。


 「浮気はしとらんだろうな?」

 「もちろんですよ、ご覧になります? 私のココ」

 「後でじっくりと調べてやる」


 霧島は梨奈の女の部分に指を入れた。


 「あん、ダメ、石鹸が入っちゃう」

 「どうだ? ここか? ここがいいのか?」

 「風邪を引いちゃうから早く上がりましょうよ」


 霧島の体に付いた石鹸をシャワーで洗い流し、梨奈は浴槽へカラダを沈めた。


 「早く上がって来いよ」

 「はーい」



 バスローブを着て梨奈が出て来ると、霧島はビールを飲んでテレビを見ていた。

 霧島は梨奈のバスローブを剥ぎ取った。


 「頭取、ベッドへ行きましょう」

 「今日はお前の好きなアレでイカセてやるからな? イヒヒヒヒヒ」


 ベッドサイドの引き出しから、霧島は大人のおもちゃを取り出し、スイッチを入れた。


 ウイン ウイン ウイン


 横になった梨奈にキスをし、舌を乳首へと移動させるとバイブを梨奈に強引に挿入した。


 「痛いっ! やさしくして下さい」

 「どうした? 今日はいつものように濡れておらんじゃないか?」

 「そのうち濡れて来ますよ、頭取のテクニックで」


 霧島はいつものように老人らしい、幼稚な愛撫を始めた。



 1時間ほどその行為を続け、飽きたのか、霧島はベッドを降りた。


 「おい、腹が減った。何か食わせてくれ」

 「焼きそばでもいいですか?」

 「ああ、何でもいい。今日は昼飯を食いそびれたからな」



 梨奈は手早く焼きそばを作り、頭取に出した。

 霧島は銀行の頭取ではあったが、この老人の食べ方は醜悪しゅうあくだった。

 下品な音を立てて焼きそばを食べていた。


 クチャ クチャ クチャ クチャ


 代々続く創業家の銀行の跡を継いだ霧島は、容赦ないやり方でここまで銀行を大きくしたカリスマであった。

 霧島に逆らう者は銀行にはいなかった。変な動きをする者はことごと粛清しゅくせいされた。

 銀行内では霧島のことを「福邦のスターリン」と呼び、恐れられていた。

 銀行は巨大組織である。仕事は出来て当たり前、だがやり過ぎてもいけない。どの勝馬に乗るかで出世が決まってしまう。銀行内部での「営業活動」は必須だった。

 

 

 梨奈はこのタイミングだと判断し、別れ話を始めた。


 「頭取、私をあなたから卒業させて下さい」

 

 頭取の箸が止まり、老人は梨奈をにらみつけた。


 「お前、気は確かか? 誰のお陰で女のお前がここまで来れたと思っているんだ?」

 「頭取には感謝しています。でももう限界なんです。

 お願いです、私と別れて下さい」

 「カネが欲しいのか? それとも男が出来たか?」

 「結婚することにしました」


 霧島は笑った。


 「結婚? お前が? このワシのおもちゃのお前が結婚? わはははは」

 「別れてお願い」

 「別れるということはどういうことだかわかっているんだろうな?」

 「銀行は辞めます」

 「その男は誰だ?」

 「それは言えません」

 「まさかウチの行員ではあるまいな?」

 「違います」

 「後悔するぞ、必ず」

 「このマンションはお返しします」

 「当たり前だ! お前がそんなに計算の出来ないバカな女だとは思わなかった!

 いいか? 人間には2つの種類の人間しかおらん。

 ワシのように人を支配する人間と、お前のように支配される人間だ。

 この世はカネのある奴が勝つ、そして勝ち続けることだ。

 強いこと、勝つことが正義なのだ! ワシはこれからも勝ち続ける!」


 頭取は焼きそばの皿を床に叩きつけ、マンションを出て行った。

 おそらくクラブ『ちょう』ママのところへでも行くつもりなのだろう。


 梨奈は床に散乱した焼きそばと、割れた皿の破片を掃除した。

 そして掃除が終わると、梨奈は大声で笑った。


 「あはははは あはははは あはははは」

 




第9話

 朝、いつものように銀行に出勤すると、梨奈に好奇とさげすみの目が注がれた。


 「おはようございます」


 誰も返事をする者はいない。

 すると部下の石橋が梨奈にメモを渡した。



     次長の画像がネットに晒されています



 パソコンを立ち上げると、一斉メールが届いていた。

 それは霧島頭取が保険として保存しておいた、梨奈の行為中の裸を撮影した淫らな画像だった。

 霧島が仕掛けたリベンジポルノだった。


 梨奈は支店長の小田から支店長室に呼ばれた。



 「当行は君を解雇することになった。

 解雇とは言っても君からはすでに辞意の申し出があったので、形としては依願退職という扱いにしてあるから、退職金その他については影響はしないように配慮させてもらった。実に残念だよ、こんな形で送別会すら出来ないまま、君とお別れすることになるとはね?

 物事というのは始めるのは簡単だが、終わり方は慎重にしなければならない。わかるね?」

 「ご高配、ありがとうございました」



 梨奈は別に驚きもしなかった。それはすでに予想していたことだったからだ。


 数日後、梨奈は匿名で金融庁と国税庁、そして検察に霧島の裏金の証拠が入ったUSBメモリーを郵送した。

 もちろんリベンジポルノも警察に被害届を提出しようとしたが握り潰されてしまった。

 だがそれも想定内であった。梨奈は霧島と民事で争うことにした。

 予想通り、すぐに霧島の代理人弁護士から示談金の提示があった。

 梨奈は示談に応じた。

 霧島帝国はあっけなく崩壊した。

 梨奈は霧島から上村とのことを妨害されないようにと、周到に計画を立てて実行し、霧島からすべての権力を剥奪した。

 霧島はただの「老いぼれ」になったのである。

 直ちに報復人事が行われ、頭取派は一掃され、常務派と入れ替わる人事が発表された。

 頭取派だった本店の支店長の小田は倒産寸前の病院の事務長への出向が決まり、三浦は融資課長から廃店が決まっていた田舎の支店長へと飛ばされてしまった。




第10話

 年が明け、私と梨奈は籍を入れ、同居を始めた。

 そして業務の引継ぎを滞り無くするために、私も会社を辞めることにした。


 世話になった会長と社長、役員たちに挨拶をして回った。

 大崎会長にだけは本当のことを告げた。


 「どうして辞めたいんだ? 来年にはお前を取締役にするつもりだったんだぞ」

 「実は心筋梗塞になってしまったのです。私はいつ死んでもおかしくない体になってしまいました」

 「心筋梗塞かあ。俺も心臓にペースメーカーを入れている。お前と同じだ」

 「会長には大変お世話になりました。大崎会長と仕事が出来なくなるのは悔しい限りです」


 私は泣いた。

 すると大崎会長は分厚い財布ごと私に差し出した。


 「これで美味いものでも食え。財布ごとお前にくれてやる。ワシからの餞別だ。

 今まで会社を支えてくれて、本当にありがとう」


 大崎会長は私に財布を握らせ、両腕で私を抱き締めてくれた。

 

 「俺も後から行くから、向こうでまた会社をやろうな? 上村」

 「はい! ありがとうございます」


 私は会長室を後にした。




 総務部へ戻ると梢が駆け寄って来た。


 「部長、なんで会社を辞めちゃうんですか!」

 「もう俺も歳だからな? のんびり旅行でもして暮らしたいんだよ」

 「部長がいないと私たち、困ります!」

 「ありがとう、そう言ってくれてうれしいよ。でも私にも間もなく定年はやって来るんだ。いずれ君たちにもな?」

 「梢、もう止めろ。上村部長には何か深い理由があるんだ」

 「そうよ梢、部長には部長の深い考えがあってのことなのよ。詮索するのは止めましょう。部長に失礼よ。

 部長の送別会、アンタが幹事になって仕切りなさい。部長を温かく笑顔で送ってあげましょうよ」

 「はい・・・」




 そして月末を終えた月初の金曜日、私の送別会がホテルの会場で開かれることになった。

 社員や役員、社長と会長、銀行、取引先まで沢山の人たちが来てくれた。会社を挙げての送別会になった。


 様々な人たちからスピーチをいただいた。

 大崎会長からもはなむけの言葉をいただいた。 


 「上村はまだ社員が30名ほどの会社だった頃、就職氷河期であったこともあり、あのみやこの西北の大学を出たにも関わらず、ウチの会社に入社してくれて、内部から会社を支えてくれた。

 真面目で誠実な仕事ぶりはみんなも知っての通りだ。

 まだ定年には早い。そしてそろそろ役員にでもと思っていた矢先のことだった。

 非情に残念である・・・。

 どうかこれからの人生を大いに楽しんで、有意義に過ごしてもらいたい。

 上村、今までどうもありがとう」


 万雷の拍手が沸き起こった。

 会長が泣いていた。あの「経営の鬼」と恐れられたあの大崎会長がである。

 私も泣いた。みんなが泣いた。



 代わる代わるみんなが私にお酌をしに来てくれた。

 梢も来てくれた。梢はずっと泣いていた。


 「部長がいなくて、私はこれからどうしていいかわかりません」

 「梢君には安心して仕事を任せられたよ。君の淹れてくれた静岡茶は最高に美味しかった」

 「いつでもまたお茶を飲みに来て下さい、待っていますから」

 「ありがとう」


 (ありがとう梢、私にも君のような娘がいたのかもしれないな?)


 梢は私の隣に来ると、突然私に抱きついて泣いた。


 「コラコラ、梢。上村部長が困っているわよ」

 「いいじゃないですか! 光子さんも抱きついて下さいよ。これが最後のチャンスなんですから! もうお別れなんですよ。ううううう」

 「それじゃ私も遠慮なく。部長、大好き!」

 「いいなあ部長、モテモテじゃないですか! 僕も僕も!」

 「アンタはダメ! 部長は女子社員のアイドル、イケオジなんだから」


 私は部下や色んな人たちに恵まれていた。

 私は部下や取引先を叱責したことがない。私は日本海軍総司令官、山本五十六を尊敬していた。



     やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

     ほめてやらねば、人は動かじ。



 そんな私ではあったが、怒ることもあった。

 それは自分自身を粗末に扱う部下に対してである。


 「どうせ僕は三流私大卒ですから」

 「バカ野郎! だからなんだ! 自分を卑下するな! 君自身がブランドになればいいじゃないか!」


 子供のいない私にとって、自分の部下たちは子供同然だった。かわいい存在だったのである。

 子育てとは愛情であり率先垂範だ。自分の背中を見せればそれでいいと私は思っていた。

 私は上司ではなく、学校の教師を目指していたのかもしれない。



 体調のこともあり、私は二次会で上がることにした。


 「それではみなさん、今日は私のためにこのような心温まる送別会を開いていただき、誠にありがとうございました。

 くれぐれもご健康に留意され、みなさま、並びに会社の益々の発展をお祈りしております。

 本日はどうもありがとうございました」


 たくさんの花束やプレゼントを抱え、私はみんなに見送られてタクシーに乗った。


 「部長! また一緒に飲みましょうねえ!」

 「部長! お疲れ様でした!」


 みんな私が見えなくなるまで手を振って私を見送ってくれた。




 家に帰ると梨奈が待っていてくれた。


 「あなた、お帰りなさい。長い間、お仕事お疲れ様でした」

 「愛しているよ、ありがとう梨奈」


 私は花束とプレゼントを梨奈に渡した。

 

 「あなたの人望のあかしね?」


 梨奈は私に熱いキスをしてくれた。


 「うふっ、お酒臭い。今、冷たいお水を持って来るわね?」


 

 梨奈が私に冷たいミネラルウォーターを持って来てくれた。


 「ねえ、北海道に行こうよ」

 「フェリーでか?」

 「うん、ゆっくり二人で北海道を旅行するの」

 「富良野にも行きたいなあ」

 「小樽にも行きたいし、札幌にも函館にも行きたーい」

 「梨奈がツアーコンダクターだぞ」

 「もちろん! 任せて頂戴!」


 翌週、私と梨奈は最後の旅に出掛けることにした。

 

     


第11話

 海は静かで穏やかな航海だった。

 私たちは始めての船旅を満喫していた。


 「船から見る海っていいわよねえ。沖ってこんなにブルーなのね?」

 「まるで上質なブルーのインクのようだ」

 「それを言うなら「ラピスラズリみたいな海」って言って欲しいなあ」

 「じゃあそれで」

 「何それ。あはははは」


 梨奈の長い髪が海風にかれていた。

 私は今、ここでなら死んでもいいとさえ思った。



 レストランでの食事を終え、私たちはスイート・キャビンへと戻った。

 部屋が左舷側だったので、ふたりでバスに浸かりながらビールを飲み、美しい夕焼けの海を堪能した。

 陸岸からは5マイルほどだったので、日没は陸に遮られて見ることが出来なかったが、それでも私たちは満足だった。


 「まるで黄金の海ね?」


 梨奈はそう言って私に甘えた。


 「私ね、頭取の愛人だったの」

 「そうか」

 「そうかってそれだけ?」

 「だってそれはもう過去の話だろう? 過去とはもう終わった事だ。終わった事は忘れればいい」

 「裸の画像も銀行の一斉メールで晒されたわ」

 

 私は梨奈を強く抱きしめた。


 「それは辛かったな?」

 「ううううう」


 梨奈は泣きながら頷いた。


 「お前はもう俺の女房だ。これからは俺がお前を守る」

 「あなた・・・。私もあなたを守ってあげる、あなたは私の大切な夫だから」

 「しあわせになろうな? 梨奈」

 「うん」


 (しあわせ? 果たして終わることにしあわせはあるのだろうか?)




 夜になり、私と梨奈は真っ暗なスカイデッキへと上がって行った。

 ファンネル(煙突)からエンジンの燃料である、C重油などの燃焼排気ガスの匂いがしていた。


 暗闇にすぐには慣れず、人の気配はあちらこちらに感じるが何も見えない。

 だがそこには満天の星たちが私たちを迎えてくれた。


 「星が降って来そう! 天の川も見える! 初めて見た!」


 美しい星空だった。まるで天然のプラネタリュウムのようだった。

 私たちは他のカップルたちのように抱き合い、長い口吻くちづけを交わした。


 神様からの最高のプレゼントだった。

 

 



 苫小牧港に着岸すると、クルマで日高自動車道に乗り、富良野へと向かった。

 富良野では小さな教会で、ふたりだけの結婚式を挙げることになっていた。



 「富良野のラベンダー畑の見頃は夏なんだって」

 「今は春だからなあ。でもキンギョソウやケイトウの花は咲いているかもしれない。

 早咲きのラベンダーもあるらしいよ」

 「雪もまだあちこちに残っているわね? ああ、お腹空いたあ。チーズでしょう? ピッツアにメロン。そうだメロンパンも食べたいなあ」

 「メロンかあ、いいなあ」

 「私ね、子供の頃、メロンパンがメロンだと思ってたの」

 「あはははは 梨奈にもそんなかわいい小さい時があったんだね? 今はおしゃれなメロンパンが多いよな?」

 「中に夕張メロンみたいなオレンジのクリームが入っているのもあるわよね?」 

 「まあメロンパンはいいけど、俺は苺とかメロンを使ったパフェやケーキはあまり好きじゃない」

 「あらどうして?」

 「果物そのもので十分に美味いからだ。それを足したり引いたりしなくても、別にいいと思うんだ」

 「洋ちゃんらしいわね? そういうこだわり」

 「そうかなあ? カニでもトウモロコシでもそのまま食べた方が美味いだろう?」

 「じゃあ私もそのまま食べてね?」


 いい女だと思った。

 男と女にとって、重要なのは会話のセンスとセックスの相性だと思う。

 会話がつまらないのは地獄だ。そして体の相性が悪いのはもっと辛い。

 男と女の体の構造は、そうなるように作られているからだ。

 例えセックスをしなくても、お互いの肌の温もりは感じていたい。

 



 富良野のカトリック教会にやって来た。


 「ここが今日、結婚式を挙げる教会だ」

 「素敵な教会ね?」


 梨奈がうっとりした顔で教会を眺めていた。

 白髪の神父さんが俺たちを出迎えてくれた。


 「上村様ですね? お待ちしておりました」

 「お世話になります。今日はよろしくお願いします。それではお部屋をお借りしてもよろしいでしょうか? 着替えをしたいので」

 「お着替えはこちらのお部屋をお使い下さい」

 「ありがとうございます」


 

 私がタキシードに着替え終えると、梨奈に部屋を追い出された。


 「はいはい、あなたは外で待っててね? 素敵な花嫁さんに変身して来るから」

 「それじゃあ楽しみに待っているよ」



 それから1時間後、梨奈が純白のウエディング・ドレスを着て部屋から出て来た。

 私は泣いた。

 それはまるで天使のようだった。


 「どう? 凄く綺麗でしょ? ありがとう、あなた」


 私たちは頼んでおいたカメラマンに写真を撮って貰った。

 

 「今度は私だけで撮ってもらえますか?」

 「わかりました」


 私はこの写真を遺影にするつもりだった。




 ふたりだけの結婚式が始まった。

 結婚式は挙げなくてもいいと言っていた梨奈だったが、私は梨奈に花嫁衣装を着せてやりたかった。



 「それでは指輪の交換と口づけを」


 私たちは結婚指輪を交換し、誓いのキスをした。



 「それでは賛美歌第312番、『いつくしみ深き』をご一緒にどうぞ」


 神父さんの弾くオルガン伴奏に合わせ、神父さんと私たちの歌声が教会に響き渡った。

 私と梨奈は改めて夫婦になった。




 その夜、疲れたのか軽い心臓発作が起きた。


 「あなた大丈夫?」

 「ああ、少し大人しくしていれば収まると思う」


 心配そうに私の背中を擦る梨奈。


 「死んじゃいやだからね?」

 「まだそう簡単には死なないよ」


 (死にたくない、死ぬのが怖い)


 私は梨奈という幸福を手に入れたことで、それを手放さなければならない自分が悔しかった。 

 まだ死にたくないと思った。死ぬわけには行かないと思った。




第12話

 結婚式を挙げたその日は新富良野プリンスホテルに宿泊をした。


 翌朝、少し遅い朝食を食べながら、私は梨奈に言った。


 「寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」

 「そこって有名な観光地なの?」


 梨奈はロールパンを千切ってバターを塗り、たっぷりのオレンジマーマレードをつけて食べた。


 「倉本聰くらもとそうのドラマ、『やさしい時間』って知っているか?」

 「うん、私、二宮君が大好きだからそのドラマは見てたわよ。内容はあまり覚えてないけど。

 二宮君ばっかり見ていたから。

 もしかして『森の時計』に行くつもりなの?」

 「そうなんだ。前から一度、行ってみたいと思っていたんだ」

 「この近くなの?」

 「このホテルのコテージ群の中にあるらしい」

 「そこで珈琲を飲むのね? 素敵」



 私と梨奈は恋人繋ぎをして、ドラマの舞台になった『森の時計』を目指して森の中を歩いて行った。

 伴侶がいると、こんなにも安らかでしあわせな気持ちになるということを、私はしばらく忘れていた。

 梨奈の手の温もりが心地良かった。



 その喫茶店は広葉樹の原生林の中にひっそりとたたずんでいた。


   

     Soh's BAR  喫茶『森の時計』 



 「ドラマと同じね。ねえ、ソーズ・BARって何?」

 「何だろうね? とにかく中に入ってみよう」


 

 ドアを開けるとカウベルが軽やかに鳴った。

 春とはいえ、まだ寒かったのでマンテルピースには小さな炎が揺らいでいた。 

 落ちたブナの枝だろうか? パチパチと音を立てて燃え、いい香りがしていた。


 ドラマと同じように、みんな自分で珈琲豆をミルで挽いていた。

 珈琲の鮮烈な香りがそこここに漂っていた。

 私たちはカウンター席に並んで座った。

 大きな窓には新緑が鮮やかだった。


 私たちもミルを回した。ガリガリという手応えがあった。



 「俺は『北の国から』よりも、この『やさしい時間』の方が好きなんだよ。寺尾あきらと二宮和也の親子の確執が、やがて春の雪解けのように打ち解けて行くというストーリーだ。

 寺尾聰が演じるマスターの涌井勇吉は商社マンで、単身でニューヨークに渡り、そこで支店長をしていた。

 女房役のめぐみには大竹しのぶ。

 二宮和也が演じた息子の拓郎は暴走族に入り、カラダに「死神」の入れ墨を入れてしまう不良だった。

 拓郎が運転するクルマの中で、それを母親のめぐみから詰問され、ハンドル操作を誤り、拓郎は母親を死なせてしまう。

 日本に帰国した勇吉は拓郎に手切れ金を渡し、親子の縁を切る。

 そして東京の自宅を処分して、めぐみのふる里である富良野で喫茶店を開くんだ。

 それがここ、『森の時計』だ。

 平原綾香が歌う、ドラマ主題歌の『明日』がとてもいい」

 「あの歌、私も好きよ」


 梨奈は呟くように歌った。


 

     ずっとそばにいると あんなに言ったのに

     今はひとり見ている夜空 はかない約束・・・



 (はかない約束。俺も約束を果たせそうにもない。ごめん、梨奈)


 私は淹れて貰った珈琲を飲んだ。


 「こういう美味しい珈琲ならデミタスで飲みたいですね?」

 「デミタスにおぎしましょうか?」

 「いえ、大丈夫です。十分美味しいですから」

 「ご自分で挽かれた豆ですから、より美味しく感じますよね?」

 「帰りにここの珈琲豆を買って帰ろうよ」

 「そうだな? いいなあここは。こんなにゆっくりと時間が流れて」

 「本当ね? このまま時間が止まってもいいくらいだわ」

 「こんな喫茶店を、梨奈と二人でやれたらいいのにな?」

 「やろうよ喫茶店。純喫茶を」

 「名前はどうするんだ?」

 「うーん、純喫茶『明けの明星』とかはどう?」

 「ちょっと長くないか?」

 「それなら『ヴィーナス』がいい! 純喫茶『ヴィーナス』!」

 「『ビーナス』じゃなくて『ヴィーナス』か?」

 「だって英語だと「Venus」でしょう? Bじゃなくて「V」だもん。でもまあ日本人にはどっちも同じか?」

 帰ったらお店の準備をしましょうよ」

 「素人の俺たちで大丈夫か?」 

 「誰だって最初はみんな素人でしょう? どうせやるなら何のしがらみのない、東京でやろうよ。銀座とか南青山とかの一等地で」

 「それもいいかもしれないな?」

 「素敵よねえ、純喫茶『ヴィーナス』だなんて。ソムリエ・エプロン、買ってね?」


 梨奈はすっかり『ヴィーナス』のママになっているようだった。




 それから私たちはファーム富田に寄って、満開のアイスランド・ポピーを眺め、私はじゃがバターを、そして梨奈は焼き立てメロンパンを美味そうに食べた。

 昼過ぎにはカレーが有名な『唯我独尊』でカレーを食べた。

 次の目的地である札幌と小樽へ向おうとした時、梨奈が言った。


 「札幌と小樽はふたりとも前に来たことがあるから、今回はパスしない?

 その分、函館でゆっくりしようよ」


 梨奈は私のカラダを心配してくれたのだった。

 


 

 夜、函館に着いてホテルにチェックインしてからジンギスカンを食べに行くことにした。



 私たちは生ビールを飲んでジンギスカンを堪能した。


 「宇都宮のジンギスカンとは全然違うわね? ビールも最高!」

 「北海道に来たんだから、やっぱりビールはサッポロビールだよな?」

 「うん、ナマ大お替りー!」



 ホテルに帰り、風呂に入ってスキンシップを楽しんだ後、私たちはピロートークでなごんでいた。


 「このラベンダー・オイル、とってもいい香りがするわ。なんだか眠くなって来ちゃう」


 梨奈はファームで買ったラベンダーの香りを嗅いでいた。


 「ラベンダーは大正時代に南フランスから輸入したらしい。

 ラベンダーはシソ科だそうだよ」

 「あのお刺身とかに添えられているあのシソ?」

 「そうらしい。そして不思議なことに、南フランスから移植したラベンダーなのに、日本のラベンダーはフランスの物と比べて香りが劣るそうだ」

 「どうしてなのかしらね? 同じラベンダーなのに」

 「同じ品種でも土壌や気候、そして育てている人間も違うからかもしれない」

 「私、あなたの赤ちゃんなら生みたかったなあ。最初はね、男の子。それから次は5才離して女の子を産むの。

 そしてね? 長男にはバスケットをやらせるの、身長が伸びるように」

 「サッカーとか野球じゃなくてか?」

 「バスケットがいい。洋ちゃんが高校生の時と同じバスケットが」

 「女の子には何をさせるんだ?」

 「女の子にはピアノとチェロを習わせてあげたい」

 「チェロは持ち運びが大変じゃないか?」

 「そうかあ、じゃあバイオリンにする。

 それでね、ふたりとも成績は中の上。友だちがたくさんいてね? 学校の人気者なの。生徒会長とかに推されて。

 息子はミシュランの料理人。女の子は高校の音楽の先生」

 「お前に似て美男美女になるといいな?」

 「私はあなたに似た方がいいなあ。だってあなたが大好きだから」

 「それじゃあ子供、作らなきゃな?」

 「いっぱい出してね?」

 「もう種は残ってないと思うよ。さっき2回も出したから」

 「あはははは そうだった」

 

 私たちはお互いのカラダをやさしく合わせた。




最終話

 親父の夢を見ていた。

 親父も心臓病だった。最後は多臓器不全で亡くなった。

 私が帰ると、親父は玄関で意識を失って倒れていた。

 すぐに救急車を呼んだ。


 救急車の中でも意識はなく、握った手がどんどん冷たくなって行った。


 「親父! 親父!」


 私は必死にそう呼び続けていた。



 「どうしたの? 亡くなったお父さんの夢でも見たの?

 親父、親父ってうなされていたけど」


 梨奈は私を母親のように抱いてくれた。

 寝汗を掻いていたので、私はシャワーを浴びるために浴室へと行った。



 シャワーを浴びて戻ると、梨奈が心配そうに私を見詰めていた。


 「大丈夫?」

 「親父が救急車で搬送される夢だったんだ。リアルな夢だった。

 親父も心臓病だった。俺の心臓も親父からの遺伝だな?」


 私は力なく笑った。


 「あなたは大丈夫、私がついているからそう簡単に死なせやしないわ」

 「ありがとう、梨奈。

 でもな? 完璧な人生なんてないんだよ。所詮人生は未完成のジグソーパズルのような物だ。

 すべてのピースが埋まることはない」

 「私はあなたとしあわせなジグソーパズルを埋め続けていたい、だから死んじゃダメ」

 「だったらいつならいいんだ? 俺はいつなら死んでもいい?」

 「死んじゃイヤ、ずっと私のそばにいて。私より先に死んだら許さないから」

 「梨奈・・・。生きることは修行なんだ。これからも辛いことは起きるだろう。

 でもそれによって魂は磨かれ、成長してゆくと俺は信じている。根拠はないよ、ただなんとなくそう思うんだ。

 そしていつか人生は中断される、扇風機のプラグがコンセントから抜かれるように命のプロペラは停まるんだ。

 それが定めだ。この世に死なない人間などいない。

 だからよく生きなければならないんだ、たとえそれで人生が未完成で終わろうとも、生を全うしなければならない。

 今度また生まれ変わっても、必ず梨奈を見つけ出してみせる。

 そしてその時はもっと早くお前と出会いたい。そして俺の子供を産んでくれ」

 「うん、わかった。あなたに似たかわいい赤ちゃんを産んで上げる」

 「人間の欲望には際限がない。「もっともっと」と幸福を求め続ける。昨日よりも今日、今日よりも明日へと。

 もっとカネが欲しい、もっといいクルマに乗りたい、もっと美味しい物が、バッグが、時計がダイヤモンドが欲しいとな?」

 「私はそんなの望まないわ、あなたがいてくれさえすればそれでいい」

 「欲のない女だ」



 

 朝、函館朝市ラーメンを食べに行った。その味噌ラーメンは大きなすり鉢に入っており、取り分けて食べるための小さい摺り鉢がついていた。


 「何これ! 大きな毛カニが半身、ジャガイモも半分、殻付きのホタテにトウモロコシが半分。

 ネギにメンマ、それに大きなチャーシューが三枚も入ってる!」

 「これがここの名物なんだよ、食べ切れるかなあ?」

 「任せて頂戴、絶対に完食してみせるから」



 何とか残さずに完食出来た。

 私たちは少し腹の調子を整えるために、街を散策することにした。

 函館は坂の多い街である。私たちは手を繋ぎ、坂を登って行った。


 はあはあ はあはあ


 私は息があがっていた。


 「大丈夫? 少し休もうか?」

 「大丈夫だ。ゆっくり登って行こう」


 梨奈が登って来た坂道を振り返った時、私はそれをとがめた。


 「梨奈、坂の途中で後ろを振り返っちゃいけない。

 坂を登っている時は上だけを、前だけを見て登るんだ」

 「だって海があんなに綺麗なんだよ、函館の街もそう」

 「人生を振り返るのは死ぬ時だけなんだよ。

 どんなに辛くても過去を振り返ってはいけないんだ」


 その時、私は激しい胸の痛みに襲われた。


 「む、胸がく、苦しい・・・」


 私は胸を押さえてその場に倒れ込んでしまった。


 「あなた! しっかりしてあなた! 誰か、誰か救急車をお願いします!」



 そして私は自分のカラダから幽体離脱をし、俺の亡骸なきがらを抱いて泣き叫ぶ梨奈を見ていた。


 (ありがとう、梨奈。さようならだ) 


 その時、隣に洋子が立っていた。


 「さああなた、行くわよ黄泉よみの国へ。お義父さんとお義母さんもあなたを待っているわ。

 今度浮気したら承知しないからね? うふっ」


 洋子はそう言って笑った。




 そして5年が過ぎた。

 梨奈は洋三との約束だった純喫茶、『Venus』を渋谷の道玄坂にオープンさせた。

 彼女はいつも喪服のような黒い服に黒いエプロンをして、決して笑うことはなかったという。

 珈琲とレアチーズケーキの美味しい店だった。



                           『海の見える坂道』完






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【完結】海の見える坂道(作品240518) 菊池昭仁 @landfall0810

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