第4話 生みの苦しみ。

「悩みでもあるのか?」


 塾に着くや否や、講師にこの間のテストの点数が前回よりだいぶ落ちていたと指摘される。

 𠮟りつけず心配してくれるところに講師の人柄の良さがにじみ出ている。


「はい。ちょっと……」


 栄子は両の指をもじもじと遊ばせながら、うつむきがちにはっきりしない言葉を返す。


 これまでの栄子は自信にあふれ、なんでも「一番」を獲得するために努力を惜しまなかった。


 それを知っているだけに講師は「いつもと違う様子」の栄子を案じているのだろう。


「相談に乗るぞ。解決できないかもしれないが、話すだけでも楽になるはずだ」


 栄子は迷ったが、結局話すことにした。

 遊ばせていた指を止め、ぎゅっとスカートを握り、ふるえる唇をどうにか動かして声をしぼり出す。


「わたくし、将来自分が何になりたいのか、わからなくて」


 講師は、なんだそんなことかと言わんばかりに。


「小学生ならそんなもんだろ」


 と、あっさりした見解を寄こす。


「でも……」


 なんでも一番を獲って来て、栄子は自分こそが一番輝いている人間だと思ってきた。


 母に「それでこそ私と旦那様の娘」と褒められてきたから。

 でも、そうではなかった。


(今の時点では、陽野の方が輝いている)


 あの強いきらめきが欲しい。

 納得していない様子の栄子に講師は、うで組みして数秒考え込んだ後。


「ん~、なんでも一生懸命頑張ったら、頑張るのが苦じゃない、進んで頑張りたい好きなことが見つかるんじゃないか? 自分の好きなものが将来を照らしてくれるさ」


 栄子は「好きなもの……」とオウム返しし、これまで「好き」で取り組んできた物事が一つもないことに気づいた。


 努力はすべて「一番」を獲るため。

 ひいては母に褒められるためのものであり「好き」とか「嫌い」とかは全然考えたことがなかった。


 それから栄子は「好き」になれる何かが欲しいと恋に恋する乙女のように焦がれ、藁に縋る思いで習い事すべてをがむしゃらに頑張った。


 ただ漠然と「一番」を目指していた時とは必死さの度合いが違う。だが。


(好きなものが、見つからない)

 

 ピアノも社交ダンスもどれも嫌いではないが好きでもない。

 頑張ろうと思えばどれもどこまでも頑張れてしまうのだ。

 どこかの哲学者が「人間は考える葦である」と言ったらしい。


 母の要求するまま、人形のようにただノルマをこなすように人生を過ごしてきた栄子は、ようやく「考えること」を覚え、人間にならんとしている。


 栄子は、新しい自分を生み出す苦しみを味わっていた。

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