第40話 洪水
地面が揺れていた。ズシン、ズシンと不気味な音が屋外に響く。
くもり空の下、兵隊たちは唖然として城門を眺めていた。
もう打つ手はない。あとは敵の侵入してくるのを待つだけ。
涙が頬を伝っていった。一時は勝利の栄光を信じたのだ。それなのに戦いにやぶれ、城は破壊されようとしている。
泣き崩れるリリィの背中に誰かの手が触れた。レネーだ。
「リリィ、来るんだ。ここにいても、あるのは破壊と死だけだ。
レネーが優しく言う。
「私の故郷はイリヤにあるのよ。行かないわ。ここの人たちと死ぬの」
リリィが強い口調で言った。
「リリィ、君は女だ。この戦いでは死ねない。もし生きたままエズラに捕まったら、どんな目にあうか」
「その前に命を絶つわ」
リリィが激しく言う。
メアリーが息をはずませてやってきた。そのままリリィを引っ張って、矢の飛んでこない、壁のかげに連れていく。
「リリィ、あなたレネーと一緒に逃げなくていいの」
メアリーはためらいがちに言った。
「あなたに流れる血なの。あなたの血と涙があれば、私は洪水を起こして、敵を押し流すことができるわ」
リリィはかぶりを振ってメアリーを見つめる。
「あなたは〈海と大地の娘〉なの。魔力があなたの中に眠っているのよ」
メアリーが希望で目を輝かせて言った。
「でも魔力なんてなかったわ。あなたと違って使えないもの」
リリィが血の気を失って言う。
「人魚と話せるわ。それにあなたの不思議な目。さっき見たのよ。あなたの血と涙が混じって傷をいやすのを」
エル城の住人も、兵士もみな城の中に入って、できるだけ高い場所に身を寄せた。あとは
風が甲高い奇妙な声を上げてないていた。城中の井戸から水が溢れ出してゆく。あふれた水は一つの筋となって流れていった。流れ続けた。どんどん勢いをまして。城の庭を満たし、開け放たれた門から城の外へ流れ出し、洪水となって敵の兵士や馬を押し流すまで。
翌朝、リリィが意識を取り戻した時には、城の周りの洪水はなくなっていた。あとに残るは逃げ惑う敗残兵と大きな水たまりだけ。エズラに勝利したのだ。顔がほころぶ。全身が喜びでいっぱいになった。
隣の部屋で、女がすすり泣くのが聴こえる。メアリーだ。青ざめた顔で、地べたに座り込んでビリーに寄りかかっていた。疲れ切っていたのだ。
「明日旅に出る」
ビリーが決然と言う。
メアリーは彼の真剣な様子に顔を上げた。
「旅に?どこへ行くの?」
「まだ決まっていない。一人で旅をするんだ」
ビリーが微笑んで言う。
「そう。ずいぶん急なのね。でもきっと、あなたなら上手くやるわ。富と財宝を築いて帰ってくる」
メアリーは寂しげに言った。
「そうかもしれない。皇帝はイリヤに帰ってくるはずだ。君はアレックスと結婚するんだろう」
「アレックスは帰ってくると思うの?」
メアリーが微笑んできく。きれいな笑顔だ。まるで、朝焼けのように生きる希望に満ちた顔。
「ああ、単なる勘だけどね」
そう言ってビリーはにんまりと笑った。
ぬかるんだ大地の中を歩いている。死んだ馬や兵士、兜や盾を、剣でつっつきながら。いろいろな死体があった。ぶよぶよにのびた溺死体や濁流の中で脚がきれてしまったもの、頭が
「レネー、ここにいたのね」
リリィの高い声がきこえる。
視界のはしに兵士が動くのが見えた。まだ生きている。剣を向け、
「レネー、殺さないで。生かしてあげて」
リリィがレネーに駆け寄って言う。
彼女の慈悲なのだ。そのままにしておいた。リリィが兵士のもとに膝をついて、顔に触れる。兵士は何かしゃべろうとしていた。だが、声にはならない。
「トンプソンだわ。トンプソンだわ、生きていたなんて……」
リリィが血相を変えて言う。
二人でヘンリー・トンプソンを城内の部屋に運んだ。メアリーは二、三日寝ていれば大丈夫だろう、と言う。
「彼は生き延びた。エズラは逃げたよ」
薄暗いろうそくの明かりの中、トンプソンはそう言った。
それは真夜中のことだ。リリィは寝ずにトンプソンに付き添っていた。
「レネーは彼を追うわ。そして必ず殺す。私も夫を止めようとはしない」
静かに言う。
たしかにエズラの死を望んでいたのだ。初めて人を殺すのは正しいことだと思った。怒りに駆られていた。
「私はイリヤの皇女じゃなかった」
リリィは
「父の子でもなかった。どうして私だけが人魚の言葉を理解できたのか、今わかったわ。でもどうやって?母は父を裏切ったのね。そうして、私まで憎んだ。私が不貞の証拠そのものだったから」
「あなたは人魚の王女よ。そして、リチャード皇帝が生きていた頃、イリヤの皇女だった。皇帝はあなたを娘として愛してらしたわ。その愛は変わらない。本当よ」
メアリーがリリィの髪をなでて言う。
「私はもう何者でもない。アレックスとは腹違いの兄妹でさえない。レネーが妻にしたのは私生児だったのよ」
トゥーリーンに会いに行こう。彼を探そう。少なくとも自由なのだ。望んだ形での自由ではなかったけれど。少なくとも、トゥーリーンに会いにいく自由はあるのだから。
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