第39話 魔女たちは知っている

 イリヤ城からの行軍で生き残った兵士は多くはない。だが、すでにエル城にいた兵士たちを励ますには十分な数だった。


 レネーは歩廊を出た。急いで前へ進む。


 リリィはいた。剣を腰にさし、汚れた顔で兵士たちを激励している。


「リリィ!」

 レネーが叫んだ。


 リリィが振り向く。けわしい顔が驚きの表情に変わり、やがて、優しくいたわるような顔つきになった。


「レネー、あなたなのね。来てくれたのね。あなたがいなくてどれだけ心細かったか……」


 二人はひしと抱きしめあった。



 ジョン・トルナドーレを死に至らしめた、美しい粉には太刀打ちできそうにない。


 ここ数日でエズラの攻撃は激しさを増している。レネーたちが秘密の裏門からエル城に入城したことが知れたのだ。毎日大勢の兵士が死んでいった。


 破城槌はじょうついの音は鳴り止まなかった。矢を数百本射かけようが、熱した油を上から降らせようが関係ない。今に城門は破られ、敵が侵入してくるだろう。


 メアリーは大広間のそばの小部屋にレネーを呼んだ。


「イリヤは負けるんですの?それとも勝利の可能性はある……?」

 彼女はすっかり落ち着きをなくして言う。


 反対にレネーは冷静そのもので、表情からも何も読み取れなかった。彼はメアリーの神経質に動く、そばかすの浮いた腕をじっと見つめている。


「あなたならわかるはずです。戦争の経験がおありですもの。リリィは必死で戦ってるんです。でも果たしてそうするべきでしょうか」



 もし、イリヤとレイドゥーニアの同盟軍が負けるなら、リリィは何としてでも逃げなければならない。


「メアリー嬢、このままだとイリヤは負けるでしょう。だがその前に、妻はレイドゥーニアの王妃として私と一緒に帰る。私が妻を守ります」

 レネーはきっぱりと言った。


「陛下、もちろんそうでしょう」

 メアリーはレネーの冷たい声に、いくらか調子を取り戻して言う。

「問題はリリィの意志です。リリィは最後までエル城に残ろうとするかもしれません。気高い人ですから」


「わかっています。だが心配にはおよびません」


 レネーの口調はそれ以上の追随ついずいを許さないものだった。彼はエル城もイリヤ人も見捨てるだろう。もともと彼にそんな義理はないのだ。

 敗北にむかって突っ走るしかない。死ぬまで戦おう。敗れて生き残るよりも、名誉の死の方が簡単だから。

 だがリリィなくして、一体どの兵士が死ぬまで戦ってくれるだろうか……?




 夢の中では体は軽い。子どもの体になってエル城の中を走り回っていた。どこからともなく、少女の笑い声がする。四方八方から。壁や地面の中から。


 奇妙だ。子どもだった頃、エル城ではほとんど笑ったことがなかった。いつも寂しかった。寂しくてたまらなかった。


 孤独をまぎらわそうと部屋から部屋へ歩き回る。父と出くわしても話しかけないようにして。


 りんごのかぐわしい匂いがした。胸がギュゥっと苦しくなる。りんごの香りはきらい。あの匂いは惨めな気持ちになる。ひとりぼっちで。誰も私のことなんか興味ない。だれも、私のことなんか愛してくれない。父も私のことはきらい。


 井戸があった。吸い寄せられるように、井戸に近づいていく。身を乗り出して、底をのぞいた。真っ暗だ。黒い水面がかすかに揺れている。


 願いごとをしよう。目を閉じて、もう少しだけ井戸の底に近づく。


 誰か私を愛してくれますように。きれいな、立派な女の人になれますように。たとえば女王さまみたいに。


 不意に体がふわっと浮いた。それから体が重たくなる。後はひたすら落ちるだけ。落ちて落ちて落ちるだけ。奈落の底へ、止まることもなく、ずっと、永遠に。




 誰かが低いしゃがれ声で笑っていた。頭上から笑い声がふってくる。目を開けた。ベッドの上だ。夢を見ていた。


「メアリー」


 小島の魔女だった。


「あんた戦争で同国人が困ってるって言うのになんにもしないつもりかね。それとも夢ん中で走り回るだけで敵を殺せるっていうのかい?いいから、さっさと起きなさい。あのままじゃ、リリィはまたエズラの奴隷になっちまうよ」


 メアリーは魔女に引っ張られるままにベッドから出た。


「でも何をするっていうの?もう万策尽きたのよ」

 メアリーが訴える。


「いいや、まだすべきことはあるよ。考えな。魔女なら知ってるはずだ」




 リリィが胸に矢を受けて、屋内に運ばれてきた。顔は真っ青になっているが、意識はある。出血も少しだった。


「不幸中の幸いよ」

 メアリーがつぶやく。



 リリィは痛さのあまり、涙を流していた。頬の血と涙が混ざり合う。


「大丈夫よ、リリィ。傷は深くない」

 メアリーがリリィの手を取って言った。

「すぐ矢を取ってあげるから。だから横になっていて」


 涙が胸の上で血と混ざり合うのを見ていた。不思議な匂いがする。無機質な匂いだ。傷口に垂れると、だんだんと傷が塞がってゆく。

 

「なんてこと。なんてことなの。あなたはその娘なのね」

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