第26話 愛する皇妃

 遠くの大地には赤い砂ぼこりがたっていた。門番は立ち上がり、何事かと目をらす。赤い砂嵐はだんだんと近づいてきた。よく見ると馬に乗った男たちである。


「門をあけろー!皇帝だ!」

 門番が叫んだ。



 イリヤ城に戻ってくるまでに兵は半減した。


 皇帝は沈んだ顔の兵士たちから離れ、書斎しょさいの静寂の中にいる。

 トルナドーレ卿がノックして部屋に入ってきた。


「皇妃がまだ到着していないそうだな」

 アレックスは重苦しい空気をなんとかしようとして口を開く。


「ああ、心配だ。捜索隊を出すか?」

 ジョンが言った。


「頼む」

 アレックスはそう言って顔を覆う。


 夕暮れの鐘が鳴るころ、城門が開き、皇妃が帰ってきた。目を閉じたまま。二度と起き上がることはない。口をきくこともない。


 皇妃は死んだのだ。侍女たちと寄り添い、森の茂みの中で息絶えていた。


 アレックスは大広間で皇妃の亡骸なきがらをいつまでも見つめている。手を取れども優しく握り返されることはない。顔も手も、くちびるも氷のように冷たかった。長い、まっすぐな美しい赤毛。それだけが生前と同じだった。


 アビゲイルの望みだったとしても、戦場に連れていくべきではなかったのだ。皇妃は最後まで不幸だった。子どもがもてなかったことで。娘のことで。イネスのことで。アレックスがきちんと向き合ってあげなかったせいで……


「兵は君の指揮下にある」

 ジョンは妻の亡骸の前に立ち尽くすアレックスにむかって言った。


 暗い大広間、皇妃の死に顔も見えない。もう真夜中になっていた。


「エズラとてこの広大すぎる城は陥落かんらくさせられない。兵糧攻ひょうろうぜめは時間がかかるだろう」


 いよいよレネーの援軍に頼らなければならなかった。だが、問題は援軍がいつ到着するかということだ。もうとっくに合流していてもよい頃合いである。


 

 兵士たちの士気は下がっていた。戦友の多くを失い、イリヤ城の城壁の中にこもっていなければならない。籠城ろうじょうなど誰でも気が滅入るものだ。その上、希望のレイドゥーニアの援軍も当てが外れてきていた。レネーはイリヤ側の形勢が不利になったのを見て、同盟を反故にしてしまったのかもしれない。


 皇帝は朝早くから皆の前に出て兵士たちを鼓舞こぶしたけれど、アレックス自身が虚しさのようなものを感じていた。リリィやメアリーが他の場所にいて、戦争を目のあたりにしていないことが唯一の救いだ。


 イリヤ城に来て、両軍は停滞してしまった。




 リリィは鏡台の前に座って、長い見事な髪をくしでといていた。鼻歌をうたいながらトゥーリーンの荒々しい瞳を、耳に心地よい、穏やかな声を反芻はんすうする。


 扉をたたく音がした。


「どうぞ。鍵はかかっていないわ」

 リリィが鼻歌を中断して言う。


 鏡にメアリーが入ってくるのが見えた。髪はわずかに乱れ、目を見開いている。何か重大なことが起こったのだ。


「どうしたの?」

 リリィが銀製のくしを置いてたずねる。


「レネーの軍隊が来たわ。エル城に入れるよう要求しているの。あなたにも会いたがっている」



 リリィには一体何が起こっているのか理解できなかった。レネーの考えていることは誰にも予測がつかないのだ。


 実は彼はイリヤ城のアレックスに援軍を送るのをやめ、エル城で両者の争うさまを観察するつもりだった。もし、エズラが勝てば、その直後にエズラと戦い、イリヤとエイダのどちらも手に入れる。アレックスが勝っても同じことだ。


 つまりレネーは地形的に有利なエル城で戦うことにし、リリィともよりを戻すつもりだったのだ。



「ハーブ、レネーを城に入れてはだめよ。彼はここを乗っ取るつもりなの」

 メアリーが必死になってハーバートに言う。


 だが、レネーはハーバートよりも強硬だ。門をあけなければイリヤへの援軍を取りやめ、エイダ側につくと言う。そうなればイリヤは確実に敗北し、エル城もエズラの支配下となり、ここにいる者もみな奴隷として足枷あしかせに繋がれるだろう。


 ハーバートは流血をおそれて門を開けてしまった。


「約束と違うわ」

 リリィが怒りに満ちた目で言う。


 レネーとリリィは部屋で二人っきりになっていた。ハーバートが「夫婦」として話し合うよう勧めたのだ。レネーのエル城侵攻も単なる痴話喧嘩ちわげんかにすぎないと思ったのか。


「あなたを疑っている。義兄君あにぎみを庇ってはいないか……。あなたの『夫』への忠誠も」

 レネーが言う。


「カリーヌの件なら義兄あには無実です。この戦争がイリヤの勝利に終わったら、私もイリヤのことを忘れ、あなたの妻としてレイドゥーニアの国王に忠誠を誓いましょう。でももし貴方あなたがイリヤの皇帝や帝国をあざむく気なら、それまでのことです」

 リリィはかろうじて感情をおさえながら言った。


 だが結局、リリィはその晩レネーと同衾どうきんしたのだ。それが忠誠の証拠となるなら、なんとも皮肉なことではないか。


 寝台の上、一人で涙を流した。何も泣くことなどではない。じきにこれにも慣れるだろう。

 月明かりの下、震えながらそう思っていた。

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