第27話 毒杯

 翌朝、リリィの説得でレネーはイリヤ城に向かって出発した。


「レネーに援軍を要請するよう勧めたのは間違いだったわ」

 メアリーが〈りんごの園〉にしゃがんで言う。薬草を探しているのだ。

「リリィ、でも貴女あなたなんて言って説得したの?」


「アレックスを今助けなければ、夫婦、敵味方として戦うことになるって言ったの。ドレントに援軍を要請するってね。それに彼は私に惚れてるの。説得するのは簡単よ」

 リリィがいたずらっぽく言う。


「本当に、ドレントには援軍を頼むべきよ」

 メアリーが柳編やなぎあみのかごに薬草を入れながら言った。


 アレックスのことを思うと気が気でない。


 戦況はエル城で過ごすメアリーの耳にも入ってきた。サキュドの谷で大敗北を喫し、今はイリヤ城で敵軍に包囲されているとか。


 二度とレネーを信じるつもりはなかった。


「ドレントに?」

 リリィが目を丸くして女友達を見る。


 本気なのだろうか。時々メアリーは突飛とっぴなことを言い出す。


「ええ、ドレントの国王に使いを出すべきだわ」

 メアリーが言い切った。


「でも必要ないわ。レネーがいる」

 リリィが言う。


「レネーが裏切ったら?彼はもう信用できないのよ」

 

「そうかもしれないわね。だけど私の夫になる人よ」


 メアリーはリリィの顔をじっと見た。リリィの顔にまるっきり新しい何かを読み取ろうとするかのように。淡い緑の瞳、白く透き通るような肌、桃色の唇、優雅に波打つ、豊かな髪。挑戦的な目つきをしていた。


 この人はもう、かつての夫、それに新しい夫への情が芽生えているのだ。リリィは情がからむとややこしい。


「リリィ、レネーはアレックスのお友だちじゃないの。彼一人だけに頼るのは危険よ」

 メアリーが疲れたような口調で言う。


 結局、リリィはメアリーの強い勧めでドレント国王に手紙を書いた。


「船旅は時間がかかるわ」

 リリィはメアリーに書き終わった手紙を渡して言う。


 メアリーは素早く手紙に目を通した。

「ええ。でもレネーへの牽制けんせいにはなるわ」


「彼を夫にするのは失敗だったかしら?」

 リリィが強い不安を覚えてきく。


「そんなことないわ。あなたとレネーは幸せに暮らすはずよ。レネーはあなたを愛してる。エズラを見てごらんなさい。天と地の差でしょう?」

 メアリーが言った。


 リリィはかぶりを振り、寝台にこしかける。

「エズラは一度だって夫であったことはないわ。レネーとエズラが違うってことはわかってるの……。もし義兄あにと夫が憎しみ合っていたら、幸せになることなんてできないわ。たとえ私たちの間に十二人の子どもが生まれようが、レネーが死ぬほど愛してくれようが、それは変わらないの……」




 イリヤ城の敷地しきちは広い。〈皇妃の館〉や図書館の中に入ってしまえば、今まさにこの城で戦闘が行われているなどとはわからないだろう。


 城壁も二重だった。一つは内側の〈皇帝の宮〉や〈皇妃の館〉、図書館、庭園など、皇帝と貴族の住まいを守るためのもの、もう一つは外側の〈競技場〉や市民の家や商人の店を守るためのものである。


 アレックスは〈皇帝の宮〉の書斎にいた。静寂が部屋を支配している。取りとめのないことが頭をよぎった。


 この、清々しいまでの静寂と孤独。まるで昔のようだ。父も生きていて、リリィがまだイリヤの皇女だった頃。アレックスは皇太子だった。


 記憶に残っているのはアビゲイルへの激しい慕情ぼじょうの念だ。あの頃アビゲイルは、父の家臣リー・トマスの妻だった。背が高く、ほっそりとした美しい人妻。リリィの長い髪をとかしながら優しく微笑むアビゲイル。アレックスを見つめて涙を浮かべるアビゲイル。


 なぜ彼女を妻にしたのだろうか。不倫から始まった愛を、婚姻こんいんという神聖しんせいな絆に変えるべきではなかった。


「陛下、陛下」


 気がつくと目の前にさかずきをもった少女がいた。褐色かっしょくの肌の、美しい少女である。


「どうした?誰が持ってこさせた?」

 アレックスはちょっと混乱しながら言う。


 なぜ突然目の前の少女が現れたのかわからなかったのだ。


「陛下、メアリー様からのお守りです。頭痛に効きますよ」

 少女が言う。


「メアリーから?エル城にいるメアリーが君をよこしたのか?」

 アレックスが身を乗り出してたずねた。メアリーもおかしなことをする。だが、それもメアリーらしいではないか。


「ええ、陛下の武勲ぶくんを祈ってらっしゃいます。どうかこの杯を飲んでください」

 少女がそう言って差し出す。


 アレックスは少女からさかずきを受け取ると一気に飲み干した。


 甘く軽やかな味だ。舌がじんと熱くなる。高揚感こうようかんを覚えた。目の前の少女がなまめかしく見える。どうして彼女は笑っているのだろうか?


 異様なほどの眠気を覚えて、慌てていすにつかまった。だが、それも一瞬のことだ。すぐに眠ってしまったのだから。

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