第16話 敵と友軍

 アレックスは礼拝堂に一人たたずんでいた。昔から信仰心は特にない。神を認めて、その力にすがるよりも自力で立っていたいのだ。


 礼拝堂の天井は高い。両手に天秤てんびんと抜き身の剣をもつ「裁きの神」が天井に描かれていた。色鮮やかな絵だ。


「お義兄にいさま」

 黒いかぶりものをした女が立っていた。灰色のやさしい瞳、透き通るような肌、控えめな物腰ものごし


「リリィ、お前と話す時間がなかったな。それにしても、昔のままに美しい、あの頃のように……」

 アレックスの青い瞳がリリィをしみじみと見つめる。

 

 リリィは目を伏せて、黒いスカーフを外した。

「祈っていたのね、お義兄さまが」


「いや、考え事をしていた。礼拝堂にくると不思議と敬虔けいけんな気持ちになるな。一度も神を信じたことはないが」


「先祖が苦労して建てたものですもの。父とよく祈ったわ。エズラに監禁されていた時、祈りが私を支えてくれた」

 リリィがそう言って微笑む。


「父の遺志いしだ。各地に礼拝堂を建てよう。お前のためにもな」

 アレックスが優しく言った。

参謀さんぼうの中にはお前をエイダに送り返せという者もいる。そうすれば戦争は避けられるだろう、と。だが、お前は渡さない。十分犠牲をはらった。お前やイリヤの民が奴隷のように扱われ、エイダの圧政のもとで苦しむのなら、皇帝の平和になんの価値がある?」


「私はエズラのもとに帰るべきよ」

 リリィが震える声で言う。


 脳裏のうりに洞窟の光る水、人魚の死体が浮かんだ。エズラと一夜を過ごした後の体の痛み、ヘンリーの憐れむような目。喉がとてつもなく乾いて痛い。毎日のように死を望んだものだ。


「何を言うんだ?二度とエズラに手を触れさせない。お前はレネーと一緒に暮らして幸せになるべきだった。幸せになれなかったのは、僕とテリー公のせいだ」

 アレックスが真剣な口調で言う。


「私の幸せにそこまでの価値があるのかしら。テリー公が正しいのかもしれない。戦争をして、多くの兵士たち、大勢の男たちを失うまでの意味はない……」


「もちろん、お前にはそれだけの価値がある。リリィ、これは正義のためだ。奴隷にされて、お前と同じように苦しむイリヤ人のためだ。エズラのもとに帰るなんて考えるな」


 自分のせいで戦争が起こり、大勢の命が犠牲になると思うと萎縮いしゅくしてしまうのだ。



「戦争をするなら絶対に勝たねば」

 メアリーが肩にお湯をかけて言う。


 断崖だんがいの下、海辺の館の浴場でリリィとメアリーは体を温めていた。


「イリヤは勝てると思う?」

 リリィが静かにきく。


「ええ、勝てるわ。もし友軍の助けがあればね」


「イリヤに友軍なんて。ドレント王国に艦隊かんたいでも借りるの?」

 リリィが不審そうな顔をして言った。


「いいえ、まだレネーとは離婚していないでしょう?彼の助けを借りるの」

 メアリーがひょうひょうと言う。


「レネーが協力してくれるとは思えないわ」


「リリィ、あなたは交渉が上手なのよ」



 絶対にレネーに助けを請うはずがない、と思っていたが、冷静になるとそれしか道がないような気がしてくる。エイダに負けることほど残酷なものはない。


「なぜレネーに助けを求める?」

 アレックスが詰め寄る。

「お前はエイダから逃げて、夫のもとではなくイリヤの皇帝のところに来たのに」


婚姻こんいんは役に立つものよ。レネーの軍隊だって私の『しあわせ』よりは実用的でしょう?」


「必要ない」

 

「お願いよ。私だって役に立ちたいの。それにレネーだって戦いたがってるはず。家族を殺された上に王冠を奪われたのよ。イリヤとレイドゥーニア、対等な同盟だわ」


 しまいにはアレックスも義妹いもうとの頼みに折れた。どっちみち同盟は必要なのだ。だが、リリィ自ら使者になるとは!これもアレックスが譲歩じょうほしなければならなかった。


 こういうわけである。アレックスとレネーの姉カリーヌは以前夫婦だった。カリーヌが若い年齢で不審な死をとげるまでだ。イリヤ人は嫁に来てまだ日の浅い皇太子妃の死を、特に嘆くこともない。だが、エズラの魔の手から命からがらに逃げてきたレネーは違った。アレックスが妻を毒殺したとにらんだのだ。


 レネーに援軍を要請することは危険な賭けだった。アレックスへの恨みをとるか、エズラへの復讐をとるか、はたまた無関心を決め込むか、レネーの心は読めない。


 リリィはメアリーにトゥーリーンを探し、「人魚の王国」に警告させるように言った。戦争ともなれば、エイダの横暴はますますひどくなるだろう。


「使者は手負いの状態で返されたわ」

 メアリーがリリィの髪をとかしながら言う。


「エズラに聞く耳なんてないのよ。戦争は避けられない」

 リリィが暗い顔つきをした。


 メアリーは何も言わずにリリィを後ろから抱きしめるのだ。

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