第6話 王の悲しき妹

小僧こぞう!お前!ダニエル・フィルス様の領地で何をしている?」

 巡回中の兵士がこちらに近づきながら怒鳴った。


 リリィは農村の少年に似せた自分の服を見て、なんと答えるか懸命けんめいに考えをめぐらす。


とりでにいる父さんに会いに行くんです。病気がひどく重いみたいで。宿屋で寝てる時間もお金もないからここで休憩していただけです」

 精いっぱい声を低くしようとしながら答えた。


「どこの砦だ?なぜこんな良い馬なんか持っている?」

 兵士がしつこく聞く。


「トリュフォームの砦でございます。女領主さまが哀れに思って馬を貸してくださったんです。断ろうとしたんですが、僕の母よりも心を痛めてひどく泣くもので……」

 リリィが頭が真っ白になりそうなのをこらえて、とうてい信じられなさそうな作り話をした。


「嘘だな、盗んだんだろう?この薄汚いぬすめ!」

 もう一人の兵士がリリィの肩をひっつかんで言う。

 するとその拍子ひょうし頭巾フードがはずれ、腰まで届く長い髪があらわになった。


 兵士たちはリリィをイリヤのスパイだと決めつけ、「領主夫人」のもとに連行することに決めた。


 領主館は壮麗そうれいというよりも質実剛健しつじつごうけんといった方がよいだろう。城壁の上の歩廊ほろうでは等間隔とうかんかくに並んだ衛兵えいへいが目を光らせている。


 リリィはゾッとして気を失ってしまいそうだった。もしその領主夫人とやらがリリィの正体を見破ったら—いや、イリヤのスパイだと誤解したままでもだ—、エズラの住む山上の宮殿に引き渡されてしまうだろう。

 ここはなんとしてでも、領主夫人を説得しなければならない。それにしても兵士たちはなんでダニエル・フィルスとかいう領主のもとではなく、領主夫人のところに連れていくのだろう?領主は不在なのだろうか?


 執務室しつむしつは色とりどりの本とマホガニーの本棚、趣味のよい絵画に飾られた部屋だった。温かみのある、掃除の行き届いた部屋である。ダニエル・フィルスはこの執務室にほとんど来ないのだろう。彼は領地の実務を妻に投げ出しているに違いない。


 ダニエル・フィルス夫人は壁沿いの本棚へと続く階段をおしとやかに降りてきた。金刺繍入りの白いドレスを着ている。サテンでできたものだ。かすかに衣擦きぬずれの音がした。


 亜麻色のやわらかそうな髪、ハート形のくちびる、薄い灰色の瞳。

 夫人が一歩歩くごとに、バラのドライフラワーの香りが広がる。


 リリィは皇女としての威厳いげんを取り戻し、おもてをあげて夫人を見つめた。


 夫人の目が見開かれ、厳しい表情が崩れた。兵士たちに退室を命ずる。兵士たちが反対しかけたが、断固だんことした口調で命令を繰り返しただけだ。


「ああ、リリィ!お義姉ねえさま!なんてこと!」

 夫人がそう叫んで、呆然ぼうぜんとするリリィを抱きしめる。

「私なのよ、フラニーよ!すっかり痩せてしまって。可哀想なお義姉さま!」


 信じられなかった。フランシスはエズラの妹で、もう長い間会えていなかったのだ。ダニエル・フィルスと再婚していたとは知らなかった。


 フラニーは義姉ぎし長椅子ながいすに座らせ、ミントティーとプラムパイを用意して、身の上話をしてくれた。


 

 お義姉さまが、あの不気味な霊廟れいびょう洞窟どうくつに閉じ込められたとき、どれほど助けたかったことか!それにこの5年間だって何度会いに行こうとしたかわからない。兄は決してお義姉さまに会わせようとしなかった。


 レネー・ウィゼカと女王ヘレナがリリィを救おうと山上の宮殿にやってきた直後からフラニーの夫、ギー・ウィゼカはエズラに殺された。


「あの人はね、牢獄でレネーを恨んでいないって言ったわ。誇らしく思っていた。ウィゼカ家の人間としてやらねばならないことをしただけだって」

 フラニーは沈痛ちんつうそうな面持ちで言った。夫の最期の日を思い出すのはつらい。

 リリィはフラニーの手を握った。フラニーが目に涙を浮かべ、健気けなげに微笑もうとする。


「ギーはもっと生きるべき人だったのに……。なんてむごたらしい……」


 侍女のマルグリットもリリィの目の前で殺された。命乞いをしながら……



 ダニエル・フィルスとの結婚話が出たのはギーが死んでから2年後くらいだという。エズラはフィルスの軍隊を脅威きょういとみなしていたのだ。


 フラニーは最初、ダニエル・フィルスとの婚約を言葉を選びながら断った。兄を怒らせたら大変なことになる。だが、結婚して政治の道具になるつもりもなかった。



 リリィには結婚を拒むフラニーをエズラが強姦した、なんてことは言えない。

 ちょうど終わりのない悪夢に似ている。一生の恥で、癒えない傷なのだ。



「それで、領主さまはどこにいるのかしら?」

 リリィが執務室を見回しながら聞く。


「寝室にいるわ。足が悪いの。それに、最近は風邪をひいていて」


 ダニエルは脚が悪く、いつも車椅子に乗っていた。病人にありがちなことで、怒りっぽく、部屋の中に閉じこもってばかりいるのだ。



 フラニーはリリィに寝室とお風呂を用意してくれた。会えたのがよっぽど嬉しかったのだろう。寝室にやってきて、また打ち明け話をしてくれる。


「実はね、妊娠してるのよ」

 フラニーはお腹をさすって言った。

「ダンは男の子をって言うけれど、私はどっちだっていいわ」


 リリィは義妹の妊娠を祝福する。

 フランシスはぼんやりとした笑みを浮かべた。リリィに全てを打ち明けてしまいたい。


 実の兄に強姦されたこと。それに、お腹の子どもは夫の種ではないこと。


 ダニエル・フィルスは不能で子を成すことができなかった。それで妻に弟のマルクと寝るよう指示したのだ。


 フラニーとマルクはお互い激しい恋に落ちていた。二人とも孤独で、行き詰まっていたのだ。

 兄の妻を愛すなど、夫のきょうだいを欲するなど決して許されない。ダンは二人の関係を知れば激怒するだろう。もともと寛容さなどとは無縁な男だ。引き離されるかもしれない。



 しかしフラニーは、そういうこと全てを胸の中にしまっておいた。夫のダニエルは死にかけている。それに、お腹の中の生命は今にも生まれようとしている……

 強く生きなければならなかった。母として、女として、領主の妻として。

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