第3話 5年間の監禁

 もう5年もこの洞窟の奥の小さな部屋からから出ていない。粗末なベッドに木製の腐りかけた書き物机が一つ。それだけの部屋だ。


 割れた鏡に痩せ細った女の顔がうつる。微笑ほほえもうとしても奇妙に顔がゆがむだけだ。

 それにしても、本当に5年なのだろうか。あまりに退屈で時間の感覚さえなくなってしまった……



 リリィ・ウィゼカは〈タチアナ霊廟れいびょう〉の一室に幽閉ゆうへいされている。この白亜の大理石の見事な建築物にはターコイズブルーの水で満たされていた。ぼんやりとした光を放つ、不思議な水である。触れると生温かった。


 部屋の小さな扉を開けると、周りの水が赤く濁っていた。水面に生白い切断された腕が浮かんでいる。虹色のうろこがたくさん浮いていた。


「シビル!シビル!」

 リリィが必死になって叫ぶ。


 声がこだまして返ってきた。胸が苦しくなる。視界がゆがんだ。


 不意に水面が揺れ、大きな桃色のひれがのぞいた。人魚だった。


「シビル、殺されたのかと思ったわ」

 リリィがそう言って涙をこぼす。


「あなたをここにおいては死ねない。泣くのはやめて、リリィ。私は生きてるんだから」

 シビルが優しく言って、リリィの涙をぬぐった。

 胸が熱くなる。少しだけ気持ちが明るくなった。


 エイダ王国では人魚狩りが行われていた。第二王妃が人魚を海の悪鬼と宣伝し、そのうろこを首飾りにして法外な値段をつけたためである。


 霊廟の入り口から大きな物音がした。

「あの人が来たわ!隠れて。絶対に見つからないで」

 リリィが声をうわずらせて言う。


 シビルが優しい目でうなずくと水の中に姿を消した。水面に広がる波紋はもんを見つめている。動悸どうきがした。恐怖で手先から感覚がなくなる。


 エズラは時々この「妻の部屋」にやってきては気が済むまでリリィを犯した。二メートルをこえる大男である。リリィは黙って耐え忍ぶよりほかなかった。


「何か不満があるのか?」

 ことが終わった後、さとられないように背を向けて泣いているとエズラはそう聞く。


 ハンサムな顔。わずかに曲がった鼻。珊瑚色さんごいろの唇。時々濃い青にも見える黒い髪。


 この男がリリィの支配者だった。逃れることはできない。リリィの人生を奪い、子どもをとって、絶望の底へと突き落とした男。


「いいえ、不満なんてないわ」

 リリィが慌てて笑顔をつくって言った。


「本当か?そういうふうには見えないが。俺を愛してるか?」

 エズラがリリィの顎を持ち上げて聞く。


「ええ」

 リリィが笑顔を強張こわばらせた。


「ならちゃんと言え」

 エズラがおどしつけるように言う。


「あなたを愛してるわ。それに、あなたに愛されて幸せ」

 リリィが微かに体を震わせて言った。目を閉じ、エズラにキスする。


 エズラは満足げにリリィの肢体したいを眺めていた。リリィはやつれてはいたものの、やはり目を見張るような美しい娘だったのだ。

 ほっそりとした腰に灰色の瞳。透き通った肌に、漆黒しっこく優雅ゆうがに波打つ髪。くちびるは薄いが均整のとれた形をしていた。目の奥に深い絶望が見え隠れしていなければ、妖精じみて見えたかもしれない。


 元々2人の結婚は強引なものだった。エズラがリリィの最初の夫の一族を虐殺ぎゃくさつし、その場に居合わせた花嫁を気に入って自分の妻にしてしまったのだ。リリィも最初は「民衆の王」として大義たいぎを唱えるエズラを尊敬していた。

 だが、時と共に夫の残虐さ、身勝手さはましてゆく。尊敬の念も親身な感情もなくなり、今では恐怖しか残っていなかった。



 裸でベッドの上に寝ていると、誰かがリリィを揺り起こした。身を起こすと体に鋭い痛みが走る。頭がズキズキした。エズラが昨夜ひどく殴ってきたのだ。


 ヘンリー・トンプソンがいた。眼帯をつけ、片目で心配そうにこちらを見ている。リリィが痛みと寒さで肩を震わすと、何も言わずにマントをかけてくれた。


「ヘンリー、あなたなのね。ごめんなさい、こんな姿を見せて」

 リリィが謝る。


「あなたが謝るようなことはありません。姫君はどんなときでも美しいのですから」

 ヘンリーはちょっとためらってから賛辞さんじの言葉を口にした。

「第二王妃の姉を覚えてらっしゃいますか?」


「ええ、レアっていう名前だったわ」

 リリィが渡された皮袋のワインを一口飲んで言う。


 レアはメアリー=ジェインの姉で蠱惑的こわくてきな女だった。コケティッシュな美人である。妹とは反対で、ぼんやりとしていて野心もないようだった。子どもの産めない妹のかわりにと、エズラが子どもを3人産ませていた。リリィは夫の愛人という肩書きでありながら、レアを憎んだことがない。無邪気な感じがして憎めなかったのだ。レアだってリリィに優しくしてくれた。


「彼女が殺されました。第二王妃が嫉妬したんです」

 トンプソンが言う。


 ショックだった。優しい女性だったのに。実の妹から、恋人から殺されるなんて。


「このまま、ここにいると貴女あなたの命も危ない。今ならあなたを連れ出せます」


「でもリシャールは?私の子どもは?」

 リリィが聞く。


 子どもをメアリーのもとに置いていきたくなかった。


「リシャール様は諦めてもらわなければ。時間がありません。見張りが多すぎます」


「でも置いてけないわ。あの子のためにここに戻ったのよ。もしあの子を残していったらメアリーが殺すわ」

 リリィが必死になって言う。


「まずあなたが生きていなければ、リシャール様は守れません。それにエズラは他のどの子どもよりもリシャール様を気に入ってるんですよ。メアリーの暴挙をゆるすとは思えません」


 リリィはうなだれたものの、最後にはヘンリーの必死の説得にくっして、逃げ出すことに決めた。時間はない。


 霊廟の内外の見張りはトンプソンが先に殺しておいた。山麓さんろくのある小屋にアイダという女性とそのめいメトシェラがいる。二人をたよってイリヤのメアリー・トマスの居城へ逃げるのだ。



 リリィはトンプソンに支えられながら山の中腹を歩いた。まだたよりない足取りだ。頭上の朝日がまぶしかった。実に5年ぶりの陽の光である。リリィはぎこちない笑みを浮かべ、ヘンリーに別れを告げた。

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