第2話 赤ん坊が死んだ
メアリー・トマスは通りを素早く見渡してから売春宿に入った。男たちの荒っぽい声と、安物の香水の匂いが漂ってくる。女主人が心得た顔で近寄ってきて、2階の個室に案内してくれた。階段で、胸をむき出しにして男にまとわりつく娼婦とすれ違う。メアリーは顔を見られないよう、マントの
部屋には眼帯をつけた片目の男が待っている。男はベッドの近くのテーブルに座って酒をちびちびと飲んでいた。シーツの上には泥色をした
メアリーはマントを脱いで、男の向かい側に座った。すすめられるままに
「それで、リリィは無事なの?」
メアリーが
「生きている」
男は答えた。顔つきな声の調子からは何も読み取れない。
メアリーはちょっと
「エズラは?」
さらに質問を重ねる。
「彼も生きている。だがエズラより第二王妃のメアリー=ジェインの方が危険だ。彼女はリリィを恨んでいる。第一王妃はリリィだからな。エズラも1人目の妻の方をなかなか忘れ難いみたいだ」
男は皮肉な調子で言った。
「あなた、彼女を殺せる?」
メアリーが顔を寄せて聞く。低い、魅惑的な声だ。黒い瞳があやしげにきらめいた。
「ああ、殺せる。あんたがやれと言うなら」
男が一つしかない目を細めて言う。軽やかですべらかな声だ。
メアリーはゆっくりと微笑み、葡萄を口に含んだ。
「殺せなんて言わないわ。どうやってあなたの言うことを信用しろって言うの、ヘンリー・トンプソン?だって、あなたにはたくさんの主君がいるもの。女王ヘレナにエズラ王、今度は私にまで
「あんたに仕えた覚えはないな。これはリリィのためだ」
トンプソンが言う。
「そう、リリィのためね。それなら私もあなたと同じよ」
メアリーはそう言うと冷笑を浮かべた。
売春宿の裏口から通りに出ると鋭い視線にぶつかった。若い、ふくよかな女だ。ふくよかを通り越して
女は馬車や荷車が行き来する
「あなたがしたことを覚えているわ」
レイチェルが低い声で言う。
メアリーはレイチェルの白い、ぼんやりとした顔を見つめた。
善良そうな、子鹿のような目。薔薇色の頬。彼女に似つかわしくない表情、何かヒステリックなもの、憎悪が浮かんでいる。
ようやくレイチェル・モートンのことを思い出した。ずっと昔、当時、皇女リリィの侍女だった娘だ。メアリーは
「まだ帝都にいるそうね。噂では皇帝の
レイチェルが腕を組んで
「ええ。でもあなたの考えているような意味じゃない」
メアリーがそう言うと、顎を上げてレイチェルの目を見つめ返す。挑発的なほど長い時間……
一瞬、レイチェルの目に涙が光ったような気がした。
「夫が、マッツが子どもを皇帝に預けるの。私の子どもに近づかないで。近づいたら火あぶりにしてやるわ。あなたは魔女よ」
レイチェル・トルナドーレはそう言うなり、身を
翌朝、皇妃の私室をたずねた。なんのことない。ちょっと母と義理の弟の顔を見ようと寄っただけだ。
アビゲイルはとりとめのない話を一通り聞かせ、赤ん坊のタイロンを娘に抱っこさせた。メアリーが顔をのぞきこむと、タイロンが微笑む。小さな手だ。可愛らしかった。
「私を恨んでいる?」
出し抜けにアビゲイルがきく。
「いいえ。なぜ?」
メアリーが聞き返した。
「あなたを愛さなかったわ。あなたより皇女を愛していた。それに、私はアレックスと結婚。あなたはアレックスを好きだったのに」
アビゲイルが目をしばたいて言う。
かつて、メアリーとアレックスは愛し合う仲だった。でも皇帝との結婚を、メアリーが望まなかったのだ。皇族にふさわしい家柄も財産もないメアリーは民や貴族に嫌われていただろう。それに当時は今のように安定した世ではなかったのだ。
「ママはリリィの乳母だったから。皇女は人よりも愛と
「時々あなたが怖いわ」
アビゲイルがそう言って神経質に腕をさする。
「早く結婚すればいいのに。早く私たちの前から消えてくれればいいわ。そしたら、もうあなたを怖がらなくていい」
メアリーは母の心ない言葉に沈黙した。アビゲイルはか弱い女性なのだ。だから結婚の話が出ても、冷酷な言葉を聞いても言い返さない。
「〈崖の家〉に行ってくるわ」
メアリーが不自然なほど明るい調子で言う。
「ママも私と会って疲れたでしょう?乳母を呼んで寝たらいいわ」
夜もふけてイリヤ城に帰ると不穏な空気がただよっていた。宮廷人たちがメアリーをチラリと見てはヒソヒソ話を交わす。メアリーは親しくしている貴婦人の視線を捉えようとしたが、
「魔女よ」
女の声が人だかりの中からとんでくる。すると宮廷貴族たちは口々に賛同し始めた。
メアリーには状況が理解できない。ただ、人々から向けられる敵意だけはわかった。人だかりの中にマティアスの姿があった。目が合って、そばに来ようとしてくれる。が、レイチェルが止めた。
「赤子殺しよ。黒魔術で皇帝と自分の母親の赤ん坊を殺したの。世継ぎを殺したのよ」
さっきの女の声が言う。
「火あぶりの刑にすべきだわ」
近くにいた老婦人が言った。
「あんなにも健康そのものだった赤ん坊が灰色になって死んだとさ」
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