皇女リリィと名誉の剣

緑みどり

第1話 パンとワイン樽、授乳

 イリヤ城の鐘が鳴った。帝都ていと中にカランコロンと鐘が鳴り響く。貴族たちは〈皇妃の館〉の前へ詰めかけ、下町では民衆たちが今しがた起こった奇跡に、お祝い事に歓声を上げて騒ぎ立てていた。城門外にパンが山と積まれ、ワインのたるが次々とからにされ、飲み干されてゆく。皇帝アレックスから国民への特別な施し物だ。


「いったいこの騒ぎはどうしたんだ?」

 ある旅人が通りの売り子にたずねた。


「お祝いごとですよ、旦那さま」

 売り子がピンクのおくるみに包まれた赤ん坊の砂糖菓子をカゴに積みながら言う。

 娘が動くたび、赤いリボンで結んだおさげ髪が揺れた。


「皇妃が奇跡を起こしたんです、世継ぎが生まれたんですよ」

 太鼓腹たいこばらの店主が出てきて言う。


 帝国に世継ぎが生まれたのだ。都中が祝賀気分だった。皇妃はもう若くない年で、子どもを産むのは無理だと言われていたのだ。


「旦那も幸運でしたな。この慶事けいじに帝都に居合わせるとは。どうです?この機会に親戚しんせきの女の子にかわいい砂糖菓子を買っていってはいかがですか。きっと喜びますよ。旦那も都に来るのは初めてでしょう?」

 店主が店頭に並んだ砂糖菓子を指して言う。


 たしかにその砂糖菓子は魅力的だった。赤ん坊以外に、皇帝と皇妃の婚礼の日の衣装や、キラキラ光る銀の剣をかたどったものがある。

 旅人はたいそうな身分らしい。店主は旅人の肩にかけた重々しい赤のマントや長剣のつかのエメラルドを見てそう思った。


「実を言うと昔ここで暮らしていたんです。でもそうだな、買いますよ。娘が故郷くにで待っているのでね」


 赤いマントを身につけた青年は「女王陛下」の肖像銀貨を一枚払い、通りに待たせていた馬車に砂糖菓子をつんだカゴと共に乗り込んだ。


 馬車の中には色白のふくよかな貴婦人が幼い男の子と待っていた。栗色の髪に薔薇色ばらいろほおをした、可愛らしい感じの女だ。



「それで、昔とは何もかも変わっていた?」

 妻のレイチェル・トルナドーレがきく。


「少しはね。だが通りの感じはあんまり変わらない。君も覚えていないかい?それにしてもイリヤも平和になったなぁ。僕たちがいた頃はもっと殺伐さつばつとしていて、洗濯女なんかがあくせくと働いていたものだったのに」

 青年はちょっと嬉しそうな顔をして言った。ここで育った少年時代のことを思い出し、感慨かんがいが込み上げてくる。


「今の皇帝陛下は戦争屋ではありませんからね。イリヤに平和と繁栄をもたらした素晴らしい方ですわ」

 レイチェルが言う。



 青年の名前はマティアス・トルナドーレといった。今はアストレア王国の大叔母の領地に妻と子どもたちと共に住んでいる。長男のジョン・トルナドーレを皇帝のもとで教育を受けさせようとして、イリヤにやってきたのだ。

 

 皇帝アレックスとは共に学び、戦場では共に戦ってきた仲だったが、長らく会っていない。この7年間で手紙を出したのは、旅に出る前が初めてだった。



 アレックスは意外そうな顔をして、旧友とその息子を〈夫婦の寝室〉に通した。


「アビゲイルは、いや、妻はいない。出産で〈皇妃の館〉の私室にいるんだ。書斎よりもここの方がゆっくりと話せる」


 皇帝は幼い男の子を観察した。母親似で栗色の巻き毛に蜂蜜色の瞳が愛らしい。


「じゃあ、アビゲイルと結婚したんだな。出産のことも城外の通りで聞いたよ。男の子だってな」

 マッツがちょっと硬い笑みを浮かべて言う。


 アレックスが顔をほころばせた。

「奇跡だよ。アビゲイルが……。世継ぎは諦めていたんだ。弟のウィリアムがいるしな。神のすることはわからない。お前んところにも子どもが生まれたのか?たしか手紙では帝都で子どもの面倒を見てほしいって言ってたな。レイチェルは元気か?」


「元気だ。子どもが4人いる。この子はジョン・トルナドーレだ」

 マッツがそう言って子どもの肩を叩く。


 アレックスはジョンの後見人になることに快諾した。世継ぎが生まれたことで有頂天になっているらしい。


 マッツは友人の歓喜をよそに、なにか腑に落ちなかった。アビゲイルはかつてのアレックスの腹違いの妹の乳母である。7年前にはリー・トマスというエル城城主の立派な夫もいた。それにアビゲイルはアレックスよりも10歳ほど年上だ。この結婚が世間に歓迎されたとは思えない。

 とはいえ、アレックスは民から絶大な人気をほこっていた。父の世代まで続いていた戦争をやめ、平和と安定を国にもたらしたのだ。ここ数年、豊作続きだった。彼はまさに人生の絶頂期にいたのである。




 その頃、皇妃の寝室では娘のメアリー・トマスが真っ赤な顔をした新生児を抱っこして揺籠ゆりかごがわりに体を揺らしていた。赤ん坊は両手におさまりそうなくらいに小さく、心をとかすような可愛らしい泣き声をあげている。お乳がほしかったのだ。


「乳母を呼ぶわ。ママは寝てなくちゃ。死にそうな顔してるじゃない!」

 メアリーが起き上がって授乳しようとするアビゲイルを止めて言った。


「おめでたいことだわ」

 メアリーが乳母ごと泣いてばっかりの赤ん坊を別室にやるとベッド脇のいすに腰かけて言う。


 寝室にはすでに出産の壮絶なあとはなかった。召使いたちがきれいに片づけたのだ。

 アビゲイルは汗ばんで蒼白な顔をしている。まっすぐな赤毛には一筋の乱れも見つからなかった。顔のしわがいつもより濃く刻まれているような気がする。


 娘のメアリーは母親ほどではなかったが、人の印象に残るような美女だ。

 黒い、移りげな瞳は濃いまつ毛で縁取ふちどられている。長い髪はストロベリーブロンドで、優雅に波打っていた。白い豊かな胸が深く開いたえりぐりからのぞいている。首から下がったペンダントは肉感的でみずみずしい肌の上ではずんで踊っていた。


「何はともあれ、役目は果たしたのよ」

 アビゲイルがやつれた顔で言う。


「そうね。アレックスも喜ぶわ」

 メアリーはそう言うと母のほっぺたにキスした。


「これで石女うまずめなんて言われないわ。メアリー、あなたも結婚して子どもを産んだらねぇ」

 

 アビゲイルは口癖のように娘が未婚でいることを嘆く。


 メアリーは当分結婚するつもりはなかった。父が領民に撲殺ぼくさつされてから、エル城の女城主になっていたので結婚する必要がないのだ。

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