第二話 〈姫巫女〉音羽

 ここは、鳳凰の治める〈凰國〉。

 鳳凰の一族である白凰族が暮らす三國のひとつで、三國の中でもっとも大きい領土を保有する。鳳凰王が御坐す凰城は、凰の森からは目と鼻の先にある國の心臓部である。

 凰國において「白」という色は神聖なものの象徴である。全体が白に覆われた守りの城は、鳳凰の持つ焔の色が純度が高い色温度の白色ということから、白を基調とした内装が施されていた。


 そんな凰城の離れである雛宮ひなのみやの一室には、〈姫巫女〉の部屋がひっそりとあてがわれている。


 凰國において〈姫巫女〉と呼ばれる者は特別な存在であり、凰國内でも秘匿対象として管理されている。鳳凰のためのきさき、もしくは人柱や供物といった貢ぎの類と、民の思想が二分している。

 明確な答えは無いが、鳳凰が捧げられた者を気に入れば「世界は安寧のときを約束される」と伝わっており、事実世界の平和期が続いていることから、今代の〈姫巫女〉である音羽インユウは大層気に入られていることがうかがえた。


 離れの窓から吹く涼しい風が、すやすやと穏やかな寝息を立てている音羽インユウの頬を撫でる。涼風を感じて、彼女の意識が徐々に覚醒していく。最近のうだるような暑さによって奪われていた体力が、涼を感じてゆっくりと戻っていくようだった。

 ふるりと音羽インユウのまつげがふるえる。彼女は睡余にまだ夢を見ているような表情をして起き上がった。



「——あら、おはようございます、音羽インユウ様」



 ぼうっと覚醒し切っていない頭を、声の聞こえた方へと向ける。そこには音羽インユウつきの女官である李明リミンが微笑んでいた。


李明リミン……? おはよう?」

「ふふ、いつにも増して寝坊助さんですね」

「……まぶしい……」


 日の光が一線、無機質な部屋に射しこんでいる。どうりで眩しいわけだ、と音羽インユウは両手を軽く握り目元をこしこしと擦る。


「わたし、いつから寝ていたのかしら」


 おぼろげな記憶の泉に浸かれば、眠る以前は凰の森にいたはずで、気づいたらこの寝台にいた。いつ自分はこの場所に戻ってきたのか。その記憶だけがすっぽりと音羽インユウの中から抜けていた。


音羽インユウ様はお眠りになられていましたよ」


 くすくすと笑う李明リミンの言葉に、音羽インユウの中の時間間隔がガラガラと音を立てて崩れた。

 凰の森からなんらかの方法で自室に戻り、そのまま眠りの海に潜っていたのだと音羽インユウは考えていた。せいぜい、仮眠程度の気持ちだったのだ。昼寝のつもりだった。それが、丸一日も経過していたのだと知らされて音羽インユウは思わず言葉を失った。


「わたし、そんなにも寝ていたの……⁉」


 一日寝ていたとなれば、それは、音羽インユウにとっては一大事だった。


 昼寝が終わったあと、明日——いや、すでに今日のこと——より開催される凰國に伝わる〈剣舞祭〉で着用する着物の試着や採寸の予定が入っていた。けれど李明リミンの言ったことが本当ならば、音羽インユウはその大事な予定をすっぽかっしたのである。


〈剣舞祭〉——それは、世界の三國がここ凰國に集結し、いにしえより縁のある三國のさらなる繁栄と安寧を願うもので、國の代表が舞いながら剣技を競う友好の祭りである。

〈剣舞祭〉は三日間に渡り行われ、その初日である今日は、音羽インユウにとって重要な役割を担う大事な日だった。

 それは凰國に百年振りに新しく迎えられた〈姫巫女〉としての披露目だ。

 そのことを不意に思い出して、音羽インユウの顔から血の気が引いていく。


「鳳凰様は?」

「王はすでに会場に。いまごろ〈剣舞祭〉も盛り上がっているころでしょう。……あぁそうそう。音羽インユウ様、王よりあなた様へ言伝を預かっておりますわ」

「言伝?」

「はい。『音羽インユウ、起きたのちまずは体力を戻すように。〈姫巫女〉としての披露目のことは気にするな。あんなもの、形だけのただの余興よ』とのことです」

「……鳳凰様が、そんなこと……」


 鳳凰の思ってもみなかった気遣いに、ほっと胸を撫で下ろす。同時に、なにか大事なことが抜けているような気がして、音羽インユウはなぜかこころがモヤッとした。



 李明リミンがそばに寄り、かいがいしく音羽インユウの身支度を始める。今日はもうこのやしきから出られることはないというのに。音羽インユウはよわい自分を不甲斐なく思った。


「本当にお優しい。王はまるで我々の君主たる鑑ですわね。昨日、凰の森に出かけられたでしょう? 〈使を確認された鳳凰様が、音羽インユウ様がお疲れだと気遣ってらっしゃいましたもの」


 にこり、と微笑む音がどうしてだかぎこちなく聞こえたのは、たぶん音羽インユウの気のせいではない。なにか言葉を紡がなければと、声を出そうとしたそのとき、李明リミンの柔らかく細い指がぐっと音羽インユウの肩に食いこんだ。突然の痛みに、音羽インユウは思わず「うっ」っと声をもらした。


「いくら人の出入りが少ない凰の森とはいえ、危機感が足りなさすぎますわ、音羽インユウ様!」

「い、いたいいたいっ、ごめんなさい李明リミンっ」

「なぜお力を使われましたの! 〈白癒はくゆ〉は、凰國の民であればみな、その力の発現を感じ取れてしまうというのに!」

「だって、しょうがなかったんだもの……」


 今朝——音羽インユウにとっては今朝のこと。時間はとうに円を描いているが——見かけたあの青年を、音羽インユウはどうしてもあの場所に放っておくことができなかった。

 そういえばあの青年は今どうしているだろうか? 〈白癒〉は一寸ちょっとの狂いもなく無事に発動しているようだったので、彼は一命を取り留めているはずだ。きっと快復して、音羽インユウの眠っている間にでも森を立ち去ったことだろう。


(誰にも見つからずに、森から出られていたらいいけれど)


 もしその場から今までの間動けずにいて、それこそ凰國直属の警邏けいら部隊である〈雲雀ユンチュエ〉の武官にでも見つかっていたなら、彼は今頃この凰城の牢にでも捕らえられている可能性があった。なんの一報もなく、青年がどこの誰なのかもわからないが、今はただ彼が無事であることを願うばかりだった。



 *****



「ところで、音羽インユウ様? 凰の森で、いったい『なに』をなられたのですか?」

「ぎくり。」

「まさか他國の人間ではないでしょうね⁉ ああ、もしそうだったとしたらどうしましょう。人間があの凰の森に侵入していたなんて王が知ってしまったら、隠蔽に関わったと疑われて音羽インユウ様のお立場が悪くなってしまうわ!」

「そ、そんなことあるわけないでしょう。く、くま。そう、大きな熊が苦しそうにしていたから!」


 我ながら苦しい言い訳である。と音羽インユウは表情を歪ませる。

 ただでさえ〈姫巫女〉の存在は秘匿。一生を鳥籠で過ごし鳳凰に愛でられることが決められている。だが、音羽インユウは歴代の〈姫巫女〉の中でも一、二を争うほどに鳳凰から寵愛を受けていた。その理由のひとつに挙げられるのが、先ほどから李明リミンがいう〈白癒〉という癒術にあった。

 凰國の中でも使用できる者は少なく稀有であり、音羽インユウは鳳凰にその能力を買われていた。鳳凰に身を引き取られた際、彼女は妃となる条件を彼に進言した。それは、ある程度の自由を願うものだった。鳳凰は彼女の願いを聞き入れ、彼の庭でもある凰の森への立ち入りを許可した。

〈白癒〉は術者の心身に影響を及ぼす。音羽インユウのこころを守るためにも、鳳凰は彼女の自由を許したのだった。


 熊——ではなかったものの、青年は本当に苦しそうにしていた。

 森に生きる者たちが、森への侵入を許さなかったわけではない。自分たちの領域を荒らされたと認識すればもっと凄惨な現場になっていたはずだ。けれどそうではなかった。考えられるのは、きっと、人の暴力によって青年がそこに倒れていたからだろう。


「くるしそうに、していたのよ……」


 あのときそばにいた兎から流れ込んできた当時の映像きおくを思い出して、音羽インユウはかなしくなる。

 どうして暴力が生まれるのか、彼女は理解に苦しんだ。

 音羽インユウの頬を、静かに澄んだ雫が伝う。李明リミンの「音羽インユウ様……」という心配の声は、今の彼女には届かない。

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