有竣ゆうしゅんの政務が終わる時間帯は、概ね日暮れ前後だ。時折昼間から戻ってきたり、夜遅くまで戻ってこなかったりするが、大抵は春華しゅんか夕餉ゆうげ時までには後宮にやってくる。


「しゅーんかっ、ただいまっ」


 そして本日の有竣の帰宅は、いつになく早かった。まるで春華の密行を察しているかのような早上がりに、春華は内心冷や汗を隠せずにいる。


「お、お帰りなさい、有竣。今日はいつになく早いわね。きちんとお仕事してきたの?」

「してきたよ。今日はちょっと大変な会議があったから、疲れちゃってさ」


 冠を外して髪を後ろでひとつに括り、装束も比較的簡素な物に着替えて香華宮こうかきゅうへやってくる有竣は、皇帝をしている時よりも春華が知っている『幼馴染の有竣』に雰囲気が近い。そのせいなのか、単に周囲に人目がないせいなのかは分からないが、春華もこの場でならば以前と変わらず気楽に有竣と会話ができた。


 ──いきなり探りを入れやすい流れが来たかしら。


 畏まる三つ子侍女達を片手のひと振りで下がらせた有竣は、中庭が見える窓辺に置かれた卓へ歩み寄ると腰を落ち着ける。そんな有竣が言葉の通り疲れ気味であることを察した春華は、有竣の後を追うように卓へ歩み寄りながら問いを投げた。


「珍しいね、有竣がそんなに分かりやすく疲れてるの」

「そう?」

「うん」


 探りを入れるための問いというよりも、純粋に口からこぼれた感想だった。何なら一瞬、探りを入れなければならないことを忘れていたくらいだ。


「いつも仕事にやる気はなくても、そこまで疲れを見せるようなことはないじゃない?」


 卓の傍らまで行き着いた春華は、有竣の席と向かい合う形で置かれていた椅子に手をかけた。だがそのまま腰を下ろすことはせず、椅子を抱え上げるとえっちらおっちら有竣の隣まで運ぶ。


「何か相当難しい話し合いでもしてたの?」


 卓を回り込み、有竣の隣まで椅子を運んだ春華は、有竣が腰掛けた椅子の隣に自分の椅子をピタリとくっつけるとようやく腰を下ろした。そんな春華の行動に有竣がパチクリと目をしばたたかせる。


 ──探りを入れる時に、正面にいるよりも隣にいた方が視線が気にならなくていいってのもあるんだけども。


 有竣の視線を感じながらも、春華はあえてその視線に気付いていないフリをした。だが顔に集まる熱は誤魔化しきれない。茶の支度をするために卓の上で手を動かしている間も、頬や耳が赤く染まっていくのが分かる。


 ──ほら、疲れた時ってさ。誰かがこうして隣にいてくれるだけで、何だかホッとするじゃない?


 里にいた頃の春華は、仕事や習い事に行き詰まって疲れてしまうと、その場を抜け出して誰もいないところでボンヤリすることがたまにあった。そんな時は必ず有竣がどこからともなく現れて、無言のまま隣に並んで座ってくれたものだ。


 春華から話し始めるまで、有竣は『何があったの?』とも『戻らなくてもいいの?』とも言わなかった。ただ無言で隣にいてくれるその温もりに、何だか全てを許されているような気がして、春華はいつだってホッと息を吐き出すことかできた。


 ──私は、黙って待ってることはできないけども。


 春華が黙って隣にいても、有竣が自発的に疲れの元について口にすることはないだろう。さらに言えば春華は今、何とかしてうまく有竣から情報を抜き出さなければならない。


 だがその思惑を越えた場所で、春華は有竣の疲労の原因を知りたいと思う。具体的な解決策はきっと何も出せないだろうけれども、『うんうん、それは大変だったね』と同意して労うことくらいはできると思うから。


「んーとね」

「うわっ!?」

「今日の会議って、食わせ物の狸爺どもが勢揃いするやつだったんだけども」


 そんな春華の内心が、どこまで有竣に伝わったのかは分からない。


 だが不意に春華を抱き寄せた有竣は、春華が思っていた以上にあっさりと口を割った。


「吏部からは科挙のこと、礼部からは祭祀のこと、工部からは大規模な都の造成のことを言われてね。優先順位をはっきりさせろって、それぞれから詰め寄られちゃってさぁ」

「ゆ、優先順位?」


 春華を自分の膝の上に抱き上げ、深く懐に抱き込んだ有竣は、深く溜め息をついた。春華の背中と有竣の胸から腹にかけてが密着したせいで、有竣の声が振動として全身に伝わる。春華のつむじに有竣の顎が乗っているせいで、有竣の吐息がサワサワと髪を揺らした。


 ──ち、近い……近いってばぁ……っ!!


 その状態でさらに有竣の指先は春華の髪をいじりだす。


 あまりに過剰かつ唐突な触れ合いに目を回しながらも、春華は何とか有竣の言葉に耳を傾けた。


「『国を立て直すために、陛下はまず何を重視されていくおつもりですか』『一度はっきりとご意見をお聞かせいただきたい』って。何をするにもお金がかかけど、元手は限られてる。それは家計であろうと国政であろうと同じだからね」


 さい国内は、長きに渡る内乱によって荒廃していた。その内乱を平定した後には、国の立て直しという仕事が湧いてくる。


 内乱によってこの国はどこもかしこもズタボロになった。建物や農地といった物質的な側面から、人材や祭祀、政治機構といった非物質的なものまで。永きに渡る内乱は、全てをグチャグチャにしていった。


 有竣が内乱を終結させて、そろそろ一年になる。表立った反乱分子の芽をほぼ潰され、斎国はようやく名実ともに纏まりを取り戻したのだという。国を保つために必要最低限、急場で作られていた王宮組織も何となく回る目処が立ち、いよいよ本格的な再建を、という流れが生まれてきたのだろう。


 だがまずは具体的に何から立て直すかを決めないことには話が進まない。人手だって財源だって限られているのだ。優先順位を決めて集中的に復興に力を入れなくては、全てが共倒れになりかねない。


 ──そしてその中心に立つ者には、自然と力が集まる。


 混沌の中にひとつ核が生まれてしまえば、そこに全てが集う。今の王宮はまさしくその状態だ。誰もが『最初の核』の立場に立とうとしている。


 おう有竣という圧倒的な『暴』と『力』を持つ皇帝。その後見の座を盤石の物としている宰相・がく催圃さいほ


 その二点に継ぐ座を手にする好機を、誰もが虎視眈々と狙っている。優先復興項目を担うことになる省庁の長官という役割は、その座に近付く絶好の機会だ。


「大変ね。下手に答えてしまえば言質を取られる」

「そう。クソジジイどもが相手の会話は、ちょっとした気の緩みが大怪我に繋がるから」


『樂のジジイ一人を相手にしている時だって疲れるのに』と呟きながら、有竣は春華の髪と戯れている。


 ──ふぇん……いつまでこの体勢なのよぉ……っ!!


『有竣の心が晴れるならば、しばらく自由にさせてやりたい』という気持ちと、『このままじゃ私の心臓が持たない!』という気持ちの板挟みで頭がどうにかなってしまいそうだ。


 ──だって私、確かに寵妃は寵妃だけども、で手を出されたことはまだないんだもの……っ!!


 あれだけベッタリ貼り付いている姿を周囲に見せつけているくせに、実は春華はまだ有竣と同じ寝台で眠ったことがない。それどころか、口づけのひとつさえしたこともないというのが実情だった。有竣は確かに毎晩春華の元へ戻ってくるが、寝室は別である。


 問答無用で香華宮に連れてこられた春華だが、有竣は文字通りここに春華を連れてきただけで、他に何かをしろと強要してきたことは一切なかった。


 ──有竣は約束通りに、私に世界をくれた。


 だけどそんな有竣は、春華から見返りに何かを奪っていくような真似をしない。望めば春華から何だって奪える、地位も力も権力も持っているというのに。


 ここに春華を置いた有竣は、ただただ春華を甘やかす。その甘やかし方が過激で重くて他に攻撃的というのはあるが、春華自身に対しては『真綿で包むような』という表現がピッタリな扱い方を有竣は貫き通している。


 ──有竣は、どうして私にそこまでしてくれるんだろう。


 ふと、熱にのぼせた頭の片隅で、そんなことを思う。ぼんやりと視線を置いた先では、変な風に癖がついている髪を、有竣の指がピョコリ、ピョコリといじり回して遊んでいた。


「ねぇ、春華」


 その動きに、きっと有竣も見入っていたのだろう。


 どこかぼんやりとした語調で、有竣は口を開いた。


「春華は、ここに来たくなかった?」


 だがその言葉は、冷水を浴びせかけるかのように春華の頭からのぼせを奪い去っていく。


「なっ、なんで……」

「息苦しいのかなって思って」


 右手の指先で春華の髪をいじり続けながら、有竣はグッと春華の腰に巻きつけた左腕に力を込める。


「僕は春華に、誰にも何にもおびやかされず、自由に生きていける世界をあげたかった」


『ここに来たくなかった?』と問いかけながらも、『決して離さない』という思いを有竣の全身は訴えている。


 相反する思いを言葉と行動で表しながら、有竣は言葉の上では穏やかに説明を続けた。


「それをあげることはできたと思ってる。でもその結果、僕は春華を香華宮ここに閉じ込めることになった」


 言葉が途切れると同時に、有竣の指もゆるりと動きを止める。


 その瞬間、ようやく春華は有竣が戯れていた『癖』が何によってついたものだったかを思い出した。


「いつか春華は、この箱庭を飛び出していくんじゃないかって。……それを望んでいるんじゃないかって、ふと思ったんだ」


 ──これ、髪を布包みに突っ込んでたせいでできた跡だ……!


 有竣帰投の報は唐突にもたらされた。文官装束と引っ詰め髪姿のまま三つ子侍女と話し込んでいた春華は、有竣に外出がバレないように慌てて着替えるハメになったのだ。


 三つ子侍女達のおかげで、妃としての衣裳は問題なく着付け直すことができた。だが髪は簡単に結い直すことしかできなくて、不自然についた癖まで直していられる余裕はなかった。


 ──こんな発言が出るなんて、まさか、有竣……


 言及しないだけで、もしかして有竣は春華が何をしていたのかすでに知っているのではないだろうか。


 バクバクと、今度は違う意味で心臓が暴れ始める。


 体の震えが止まらない。何かを言わなければならないはずなのに、真っ白になってしまった頭では何も言葉が浮かんでこない。


「……ねぇ、春華」


 静かに落とされた声に、ビクリと肩が跳ねた。スルリと春華の髪から離れた有竣の右腕が、そっと春華の腰に回される。


「何も言わなくて、いいよ」


 だがその腕が春華を強く抱きしめることはなかった。それまで強く春華に巻き付いていた左腕からも、ユルリと力が抜けていく。


「春華は、何も言わなくていいんだ。僕に言いたくないことは、言わなくていいんだよ」


 ただ体温を分け与えるかのような抱擁と、少し力が抜けた声に、春華は思わず顔を上げた。だが変わらず有竣は春華のつむじに頭を乗せているから、春華から有竣の表情はうかがえない。


「僕は春華に与えたいだけ。いらないって思ったら、春華は捨てたっていいんだ。春華が自分の力で歩いていけるならば、どこへ行ったって僕は構わない」


 その体勢のまま、有竣は本心を吐露する。


「だから、ほんの少しだけ……ほんの少しだけでいいから、春華の心の片隅に、僕を置いてほしい」

「どうして」


『本当に、ほんのちょっとだけでいいから』とすがるように囁く有竣の声に、春華は思わずかすれた声を上げていた。


「有竣は、どうして、私にそこまでしてくれるの?」


 里にいた頃、春華は有竣への淡い恋心を自覚していた。有竣に嫌われていないということも察していた。


 だけど、それだけだ。家族のように過ごしていたけれど、春華は有竣にそこまで尽くしてもらえるような恩を与えた記憶はない。ここまで激しく想われる要因が、……見返りを求めずに尽くしてくれる動機が、春華には分からない。


 春華の問いを受けた有竣は、ほんのわずかに息を詰めたようだった。沈黙が満ちた室内を、ゆるく時が流れていく。


「……さぁ、ね?」


 そんな明らかに何か答えがある間を感じさせながらも、有竣は結局その『答え』を口にはしなかった。


 つむじにかかっていた重みが消えた瞬間、春華が顔を跳ね上げれば、何かまぶしいものを見るような表情で春華を見つめる有竣と視線がかち合う。


「案外、理由なんてないのかもしれないよ?」


 そう言いながら春華の頬に指を滑らせた有竣は、何かにおびえているようにも見えた。

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