肆
「
「こういう時だけちゃんと口を開くのね、
「何せ御身に何かあった場合、我々の首も危ないですから」
常と変わらない静かな口調で告げられた春華は、思わずギクリと肩を跳ね上げた。一瞬『このまま後宮に戻った方が……』という弱気な考えが脳裏を
──それじゃ何も変わらないんだってばっ!
今、春華は、下級文官の衣に身を包み、髪を後頭部でひっつめて無理やり布包みの中に押し込んだ姿で王宮の廊下に立っていた。そんな春華の後ろには、揃いの装束に身を包んだ杏杏が控えている。
ちなみにこれらの装束の手配と着付けをしてくれたのは
『私、
そう高らかに宣言した春華に、三つ子侍女は思い留まるよう必死に説得をしてきた。春華の身に何かがあれば物理的に首が飛びかねないのだから、それも当たり前と言えば当たり前なわけだが。
──だって、後宮にいても分からないなら、それ以外の時の有竣を探るしかないじゃない!
春華は現状を変えたい。自分のためというよりも、有竣のため、そしてこの国のために、だ。
そのためには後宮に引きこもっているわけにはいかない。だから外に出たい、というのが春華の主張だった。
──それに、今の状況を何とかして変えていかないと、ゆくゆくは私の命が狙われかねないというか……
今、この国の頂点に座しているのは有竣だ。そこに座するにあたっての動機が何であろうとも、有竣がこの国の舵取りをしているという事実は変わらない。
そして春華はそんな有竣の考えを言葉ひとつで覆すことができる力を持っている。……いや、春華本人はそんな力を持ったつもりはないのだが、やれてしまうことは事実なのだから仕方がない。
──有竣に取り入ろうとしている人間は、私の存在が邪魔で仕方がない。国政に携わっている人達だって、持ち込みたい策によっては私と対立することになるはず。
若く美しく有能な皇帝。そんな皇帝に己の血縁をあてがい、縁を得ようと必死に暗躍している存在がいることを、春華は知っている。今のところ
王宮側が自分達の利権をごり押しして民を苦しめる策を打ち出してきたら、きっと春華は黙ってはいられないだろう。正面切って政の話を振られる機会はない春華だが、後宮にいても聞こえる声は聞こえてくる。自分の性格上、聞こえてきてしまった声に『それってどうなの?』と思ってしまったら、春華はそれを有竣に黙ってはいられないはずだ。
春華と王宮が対立関係になってしまえば、有竣は必ず春華の側に立つ。そうなれば国が乱れるのは必至。『国を立て直すためには有竣が春華を手放すしかない』という流れになっても、決して有竣は春華を手放しはしないだろう。穏便な話し合いなど決して望めず、血で血を洗う戦乱が幕を開けることになる。
春華にさえ読める流れが、国政を動かす賢人達に読めないはずがない。先手を打つために、彼らが何を考えるかと言えば……
──『女狐』
しかもこの場合、正義は暗殺を
この未来を回避するためには、今のうちに有竣を
三つ子侍女が最終的に春華の言い分を呑んで協力してくれたのは、この『春華暗殺の危機回避』という一言が利いた結果である。
──私だって言いがかりで暗殺されたくはないもの……!
春華は気持ちも新たに己を奮い立たせる。その勢いを借りて春華は杏杏を振り返った。
「杏杏、政務をしている有竣の姿を観察できそうな場所ってないかしら?」
『何はともあれ、知ることから始めないと!』という春華の決意を察し、説得はやはり無理だと理解したのだろう。無表情のまま小さく溜め息をこぼした杏杏は、春華の先に立って歩き始める。どうやら案内をしてくれるらしい。
──そういえば杏杏、王宮内の地理にも明るいのね。
当初、春華は一人で王宮に潜入するつもりだった。そこに
しかし思い返してみれば、春華は王宮の地理をまったくもって分かっていなかった。実は普段暮らしている後宮でさえ危うい。やはり一人は無謀だったなと、今更になって春華は己の暴挙を反省する。
──『これしか道がない』っていう考えは変わらないけれど、そもそも後宮から妃が抜け出して王宮をうろつくなんて大問題だもんね。
そんな暴挙を呑んで協力くれた三つ子侍女のためにも、必ず戦果を挙げてこなくては。
春華はグッと両手を握りしめる。
その瞬間、前を行く杏杏の肩がピクリと跳ねた。そのまま足を止めた杏杏の動きに従い、春華も足を止める。
「杏杏?」
「春華様、こちらへ」
『どうしたの?』と春華は首を傾げる。その問いには答えず、杏杏はパシリと春華の手首を取ると、傍らにあった扉の内へスルリと身を滑り込ませた。そうしなければならない理由は分からないが、春華は考えるよりも早く杏杏の指示に従う。
「杏杏?」
「お静かに。人が来ます」
春華を奥に押し込み、扉の横の壁に背中を預けた杏杏が外に視線を投げながら囁いた。その言葉に息を呑んで耳を澄ませば、確かに足音が聞こえてくる。
──おかしいわね。この辺りって、あまり人が立ち寄らないところじゃないの?
後宮と王宮が接する場所には、王が私的な時間を過ごす宮である
今、春華達がいるのは、宝物庫がある棟だ。杏杏が言うには、立ち寄る人間はごく少数の限られた人間だけで、ここならまだ春華の正体を見破られても言い訳が立つ範囲だという。『まずはこの辺りで外歩きの感覚を養い、表に向かう覚悟を決めましょう』と杏杏はいつになく饒舌に語っていた。
──今から思い返せば、何に対する覚悟を決めるべきだったのかしら?
『ビビッて引き返すなら今のうちだって言いたかったわけ?』と春華が今更疑問を転がしている間にも、外から聞こえてくる足音はこちらに近付いてくる。春華よりも扉側に立った杏杏は、いつの間にか手元に抱えていた
──待って杏杏! いきなり物騒なことは駄目だからねっ!?
「…………だな」
「ええ、………………です」
春華は思わず杏杏に手を伸ばす。
だが春華が杏杏の腕を掴むよりも、足音に紛れてボソボソと囁く声が聞こえてくる方が早かった。
「抜かりはないか」
「はい。問題なく」
思わず春華は息まで止めてその声に聞き入る。頭では『いけないことだ』と分かっていても、そばだてられた耳は勝手にその声を拾っていた。
「献上品の中に、確かに」
「いかに新皇が武芸に秀でていようとも、あの毒には勝てまいよ」
あるいは春華は本能的に、こぼれてくる声が良からぬことを企む者の声だと察していたのかもしれない。
『献上品』『皇帝』『毒』
はっきりと聞こえてしまった言葉に、春華は思わず身を乗り出していた。音を拾うために細く開かれた扉の向こうに、翡翠のように鮮やかで美しい色目の装束が躍る。
「庶子の分際で大きな顔をしよって」
そんな春華の動きに気付いたのか、杏杏が匕首から手を離し、音もなく春華の体を引き留める。左腕で体を抱き留められ、右手で口を塞がれた春華は、ようやく自分が無意識のうちに外へ飛び出そうとしていたことに気付いた。
「これでようやく亡き者にできる……!」
扉の隙間から見える範囲から、翡翠の装束が消える。
その後には妙に甘ったるい、不快な臭いが残されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます