「ごめんね、有竣ゆうしゅん。私、もう有竣と話せるの、最後になりそうなの」


 思い返せば約三年前、春華しゅんかがこんなことを言ってしまったのが事の始まりだったような気がする。


 いや、あの時の自分は、かなり真剣だったし、悲壮な覚悟を携えていたのだ。だってあのままの流れに乗っていたら、間違いなく自分の人生はお先真っ暗だったのだから。


「えっ……なっ、なんで……っ!?」


 春華の唐突な発言に、有竣は分かりやすく動揺していた。それでも春華の両肩に置かれた両手は優しくて、その手が与えてくれる温もりに目頭が熱くなったことを覚えている。


「県令様が、私を嫁に欲しいって言い出したらしくて……」

「は?」

「い、意味、分からないよね? だって県令様にはもう何人も奥様がいらっしゃるし……私は特別美人ってわけでも、何でもないのに……」


 春華がしどろもどろに続けた言葉に、有竣は眉をひそめた。それを肯定と受け取った春華は、押し隠していた混乱をこらえきれずに小さく肩を震わせる。


 春華の実家であるれん家は、いくつかの里を治める郷長だ。春華はその廉家に長子として生まれた。


 郷長とはいえ、廉家が取り纏めているのは山間の片田舎だ。家長である父が『片田舎の郷長など大した身分ではない』『大した身分ではないのだから、皆と同じように働くのは当たり前』という考え方をしていたこともあり、春華は周囲の娘達に混じって糸紡ぎや簡単な畑仕事をこなしながら暮らしていた。


 唯一、他の娘達とは違って郷長の娘らしい日課と言えば、仕事の合間に書や楽を教えてもらっていたことだろうか。


 将来、弟を支えることになっても、どこかへ嫁ぐことになっても、教養は武器になる。だから多少なりとも覚えておいて損はないというのが理由だったが、字が読めたおかげで春華は書を友とすることができた。村娘達と同じように仕事をこなしながらの勉学は大変ではあったが、春華は学をつけてくれた両親に感謝している。


 だがその学を本当に役立てなければならない嫁ぎ先が降ってくるなど、春華は両親から急な婚姻話を聞かされるまで思ってもいなかった。


「この間、県令様が巡視に来た時、ここに泊まったでしょう? その時に私を見初めたとか何とか言ってるみたいなんだけど……」


 対する有竣は、廉家に住み込みで働いている下男だった。何でも有竣の祖父と今は亡き春華の祖母が古い馴染みだったとか何とかで、その縁を頼って廉家に預けられたらしい。


 三歳年上の有竣は春華が物心ついた時から廉家の小間使いをしていたから、その辺りの詳しい事情を春華は知らない。だが春華にとって有竣は家族にも等しい存在だった。


 幼い頃は春華の弟も交えて一緒に遊んでいたし、学問も一緒に習っていた。歳を経てからは主家と使用人の線引きのためか有竣は勉学の席からは外されてしまったが、それでも春華は有竣が何事にも秀でた優秀な人物であることを知っている。


 何かと郷と外を行き来する機会が多い春華の父に同行するようになってからは、護衛としての役割も担っていると聞いていた。そこから察するに、有竣は学だけではなく腕っぷしもあるのだろう。


 おまけに秀麗な顔立ちをしている有竣は、下男という身分でも村娘達からとても人気があった。もちろん、兄妹同然に育った春華も、有竣を意識していないわけではない。でなければ周囲がこれ以上有竣の魅力に気付かないように、毎度絶妙に似合わない衣を仕立てて有竣に押し付けたりなんかしていない。


 ──あぁ、そういう意味では『家族同然』ではないのかも……


「……あいつの目に春華が映ることがないよう、手配していたはずなのに」


 思わず思考が横道に脱線したせいで、有竣がボソリと低く呟いた言葉が微かにしか聞こえなかった。


 だが春華が聞き取れなかった言葉を問い返すよりも、眉間にシワを刻んだ有竣が問いを投げてくる方が早い。


「旦那様と奥様は、この話に何か言ってた?」

「……従うしかないって」


 県令は郷長よりも立場が上だ。おまけに今回、春華を寄越せと言ってきた県令は、廉家が治める郷で作られた作物や糸、布地を一括で買い上げてくれている、いわば取引先でもある。


 婚礼を断れば、今後取引はしない。


 県令ははっきりと春華の父にそう言ったらしい。


「……春華は、それでいいの?」


 春華の短い言葉で、有竣は全てを覚ったようだった。春華の肩に置かれた両手にグッと力が込められ、わずかに距離が縮まる。


 その力に、春華は一度きつく奥歯を噛み締めた。だがすぐに己の意思で力を緩め、有竣を見上げてニコリと笑ってみせる。


「……仕方がない、よ」


 嘘だった。本心では、嫌で嫌で仕方がない。


 先の巡察の時にチラリと見かけた県令は、蝦蟇ガマガエルのような風貌の、脂ぎった中年ジジイだった。


 風の噂では今年で齢四十五。現在十五歳である春華の三倍歳上だ。おまけに正式な妻が三人いて、愛妾はそれ以上に抱えているとか。一番上の子供は春華よりも歳上で、さらにその子供に先年子が生まれたという話だから、孫までいるような男が春華を嫁に寄越せと命令してきたということだ。


 ──私は、このままここで……有竣と夫婦になれたらって、思ってた。


 声にできない想いを、胸中だけで呟く。己の左手首を取った右手に、知らず知らずギュッと力がこもってしまったことに、有竣が気付きませんようにと願いながら。


「だって……郷や、その下の里を守ることが……郷長の家に生まれた人間の、努めだもの」


 村の住人達と同じように働いているつもりでも、自分にてがわれる仕事が楽なものばかりであることを知っていた。同じように暮らしているつもりでも、他の人達よりもちょっとだけ食事が良かったり、着る物がお洒落であったりすることに気付いていた。


 それを村人達が『当たり前』として受け入れてくれているのは、こういう時に長の家の人間が盾になってくれるということを分かっているからだ。逆に言えば、普段の『ちょっとした贅沢』は、こういうことへの『前払い』でもある。


 ──私だって、廉家の娘。


 春華がこの婚礼を断れば、廉家が治める郷の住人達は生きてはいけない。


 郷とそこに住まう人々を守る責務が、春華にだってある。そこに春華の都合は関係ない。


「……県令様が、婚姻までの間に万が一のことがあってはいけないから、私を部屋に閉じ込めて、男はもう接触させるなって」


 春華が無理に笑っていることを、きっと有竣は見抜いていたのだろう。グッと何かをこらえるように春華を見つめた有竣は、いつの間にか全身を震えさせていた。その振動が、両肩に置かれた手を介して春華にも伝わってくる。


 だから春華はまだ自分が笑っていられる間に、そっと有竣の手を肩から外した。


「だからもう、有竣と話せるのは、今が最後なの」


 震えているのは、春華も同じだ。


 だから春華はその震えを有竣に指摘されないうちに身を翻す。


「今までありがとう。私、有竣のこと、忘れない」

「春華」

「家族のみんなを、守ってあげて。おねが……」

「春華っ!!」


 だが有竣は春華に逃げを許さなかった。


 駆け出そうとした体を、後ろから伸びた腕が抱き留める。そのままグッと力を込められて体が傾いだと思った時には、春華の体は後ろからスッポリと有竣の体に抱き込まれていた。


「ゆ、有しゅ……!」

「お願い、春華。僕には本当のことを教えて」


 今までこんな風に有竣が春華に触れてきたことはない。幼い頃に春華がたわむれに有竣に抱きついたことくらいはあったはずだが、有竣がこんなことをしてきたのは初めてだ。


 ──体、大きい。力、強い。


 初めて体で感じる腕の太さとか、胸板の厚さとか。こんなに強い力があったこととか。


 全て知らずにいたのは、有竣があえてその『脅威』を……有竣がその気になれば、春華一人など力尽くでどうとでもできるという事実を春華に覚らせないように、あえて距離を残してくれていたからなのだと、この瞬間に初めて春華は知った。


 春華をおびえさせないように。春華がいつだって、有竣に対して自由でいられるように。


「春華は、この話、どう思っているの?」


 その『力』を初めて春華に行使した有竣は、声音だけは常と変わらず柔らかなまま春華に問いかけた。


 声音は柔らかだが、ギュッと春華を拘束する腕は『本心を語るまで離さない』と春華を脅している。そうでありながら春華を包み込む熱は、泣きたくなるくらいに優しい。


「僕は、『廉家の長姫様』じゃなくて『春華』の言葉が聞きたい」

「……っ」


 そんな風に、有竣が己の全てを使って春華の本心を引き出そうとするから。


 その時点ですでに心が追い詰められていた春華では、逃げ出すことなんてできなかった。


「ヤ、だ……よぉ……っ!」


 どれだけ耐えていられたかなんて、覚えていない。


 気付いた時には春華は、後ろから有竣に抱きしめられたまま、ボロボロと涙をこぼしていた。


「こ、こんな結婚、ヤダよぉ……っ!」

「うん」

「わ、私……っ、こんなのヤダよぉ、有竣……っ!!」

「うん、そうだね、春華」

「で、でも……っ、でも、私が行かなかったら、みんなが困る……私、みんなを放り出して、我が儘なことができる、度胸もない……」


 そう、本心は、それ。


『郷長の娘として』とか『責任が』とか綺麗事を言っておきながら、本心はただただ怖いだけ。


 自分が勝手をしたことで、後に残された人々の人生が狂ってしまうことが怖い。その恐怖に耐えられない。だけど、自分に突きつけられた道を進むことも怖い。怖いし、嫌だ。


「……そう」


 泣きじゃくる春華の声を、有竣は静かに聞いていた。その短い呟きだけで有竣が全てを肯定してくれていると分かってしまうから、春華の目からは余計に涙がこぼれていく。


「ねぇ、春華」


 せめて今は、衝動のままに泣いてしまおう。泣き終わったら自分は、嫌でも現実に向き合わなければならないのだから。


 そう覚悟を固めた、その瞬間だった。


「全部、壊してあげようか?」


 笑っているように聞こえるのに、ゾッと背筋が震えるような声を、有竣が上げたのは。


「春華に嫌なことを強いて泣かせるような世界なんて、僕が壊してあげようか?」

「え……」


 唐突な発言の意図が捉えきれずに、春華は有竣を振り返ろうと身をよじる。だが春華をきつく抱きしめ、春華の肩口に顔をうずめた有竣は、春華に身動きを許さなかった。


「春華が、僕を選んでくれるなら」


 そんな有竣が小さく震えているように思えたのは、気のせいだったのだろうか。あるいは春華の体が震えていたから、有竣も震えていると錯覚しただけだったのか。


「僕は春華に、春華が何にも、誰にも脅かされずに生きていける世界をあげる」

「……有竣」


 だけどその震えのおかげで、春華の涙は止まった。


 ──そんなの、


 夢物語に、決まっている。


 だって有竣は眉目秀麗で万事に優れていても、ただの郷長の家の下男なのだ。物語の中の英傑でもなければ、仙師でもない。春華に世界を差し出せるような力は、有竣には一切ないはずだ。


 だが有竣が真面目に、心の底からそう言ってくれていることは、有竣の声の響きで分かる。有竣は今、本気で世界を壊してでも春華のことを守ろうとしてくれている。


 その気持ちだけで、十分だと思った。


 この気持ちだけできっと、春華はこの先も生きていける。


「……うん。私は、有竣と一緒がいい」


 だから、最後に少しくらい、有竣の冗談に付き合うことを許してほしいと願ってしまった。


 


「有竣と一緒に、そんな世界を生きたかったな」

「……春華」


 ポツリと、諦めを込めて呟いた瞬間、ギュッとさらに有竣の腕に力がこもった。骨が砕けてしまいそうなくらい込められた力は、春華の体も心も痛いくらいに締め付ける。


「約束だよ、春華。必ず迎えにくるから」


 有竣の腕は、春華が痛みを訴えるよりも早くスルリと解けた。思わずフッと、詰めていた息を全身で吐き出した瞬間、すぐ耳元で有竣の甘い声が囁く。


「だから、絶対に他の人の手を取らないで、待っていて」

「っ……」


 ──それって、どういう……


 ゾクリと背筋が震えるような甘さと、相反するような寒気。


 それらを同時に覚えた春華が思わず有竣を振り返った時、すでに有竣は春華に背を向けてその場から足早に離れようとしていた。


「……有竣?」


 見慣れた背中がなぜかひどく遠く感じられて、春華は思わず声を上げたが、有竣が振り返ることはなかった。


 春華のか細い声は、誰にも届かずに消えていった。



  *  *  *



 その日の夜、有竣は忽然と姿を消した。


 春華に強引な縁談をねじ込んだ県令が殺され、屋敷が燃え落ちたという報がもたらされたのは、その翌日のこと。県令に代わり、郷の品を一手に買い受けたいととある豪商が郷へ商談に現れたのは、さらに数日後だった。


 県令よりも良い条件で豪商が買い付けをしてくれるようになったおかげで、廉家が取り纏める里はどこも徐々に潤うようになっていった。周囲の他の里が内乱の被害に遭う中、廉家が治める里はどこも奇跡的に被害を免れたことも幸いした。


 県令からの婚姻が当人死亡を受けたことで白紙に返った春華は、変わることのない生活を続けていた。


 県令の一件で、当人達の意思ではないにせよ、春華に望まぬ婚礼を強いる形になった両親には、何か思うところがあったのだろう。以降春華に縁談の話が回ってくることはなかった。村の男性から好意を寄せられることがなかったわけではないが、春華はそれとなく全てをかわし続け、誰にもなびくことはなかった。


『だから、絶対に他の人の手を取らないで、待っていて』


 有竣のあの言葉を真に受けていたから、ではない。ただ、春華の心の内に、ずっと有竣がいたというだけで。


 ──今、どこで、何をしているのかしら?


 それを思わない日はなかった。


 ……その答えを、有竣失踪から実に二年以上が経った後に知ることになるなど、露ほども思わないまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

孤狼の寵愛は女狐のみにあり〜新皇となった幼馴染は、どうやら私と離れると闇堕ちするらしい〜 安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売! @Iyo_Anzaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画