第9話 黒幕
真純が何故、袋の魔獣に飲み込まれなかったのか、それは当然、彼女の持つ魔法である。男もすぐにそれを察し、確認のために袋の魔獣をもう一度放った。
袋の魔獣が彼女を飲み込もうとするが、何故か体を擦り抜けてしまい、捕まえることができない。
「なっ! ま、まさか……これが……お前の魔法?」
そう、真純の持つ「壁抜け」の魔法だ。だが、これは単に壁を通り抜けるだけの力ではない。その本質は透過、彼女が魔法を発動している限り、全ての無機物は空間から遮断され、決して交わることがなくなる。そのことを、黒服の男は知らない。
そしてそれは、魔法使いの魔法ですら例外ではない。
袋の魔獣は、根本が生物という概念に含まれない。あくまでも、魔法の力で意思を持つただの袋だ。
故に、彼女を飲み込むことができない。この男にとって、まさに相性最悪の相手である。
「くそっ! ふざけるなよ、そんなことが許されてたまるか。俺は、我が父から役目を与えられた。この程度のことで、それを断念できるはずがないっ!」
「我が父? それがあなたたちを裏で操る黒幕なの? ちょっと、答えてっ!」
「ふふ……黒幕だと? バカを言うな、父は子供たちを薄汚い俗世からお救いくださる、救いの神そのものだ。お前のような、この世に汚染された狂者に理解できるはずもない!」
「救いの……神?」
黒服の目は瞳孔が開き、焦点が合っていなかった。
それはまさに、危険な宗教に心を奪われた狂信者そのものだった。
「お前に、父の崇高なる望みなど、決してわからないだろうな。不幸と無縁で生きてきたような、幸せなお前には」
声を荒げ、男はふらふらと立ち上がった。腕や体を左右に揺らしながら、首をギギギと壊れたロボットのようにひねる。
「あの怪物に子供を殺させることが、まさか救いだとでも言うの?」
「……殺す? 俗世からの解放は、何も死だけではないさ」
「あらそう、てっきり過激な宗教団体か何かかと思ったけど、そうでもないのね」
呆れた視線を男に向ける真純。彼女が、自身を超える狂者と出会うことは、人生で早々あることではない。もしかしたら、これが最初で最後になるかもしれない。
真純がまともな理由で、相手を変人だと思うことは本来ありえないのだ。
「でも諦めたほうが利口よ。あなたの魔法は私に効かない。連れてきたペットも、すばしっこいハエを捕まえる遊びに夢中みたいだし」
魔獣を見ると、高速で空中を移動する来須に悪戦苦闘しており、完全にお荷物状態となっていた。
「ふふ、ふふふ……たしかに俺の魔法は効かないみたいだな。だが、だからといって俺が負けたことにはならない。答えろ、お前たちに決定打があるのか? 魔法を使うにも力がいる、長引けばお前たちが不利なんだぞ」
男は追い詰められているにも関わらず、焦りや不安は一切見せない。それどころか、まだ自分たちが有利だと主張した。
だが、男の言い分も間違ってはいなかった。
来須と真純は攻撃に特化した魔法は使えない。そのうえ、決定力のある武器も持っていない。双方どちらの魔力が先に尽きるか、それが勝負の分かれ目なのである。
そういう意味では、スタミナにある程度の定評のある魔獣の方に軍配が上がる。
「あなた……もしかしてバカなの?」
「な、なに?」
「時間稼ぎしてるのはむしろこっち。いくら魔獣が体力お化けでも、術者であるあなたを失えば関係ないわ」
「ふふふ、残念だったな。クランプスは我らが父の力によって活動している。この俺が再起不能になったところで、奴の進撃が止まることはない!」
「なんですって?」
終始冷静を保っていた真純も、さすがに目を剥いた。
「我らが崇高なる父、クネヒト・ループレヒトの力に勝るものなし! 恐れろ、戦け。いいか、負けるのはお前たちだ!」
「それは……さすがに想定外ね」
初めて、真純の表情が曇った。今までは僅かながらに余裕があったが、それも見られなくなっている。
「諦めろ、お前たちの負けだ。決定打がない以上、勝機などありはしないのだからなぁ!」
黒服はまるで油紙に火がついたように、突然饒舌になる。
「はぁ、勝ったと思ってすぐ調子に乗らないでよね。そういうとこ、余裕なさそうでダサいから」
「ふん、なんとでも言え。どうしようと、俺の有利は変わらない」
「まあでも、あのなんとかってのも、所詮は生物なんでしょ? なら、必ず殺せる」
抑揚のない声で、真純は淡々と言った。その口調は冷ややかで、妙な寒気を感じさせる。
生きているのなら、無機物でないのなら、殺せば全て解決する。それは至極真っ当なことではあるのだが、簡単に言えることでもない。
その時だった。鼓膜を破壊するかのような魔獣の咆哮が轟き、真純は思わず怯んだ。
魔獣へと視線を向けると、その両目に鉄棒に使われている金属棒が突き刺さり、魔獣の視界を奪っていた。
それを見て、男は眉をひそめた。
「なんだ……あれは。あの少年、クランプスを相手に善戦しているだと?」
次第に戦況が変化していた。時間を稼ぐために魔獣の注意を引いていた来須だが、少しずつ相手の動きを把握し、その隙を見て攻撃に転じていた。
そしてついに、その一撃は魔獣を絶命させるに至る。
飛び上がった来須が魔獣の頭上から金属棒を突き刺し、頭蓋骨を貫通させたのだ。
魔獣が地面へと倒れ込み、破れた血管からどくどくと血を流していた。
黒服の顔色がみるみるうちに悪くなる。己の魔法も効かないうえ、頼みの魔獣さえも失ってしまい、もはや絶望的状況となぅてしまった。
「終わったみたいね。さぁ、もうこれで勝負はついたわ。あとはあなたから、ゆっくりと話を聞くことにする」
「うぐっ……こ、こんなことが、ありえない」
「現実を見なさい、もはや勝敗は決定的なんだから。まあ、さすがは来須ね、相変わらずの気の短さ。さすがに我慢できなかったか」
せっかちな性格故に、時間稼ぎ、つまり待つという行為と最も相性が悪かった。
倒す、ではなくあくまで足止め、それが来須の役割だ。結果的には良かったが、時間稼ぎをしなくてはならない以上、無茶をして勝負を急ぐことはあまり良いとは言えない。
だが真純は呆れつつも、魔獣を倒したことには感心していた。
裏で指示を出す魔法使いを倒せばいいという、当初の作戦が無為に終わってしまっていたからだ。来須がそれを見越していたわけではなかったが、結果としてこれは最良の選択となった。
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