37. 憧れて良いんだよ

「違う違う違う違う!お祖母ちゃんはそんなことしない!」


 眼を閉じ、耳を塞ぎ、大きく顔を振ってこれは現実で無いと激しく否定する。


 だがいくら情報を遮断しても、一度見てしまった衝撃的なシーンが脳裏から離れてくれない。忘れようとすればするほど印象に残ってしまう。


「どうしてこんな酷いことするのよ……私が何をしたって言うの……」


 その場にしゃがみ込み、子供が駄々を捏ねるかのように何もかもをシャットアウトしようとする。


 ダイヤのおかげで精神的に立ち直ったいんだが、まさか支えとしていた想い出までも汚されるとは思っておらず、あまりの非道な展開に怒りや嘆きや悲しみなどのネガティブな感情が荒れ狂う。


いん、落ち着いて」

「ダイヤ……」


 ダイヤはしゃがむ彼女の正面に回り、同じくしゃがんで視線を合わせた。

 するといんは動きを止め、ゆっくりと両手を耳から離した。


「ご、ごめんなさい。大丈夫よ。突然のことにびっくりしちゃっただけ」


 今回は以前のようにパニックに陥るとまではいかなかったようだ。

 これもダイヤが傍で支えてくれている効果なのかもしれない。


「誰だって大切な記憶を汚されたら嫌な気持ちになっちゃうよ。だから気にしないでゆっくり落ち着こう」

「……ありがとう」


 しかし落ち着こうにも、まだ不快な声が聞こえて来てしまう。


「あんっ……んっ……んんんんっ……激しっ……あっ……あっ……あんっ……あああああん!」


 彼らはどうやら岩陰に移動して致しているらしく姿は見えなくなったが、艶声だけ聞こえてくることで逆に色々と想像がかき立てられてしまう。


「…………」


 そのせいでいんのざわざわする気持ちは全く治まってくれない。

 その気持ちを誤魔化すために、いんはダイヤと会話することにした。


「ホントにごめんね。何度も何度も情けないところ見せちゃって」

「気にしないよ。むしろもっともっと頼ってよ」

「もう、格好良いことしか言わないんだから」


 いや、割と最低なえっちぃことも言っているのだが、忘れているのだろうか。


 乾いた笑いを浮かべたいんは、ダイヤから目を逸らして項垂れ、地面を見つめながらポツリと言葉を漏らす。


「本当はね、分かってたの」


 それは懺悔にも近い独白だった。


「お祖母ちゃんは強くて優しくて格好良い、高潔なヴァルキュリアだった。でもそれは私がそう思ってただけなんだって」


 幼い頃に祖母から沢山素敵な話を聞いたとしても、それは祖母の過去の一部に過ぎない。

 世間での評価もまた同様だ。


 もしかしたら祖母は自分にとって都合の悪いことをいんに話さなかっただけではないか。


「お祖母ちゃんの良いところばかり聞いて、勝手に憧れて、勝手に心酔して、勝手に理想のヴァルキュリア像を思い描いてた」


 祖母こそがヴァルキュリアのあるべき姿なのだ。

 ヴァルキュリアならば祖母のようにならなければならないのだ。


 世間で称賛されていたことも祖母を崇める理由の一つになっていたのだろう。いつしかいんにとって祖母はヒーローになっていた。


「でもお祖母ちゃんだって本当は普通の女の人だもんね。男の人を好きになるし、沢山遊んでたって不思議じゃない。ただ、私がそうじゃないって思い込みたかっただけ」

いん、それは……」

「いいの。本当にもう良いの。私は大丈夫。ダイヤが私をヴァルキュリアじゃなくて私として見てくれたから。私も自分をヴァルキュリアとしてじゃなくて素直な気持ちに従うって決めたから大丈夫。お祖母ちゃんの本当の姿がどうであっても私にはもう関係ないから」


 だからショックは受けたけれど、もう立ち直れている。

 そう理解してもらうためか、いんは顔をあげてダイヤを真っすぐに見つめた。


「(確かに冷静には見えるけれど、本当は多分まだ……)」


 瞳に力が戻り、今なら魔物としっかりと戦えそうではあるが、その心の奥底にはまだ割り切れない気持ちが燻っていることをダイヤは察していた。


 それをこの場で指摘するべきか、それとも時間が解決するのを待つべきか。


「私のことでそんなに悩まないで」

「え?」


 ダイヤの両頬に柔らかな手が添えられた。

 潤んだ瞳でまっすぐと見つめてくるいんの顔が近づいてくる。


「んっ」


 そしてその距離がゼロになり、柔らかな感触がダイヤの唇に伝わった。

 伝わり続ける。


「んっ……んっ……」


 ぴちゃ、ぴちゃと音を立てながら、拙いながらも何度も何度も唇を押し付ける。


「いんっ……んっ……待っ……」


 しかしダイヤはそれを喜ぼうとはせず、止めたがっているような言葉を合間合間に漏らしている。

 聞こえないふりをしているのか、夢中になって気付いていないのか、いんはその言葉を塞ぐかのように積極的にダイヤの唇を貪ろうとする。


「(ダメだよいん。こんなのはダメだよ!)」


 こうなったら最終手段だ。

 ダイヤは自由な両手をいんに伸ばした。


「んっ……!?」


 強引にいんを押して剥がした、のではない。

 胸に触れて行くところまで行こうとした、のでもない。

 軽く抓って痛みを感じさせて止めさせた、のでもない。


 その手の行き先は…………脇腹だった。


「あははははは!ちょっ!止めっ!お腹は弱いの!あはははは!やめっ!止めて!あははははははは!」


 徹底したくすぐり攻撃。

 これこそが淫靡な雰囲気をぶち壊しにする最終奥義。

 尤もシチュエーションによってはここからえっちぃ展開になることもあるので使い方には注意が必要だ。


「はーっ!はーっ!はーっ!はーっ!ひ、酷いよ!」

いんが強引なのが悪いんだよ」

「だってー!」

「だってじゃありません」


 くすぐりの効果は絶大で、元気ないんにかなり戻って来た様子だ。


「うわーん!ダイヤに嫌われたー!」

「嫌ってないから。大好きなままだから。僕はえっちぃことは楽しく幸せにやりたいタイプだから止めたの」

「楽しくて幸せでしょ!」

「僕の目には泣いているように見えるよ」

「え……?」


 表面上どう取り繕っても、ダイヤには通用しない。

 好きな女の内面など簡単に見破ることが出来る。


 祖母を貶められたいんの心の傷は、まだ治りかけてすらいない。

 自分はショックを受けていないのだから、祖母が本当は沢山えっちぃことをしていようがもう気にならないし、なんなら祖母とは関係なく自分だってえっちぃことが出来るのだ。そうやって本当は深く傷ついている自分の心を強引に誤魔化そうとしていた。


 ゆえにダイヤは優しく彼女の心に薬を塗ってあげることにした。


「ねぇ、いん


 慈愛に満ち溢れた笑顔を浮かべ、大切なことを教えてあげる。




「憧れて良いんだよ」




 祖母をヒーローと思い憧れ慕う。

 それは決して間違いではないのだと教えてあげる。


「でもそれは私の思い込みだから……!」


 憧れてはならない。

 憧れる必要はない。


 そもそもヴァルキュリアであることへの拘りを捨てようとしているのだから、祖母が本当は低俗だったとしても構わない。


 そう思うことで、現実を受け入れることから逃げようとしていた。


「人間って不思議だよね」

「え?」

「良いことと悪いことのどっちが起きるかっていう二者択一があると、悪いことが起きるだろうって思って対処しようとしてしまう人が多い気がするんだ。心が疲れていると、特にネガティブな方を選んでしまう。良いことが起きるに違いないって思っても良いはずなのにね」

「…………」


 それはきっと、悪いことだと思っていたのに本当は良いことだったら嬉しいが、良いことだと思っていたのに本当は悪いことだったらショックを受けるから。心を自衛するために悪い方を選んでしまうのかもしれない。


「でもね、いん。どっちが正しいのか分からないことなら、あるかどうかも分からない『もしも』なんて気にせずに、自分が感じている気持ちに素直に従うべきだと僕は思うんだよ」

「…………何が言いたいの?」

いんのお祖母ちゃんがどんな人だったのかはもう分からないのだから、あんな偽の姿に騙される必要はないってことだよ」


 亡くなった人が生前どうだったのか。

 聞き込みをすれば多少は情報が増えるだろうが、それが正しいと証明することは中々に難しい。


 だったら元からいんが知っている情報だけで祖母の人となりを判断すれば良いだけのことであり、他者の勝手な妄想を参考にする必要など無いのだ。


「で、でもこの世界はお祖母ちゃんの記憶を元に作られてるから!」

いんのご両親は偽物だったよ?」

「あ……」


 そう言われてしまえば、男とまぐわっている若き祖母は指輪の記憶が具現化したものと思わせておいてフェイクの可能性も考えられる。


「それにさ、想像してみてよ。もしいんのお祖母ちゃんが、いんが想像する通りに高潔な人だったとして、可愛い孫娘が『本当は低俗だったかもしれない』なんて思っていたら、どんな気持ちになるかな」

「!!」


 それがどれほど悲しいことなのかは、実際に孫が居なくたって容易に想像できる。

 あるいはその想像よりも遥かに辛いことかもしれない。


いんのお祖母ちゃんってどんな人だった?」

「…………」

いんが小さい頃、どんな感じでお話してくれたの?」

「…………いつも、お膝の上に乗せてくれて、頭を優しく撫でながら話してくれた」

「どんな話をしていたの?」

「とても強い魔物を倒すお話、傷ついた仲間を助けるお話、挫けそうになっても最後まで諦めずに戦ったお話」


 その全てがハラハラドキドキするものばかりで、恐らく祖母は盛り上がる話を選んで話してくれていたのだろう。


「それを聞いていんはどう思った?」

「格好良かった。キラキラしてた。お祖母ちゃんみたいに強くて優しいヴァルキュリアになりたいって思った!」

「ならそれこそがいんにとってのお祖母ちゃんだね」

「うん!うん!」


 その気持ちを捨て去る必要なんて全くない。

 本当かどうかも分からないネガティブなことなど、考える価値も無い。


「私、お祖母ちゃんみたいな人になりたい。お祖母ちゃんみたいなヴァルキュリアになりたいんじゃなくて、お祖母ちゃんみたいな優しくて強くて勇敢な人になりたい。それは変わらなくて良いんだ。憧れたままで良いんだ。目指しても良いんだ!」

「もちろんだよ」


 だから自暴自棄になり、無理やり恋を進めて女であろうとする必要はない。

 偽の祖母を無意識のうちに真似てしまう必要も全くない。


 憧れは憧れのままに。

 それもまたいんいんらしさなのだ。


「ありがとうダイヤ。おかげで大事なことを思い出せたよ」

「良い顔になったね」

「惚れちゃった?」

「とっくに惚れてる」

「あははは」

「あははは」


 心のつかえが完全に払しょくされたのか、いんの顔はこれまでになく晴れやかだった。


 勢い良く立ち上がったいんはビシっとダイヤに指を突き付けた。


「覚悟してね、ダイヤ」

「何を?」

「もう私の心は揺るがない。これからは私の良いところばかりを見せつけてやるんだから!」

「わぁお、それは大変だー」


 うじうじタイムはもう終わり。

 この時ついにいんはヒロインとしてダイヤの隣を歩き出したのだった。

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