第8話
午後からは、図書室に向かうことにした。
ケイトは付き添いを申し出てくれたが、昨日案内してもらったので、場所はわかっている。
図書室にはいつも鍵が掛けられているらしく、その鍵だけ渡してもらい、ひとりで向かった。
町の図書室には何度か行ったことがあるが、そこは物語の本が中心で、アリアが求めているような本はあまりなかった。
マージの兄がいくつか本を貸してくれたり、祖父が遺した本などを読んで勉強していたが、やはり知識が少し古かったらしく、レナトに色々と教えてもらった。
新しいことを覚えると、もっと知りたいと知識欲が湧く。
逸る気持ちを抑えて図書室の鍵を開け、中に入る。
「わぁ……」
部屋の中を見渡したアリアは、思わず感嘆の声を上げていた。
さすがに公爵家の図書室は広かった。
部屋はすべて背の高い本棚に囲まれていて、本がびっしりと詰め込まれている。
大きな机と椅子がいくつもあるが、あまり使われた形跡はなかった。普段は誰も来ない図書室なのかもしれない。
アリアは、本棚に並んだ本を眺める。
経済や政治の本。歴史や、他国について書かれた本もあった。
どれも興味深く、どこから読んでいいのか迷うくらいだ。
こんなに気持ちが浮き立つのは、初めてのことかもしれない。
アリアはこれからの仕事に役立つような本を見つけて、それを読み始めた。
すっかりと夢中になっていたアリアは、文字が見えにくくなっていることに気が付いて、顔を上げた。周囲を見渡してみれば、すっかりと暗くなっている。
「もうこんな時間?」
慌てて本を閉じて、元に戻す。
もっと読みたいのが本音だが、ここには仕事をするために来ているのだから、勝手なことをするわけにはいかない。
また読む時間が取れるように祈りながら自分の部屋に戻ると、ケイトが待っていてくれた。
「ちょうど今、お呼びしようと思っておりました」
どうやら午後から往診に来た医師が、レナトの調子があまり良くなく、明日は一日休んでいた方が良いと言ったようだ。
「ですから、明日はレナト様の部屋を訪れなくても良いそうです。他の仕事もそれほどありませんので、今日のように図書室に行って、勉強してほしいとのことでした」
「わかりました。ありがとうございます」
ケイトは夕食の用意もしてくれた。アリアはそれをひとりで食べながら、つい考え込んでしまう。
いつかまた、読める機会があればと思っていたのに、明日もまた図書室で本が読める。
それだけならとても嬉しいことだが、アリアの心はあまり晴れなかった。
レナトの様子が気になる。
ほんの一時間程度、根を詰めて仕事をしただけで、次の日は寝室から出られないくらい、体が弱っているのだろうか。
気になったが、アリアにできることは何もない。
せめて次に彼と一緒に仕事をするときに、もっと役に立てるように、一生懸命勉強をするしかない。
そして翌日と、そのまた翌日。
アリアは朝から晩まで図書室に通い、勉強をした。
知識を身に付けると、さらに読める本が増えていく。
それを実感できて、とても楽しかった。
いつになく充実した時間を過ごしていたが、あれからもう二日が経過しているのに、まだレナトから連絡が来ないことが気になる。
ケイトにもそれとなく聞いてみたが、とくに夏は調子の悪い日が多く、寝込む日のほうが多いようだ。
たしかに、これから本格的に夏が始まる。
庭園で咲き乱れていた美しい薔薇も、少しずつ花びらを散らしていた。それを見る度に、アリアはなぜか胸が痛くなるほどの寂寥感を覚えていた。
あの夜の光景を、まだはっきりと覚えているのに、季節は巡り、花は散る。
それが、たまらなく寂しい。
三日後にようやく、レナトから連絡があり、アリアは急いで身支度を整えて、彼の部屋に向かった。
部屋の扉を叩くと、小さく答える声がした。
アリアは逸る気持ちを落ち着けて、できるだけ丁寧に扉を開く。
レナトは、いつものように大きな机の前にある椅子に座り、三日前にアリアが仕分けた書類を見ていた。
「丁寧に分類してくれて、わかりやすかった。ありがとう」
そう声を掛けられて、アリアは小さく首を横に振る。
ただここにあった書類を、分類して並べただけだ。
「……いえ。もっとできることがたくさんあれば、よかったのですが」
「君のことだから、この時間も無駄にはしていないだろう。この計算はできるか?」
書類を渡されて、目を通す。
「はい。昨日、勉強したばかりです」
「そうか。では頼む」
アリアは渡された仕事に取りかかりながらも、それだけに集中しないように気を付けた。
初日はただ、初めての仕事に熱中してしまい、レナトの様子に心を配ることができなかった。
本来、アリアはレナトの世話係として雇われている。だから仕事をしながらも、常に彼の様子に気を配らなくてはならなかったのだ。
(それがちゃんとできていれば、これほど長く寝込まなかったかもしれないのに)
そう反省したからこそ、レナトの様子を気に掛け、少しでも彼が疲れた様子を見せたら、休むように提案したり、メイドを呼んで、お茶の用意をしてもらったりする。
お茶や軽食などは自分で用意しようと思っていたが、ケイトに相談したところ、メイドを呼んだほうが良いという結論に達した。
アリアには、レナトの手伝いという仕事があり、メイドにも自分の仕事がある。
何もかも自分でやろうとするのは間違いだと、アリアはこの古城で学んだ。
そうして気を配ったお陰で、レナトは翌日も寝込むことはなかった。
ただ、寝込まなくとも三日続けて仕事をすることは医師に禁じられているらしく、彼の休養日には、アリアは朝から図書室に通った。
そんな生活が続いた。
気が付けば、もうこの古城に来てから二十日ほど経過している。
この日もレナトの部屋で彼の仕事を手伝っていたアリアは、雨の音が聞こえて窓の外に視線を向けた。
空が灰色になっていて、ぽつぽつと雨が降ってきている。
激しい雨にはならなそうだが、空の暗さを見る限り、そう簡単には晴れそうにない。
「薔薇の花……。散ってしまいましたね」
思わずぽつりとそう口にすると、レナトが顔を上げた。
「ああ、もうそんな季節か。もう少し経つと、今度は庭にひまわりが咲くだろう」
中庭には薔薇ばかり咲いていたけれど、その周辺にある庭には、季節の花がたくさん植えられているようだ。
「ひまわり、ですか」
母が好きな花で、アリアも色鮮やかなひまわりを見ると、心が明るくなるような気がしていた。
つい、アリアの声も弾む。
「あの花は好きか?」
「はい。気持ちが明るくなるので」
そう答えると、レナトは小さく笑った。
「そうか。咲いたら見に行くといい。きっと迫力があるだろう」
その答えに、何となく、レナトはあまりひまわりが好きではないような気がした。
たしかに、あの明るい花は夏の季節の象徴のようなもの。
そしてレナトは、夏が苦手だと聞いていた。
これからますます、彼の体調には気を遣わなくてはならないだろう。
そう決意したアリアだったが、レナトはそれに気が付いたらしく、あまり気負わなくても良いと言った。
「私に遺されている時間は、あまり多くないだろう。今のうちに、体が動くうちにやらなくてはならないことはたくさんある」
あっさりとそう語ったレナトに、アリアは衝撃を受ける。
どうしてそんなに淡々と、自分の余命を語れるのか。
ショックを受けた様子のアリアを見て、レナトは手にしていた書類を置いて、アリアの傍に移動した。
そっと、手を握られる。
「あっ……」
彼に触れたのは、あの夜以来のことだ。
相変わらず冷たい感触に、泣きそうになる。
そんなアリアに優しく微笑んで、レナトは話し始めた。
「私は幼い頃からあまり丈夫ではなくて、そう長くは生きられないと言われてきた。だから私も周囲の人間も、当たり前に受け止めてきたことだ」
両親も短命だったと、レナトは語る。
もともと体の弱い家系だったのか、もしくは血筋を守るために近親婚を繰り返してきた弊害か。
高位貴族、それが公爵家であれば、血筋を守っていくのは当然のこと。上位貴族とばかり婚姻を結んでいるうちに、そうなってしまったのだろう。
レナトの両親も近い血筋で、後継者を残すために早めに結婚し、そしてふたりとも若くして亡くなっている。
「もし私が後継者を残さずに死ねば、キャステニラ公爵家は、おそらく第二王子が継ぐことになる。君の雇い主は、それを避けたいようだ」
だからこそ、若い女性ばかり、レナトの元に送ってきた。
その意図がはっきりとわかっただけに、彼は不快だったようだ。
「君をこの古城に差し向けたのは、おそらく私の従兄だろう」
キャステニラ公爵家は、王家の血を引いている。そんな彼の従兄といえば、それは王家の人間である。
(王太子殿下が……)
まさか、そこまで高位の人間が関わっているとは思わず、アリアは青褪めた。
どうして彼が、キャステニラ公爵家の事情に深く介入しているのか。
その理由も、レナトは話してくれた。
地方で暮らしていたアリアはあまり詳しくないが、王太子である兄と、第二王子の仲があまり良くないらしい。
ふたりは、母親が違う。
それは、アリアも知っている。王太子の母は、他国の貴族。そして第二王子の母は、この国の有力貴族である。
王太子は、この国の貴族の指示を集めている第二王子を、国外に婿入りさせてしまいたい。
けれどこの国に残りたい第二王子は、キャステニラ公爵家を継ぐことができれば、それが叶うのではないかと思っているようだ。
「このキャステニラ公爵家は、なかなかの資産家で、領地からの収入もかなりの額になる。君の雇い主は、私が後継者を残して死んだ場合は、その後見人となり、キャステニラ公爵家の資産を手にしたいのだろう」
そして第二王子は、王家に影響を及ぼすほどの資産を持つキャステニラ公爵を継いで、自分を冷遇してきた兄を、その地位から引きずり下ろしたいと思っている。
どちらも、そう遠くない未来に、キャステニラ公爵家の当主であるレナトが亡くなってしまうことを仮定した考えである。
「身内でさえ、そんな状態だ。でも君は、私のことを気遣ってくれた。死ぬ運命であることを知って、悲しんでくれた。君の人生は、私以上に過酷なものだったのに、どうして人を思いやる心を、忘れずにいられる?」
「私は……」
アリアは、レナトの手をそっと握り返す。
たしかに他人から見ても、不幸な人生だったと思う。
どうして自分ばかりこんな目に遭うのかと、泣き出したくなった日もある。
「私はそれほど強い人間ではありません。だから、あの夜。あの言葉に、魅力を感じてしまったのです」
あの美しい薔薇の下で終わるのなら、それで良いと思ってしまったのだ。
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