第7話

「私も、今の生活に少し疲れていたのかもしれません」

 アリアは、正直にそう答えた。

「この美しい薔薇の下になら、埋められてもいい。そんなふうに思ってしまって」

 アリアは多くのものを背負っていた。

 父親の借金。病弱な母の看病。妹や弟の世話と、将来のこと。

 そして、元婚約者の裏切りによる心の傷。

 ひとりで抱えるには重すぎて、アリアは心のどこかで解放を望んでいたのかもしれない。

「家に戻りたいと思うか?」

 でもレナトにそう聞かれて、アリアは首を横に振った。

「父親の借金だけは、何としても返したいです。私は仕事には慣れていますので、何でもします。だから、ここで雇っていただけないでしょうか」

 雇い主の目的が、本当にレナトを籠絡することだったら、アリアが目的を果たせないと知れば、父親の借金の返済を求めるかもしれない。

 だから、それだけはきちんとしておきたかった。

「わかった。では毎朝、私の部屋に顔を出してくれ。手伝ってほしい仕事があれば、それを頼もう。ハードナーにも、そう話しておく」

「ありがとうございます」

 アリアは深々と頭を下げる。

 こんな理由で送り込まれてきたアリアを、不快に思って追い出しても良い筈なのに、レナトはきちんと仕事を与えてくれると言ってくれた。

 それが、とても有り難い。

「では、明日の朝、お伺いいたします」

「そうだね。今日はもう休んだほうがいい」

 そう促されて、アリアは自分の部屋に戻った。

 明日から、父の借金の返済のために働ける。そう思うと、少しだけ心も軽くなり、やゆっくりと眠ることができた。

 この夜。

 レナトと再会し、正直にすべてを打ち明けたことで、アリアの運命は大きく変わっていく。


 翌朝。

 いつも通り早朝に目覚めたアリアは、自分で身支度を整えた。

 今日からしっかりと働くつもりなので、クローゼットに並べられているドレスではなく、実家から持ってきた簡素なワンピースである。

 身支度が終わったところで、扉が叩かれた。

 ケイトが来てくれたようだ。

「はい」

 返事をすると、予想していたようにケイトが現れた。

 もう着替えを済ませていたアリアに驚いたような顔をしていたが、何も言わずににこやかに挨拶をしてくれた。

 ドレスに着替えろと言われるのではないかと思っていたので、ほっとする。

 綺麗なドレスは嫌いではないが、やはり不相応だ。

 それに、働きに来たことを忘れてしまいそうで、怖くもある。

 だから着慣れたこのワンビースが一番だった。

「まずはご朝食を。それから、一度執事が会いたいそうです」

「わかりました」

 これから毎朝、仕事をもらうためにレナトの部屋に行くことになった。彼はハードナーにも伝えておくと言ってくれたが、自分からもきちんと報告した方がいいだろう。

 そう思って、頷いた。

 昨日と同じように最高級の食材を作った朝食を食べ、終わった頃にケイトが来て、食器を片付けてくれた。

 本当はそれも自分でやりたいくらいだが、それでは彼女の仕事を奪ってしまうことになる。

 それからしばらくして、執事のハードナーが部屋を訪れた。

 挨拶を交わして、それから本題に入る。

「毎朝、レナト様のところに行くようにと、指示がありましたが……」

「はい。昨日の夜、眠れなくて庭園を散歩していたときに、レナト様とお会いしました」

 レナトに正直にすべて説明したように、ハードナーにもきちんと経緯を説明する。

「今までと同じような、玉の輿狙いの女性と思われるのも心外でしたので、ここに来た経緯を説明させていただきました。そして、父の借金の返済のために仕事をさせて欲しいとお願いしたところ、毎朝顔を出すようにと」

「……そうでしたか」

 ハードナーは静かにそう言うと、しばらく沈黙した。

 アリアは、彼はもしかしたら雇い主側の人間かもしれないと思う。

 父が、雇い主の代理として対面したのは、使用人らしき初老の男性だと言っていたのを思い出したのだ。

「事情はわかりました。では今日から、レナト様の指示に従ってください」

 もし何か必要なものやわからないことがあったら、何でも相談して欲しいと言われて、頷く。

「はい、わかりました」

 アリアがそう返答すると、ハードナーは頷き、部屋を出て行った。

 ここでも綺麗なドレスに着替えろと言われなかったことに、ひそかに安堵する。この姿ままレナトの部屋に向かっても、問題ないだろう。

 自分の部屋を出て、昨日案内された道順を思い出しながら、レナトの部屋を目指す。

 彼の部屋は、古城の一番奥にあるが、途中で階段を下りていくので、もしかしたら半地下に近い場所なのかもしれない。

 重厚な扉の前で立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をしてからも、扉を叩いた。

「アリアです」

「……入れ」

 返事かあったので部屋に入ると、昨日と同じように、大きな机のところにレナトがいた。その机の上には、たくさんの書類が並んでいる。

 レナトは顔も上げずに、アリアに指示を出した。

「早速だが、書類の整理を手伝ってほしい。領地の運営に関する書類だ。貴族学園は卒業していたか?」

「いいえ。学費が用意できないので、入学できませんでした。ですが、将来のために独学で学んでいました」

 仕事の合間に、または夜遅くなってから、アリアは婚約者と領地を継いだときのために、法律や経済などの勉強をしていた。

 もちろん独学なので、学園で学ぶよりもレベルは低いだろう。

 正直にそう答えると、レナトはようやく顔を上げて、アリアを見た。

「そうか。私も貴族学園には入っていないよ。独学でも学んだのなら、問題ない。あんなところは、ほとんど社交のための場所だ。この書類の整理を手伝ってほしい」

「……はい、わかりました」

 彼の場合は、健康上の理由で通えなかったのだろう。

 アリアの場合は、勉強したかったのに、経済的な都合で行くことはできなかった。

 それでも、貴族学園に行かなくても問題ない。あそこは社交のための場所だと言ってもらえたことで、アリアの心は少し軽くなっていた。

 実際に爵位を継ぐのは婚約者だったマージだが、彼が細かい書類仕事が苦手なこともあって、アリアは彼を助けることができるようにと、以前から積極的に勉強していた。

 潰れかけた子爵家と公爵家では規模はまったく違うが、それでも何とか仕事をこなすことができた。

 わからないところがあっても、レナトが丁寧に教えてくれる。

「この法律については、図書室に詳しい本があった。時間が空いたときに、読んでみるといい」

「良いのですか?」

「ああ。もっと理解してもらった方が、私も助かる」

 もう二度と出来ないと思っていた、勉強ができるかもしれない。

 そう思うと、アリアの心は浮き立つ。

 仕事は順調に進んでいたが、一時間も経過すると、レナトに疲れが見えるようになってきた。あまり無理をさせてはいけないと、アリアは仕事の切り上げを提案する。

「少し、お休みになられては如何でしょうか? 書類の分類だけ、終わらせておきます」

「そうだな。頼む。終わったら部屋に戻っていい」

「はい。承知いたしました」

 そう言うと、レナトは奥の部屋に向かった。どうやら向こうが寝室らしい。

 彼を見送ったあと、アリアは書類の分類を終わらせ、昼近くにレナトの部屋を出ることにした。

 声を掛けようかとも思ったが、眠っている可能性もある。だから何も言わずに、自分の部屋に戻った。

「おかえりなさいませ」

 部屋に戻ると、ケイトが迎えてくれた。

「少しお疲れのようですね。お茶をお煎れしますね」

「ありがとうございます」

 ひさしぶりに頭を使う仕事をして、疲れたのは事実だったので、アリアは有り難くその申し出を受け入れた。

 良い香りのするお茶で喉を潤し、ほっと一息つく。

「お仕事は如何でしたか?」

 珍しく部屋に残っていたケイトが、そう尋ねた。

「書類の整理のお手伝いをさせていただいたの。私は貴族学園に入学していないから心配だったけれど、わからないことは教えていただいて。図書室で、勉強をしても良いと言っていただいたわ」

「そうですか。大変でしたね。午後から、その図書室に行ってみてはどうでしょう」

 知識を身につければ、もっとレナトの役に立つのではないかと言われて、アリアも頷く。

「はい。そうさせていただければと」

「では、午後からは図書室に。その前に、昼食を用意いたしますね」

 ケイトに、レナトが途中で疲れた様子だったので寝室で休んでいることを伝えると、午後から医師が来る予定だと聞いて、安心する。

 最初に病身の公爵だと聞いていたように、レナトはあまり顔色も良くないし、疲れやすいようだ。

 彼を蝕んでいるのは、どんな病気なのだろう。完治することはあるのだろうか。

 ケイトが運んでくれた昼食は、今日もとても美味しかった。

 けれどアリアは、気が付けばレナトのことばかり考えていた。

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