第6話
夕食も、ケイトが部屋まで持ってきてくれた。
着替えを手伝うかどうか尋ねられ、ひとりで大丈夫だと答える。
ケイトも仕事だからむやみに手伝いを断ってはいけないと思うが、なるべくひとりでできることはやりたかった。
寝るときには、実家から持ってきた着古した服を着ようと思っていた。でもクローゼットには、ナイトドレスも何着か用意されていた。
もちろん、これらは借り物だと認識している。ここから立ち去るときは、すべて置いていくつもりだった。
アリアは少し迷ったけれど、せっかくだからとナイトドレスに着替えた。
朝はそんな余裕もなかったが、今までは着古した地味なドレスしか着られなかったので、上品で可愛らしいデザインに、少し心が浮き立つ。
しばらく部屋の中を無駄に歩き回り、ふわふわと揺れるスカートを楽しんだりした。
(どうしようかな……)
夕食が終わり、着替えもしてしまうと、もう何もすることがなかった。
いつもなら朝方近くまで縫い物の仕事をしていたから、時間を持て余してしまう。
こんなに何もしない時間は、幼い頃、まだ母が元気だった頃しかなかったのかもしれない。
何となく中庭を見たアリアは、少し迷ったあとにショールを羽織り、夜の庭園に足を踏み入れた。
あの美しい薔薇の花を、もう一度じっくりと眺めたかった。
ナイトドレスで外に出るなんてはしたないと思うが、ここは中庭であり、住んでいる人間もごく僅かだ。
少しだけ、昨日のようにレナトがいるのではないかと考えたが、人の気配はまったくなかった。
昨日の彼の目的が、アリアを脅して帰らせようとしていることなら、ここに残るときっぱりと宣言した以上、もうここには来ないのではないかと思う。
庭園は、薄暗かった。
昼はとても晴れていたのに、夜が近付くにつれて、また空が曇ってきた。だから、星はあまり見えない。
月も隠れてしまっているようだ。
でも古城から差し込む光が、アリアの歩く道を照らしてくれる。
(綺麗……)
今まで花を眺める余裕などまったくなかったが、美しい薔薇の花は、アリアの心を癒やしてくれた。
誰もいない夜の庭園を存分に歩き回り、薔薇の花を堪能する。
やがて少し歩き疲れたアリアは、ベンチに腰を下ろした。
そして、闇に閉ざされた空を見上げる。
小さな星の瞬きさえ見えない空の暗さに、まるで自分の将来のようだと、悲観的なことを考えた。
「……暗いな」
ふと、背後から声が聞こえてきて、アリアは振り向いた。
「あ……」
反対側の入り口から、ゆっくりと歩み寄る人影。
美しい銀色の髪が、古城から差し込む光を反射して煌めいていた。
「レナト様」
慌てて立ち上がり、ショールを肩に掛け直す。
もう今夜は来ないと思っていた。
だから、彼の出現に驚いてしまう。
(こんな格好で、どうしよう……)
今すぐに逃げ帰りたいが、仮にも主を目の前にして、さっさと退出する訳にはいかない。
レナトはそんなアリアの様子に気が付いて、皮肉そうに笑う。
「あれだけ脅しても逃げ帰らないと思ったが、君の目的はこちらの方か?」
「……目的、ですか?」
彼が何を言っているのかわからなくて、思わず聞き返してしまう。
「独身の当主のもとに、若い女性ばかり派遣される理由を考えたことはなかったのか?」
そう言われて、アリアははっとした。
もともと老齢の公爵だと思っていたので彼の言っているようなことは、まったく考えたことはなかった。
だが実際は、まだ若くて独身の公爵家当主である。それを知ったアリアが、また彼に会えるのではないかと考えて、ナイトドレス姿で夜の庭園に出ていた。
つまり、玉の輿狙いの女性だと思われても仕方のない状況だと気が付いた。
「……っ」
頬に熱が集まるのが、自分でもわかった。
それは羞恥のためでもあり、彼を誘惑するような女性に見られたという怒りからでもあった。
「私は、ただの使用人です。そんな大それたことは考えておりません」
きっぱりとそう言うと、信用していないのか、レナトは不審そうな顔をする。
「使用人? 子爵家の娘だと聞いたが」
どうやらレナトは、アリアがここに来た経緯をまったく知らないようだ。
「たしかに、爵位だけはまだあります。ですが、いつ手放してもおかしくない状態なのです」
だからアリアは、身の潔白を説明するために、すべてをレナトに話すことにした。
玉の輿狙いの女性のように思われるのは嫌だった。
父親の借金のことを話すのは恥ずかしいが、そんなふうに見られるくらいなら、事実を話したほうがいい。
「私がここに来たのは、父親に売られたからです」
「売られた?」
「はい。一応、貴族でしたが、父親の浪費癖がひどくて、食べ物にすら困るような暮らしでした。母は体が弱く、妹と弟はまだ幼くて。それでも幼い頃からの婚約者がいたので、彼が貴族学園を卒業したらすぐに結婚して、父には引退してもらうつもりでした。でも……」
婚約者は貴族学園で伯爵令嬢に見初められ、アリアとの婚約を解消したいと申し入れてきた。
そのことを話したとき、まだ少しだけ胸が痛むのを感じた。
マージのことなどもう忘れたと思っていたのに、裏切られた痛みだけは、簡単には消えないようだ。
「彼の兄が、そんな不誠実なことは許さないと叱咤してくれて。でも、父がすべてを台無しにしてしまいました」
父親は、婚約者の相手の家を脅して慰謝料を奪い取り、それをすべて賭け事に使ってしまった。
そうして婚約は正式に解消され、その借金のために、アリアはこの古城に売られてきたのだ。
「そうか」
レナトはアリアの話に静かに頷き、こう言った。
「君の借金の肩代わりをしてきたのは、誰だ?」
「……わかりません。会うことはできないと言われました」
「誰に?」
「ハードナーさんです。代わりに手紙を渡してくれるそうです」
彼が信じてくれるかわからないが、すべて正直に答える。
「君の雇い主に心当たりはある」
レナトはそう言うと、アリアの傍に座り込んだ。
どうやらアリアの雇い主は、レナトのよく知る人物らしい。
けれど苦い顔をしているところを見ると、あまり友好な間柄でもなさそうだ。
「事情はわかった」
レナトはそう言った。
どうやらアリアの話を信じてくれたようで、ほっとする。
「最近は、君の雇い主によって次から次へと、若い女性が送り込まれてきてね」
それには辟易していたのだと、レナトは語る。
「表向きは私の世話係だったが、何もできない貴族の令嬢ばかりだった。私が死ねば、キャステニラ公爵家は途絶えてしまう。だから、その前に後継者を残せればとでも思ったのだろう」
だから、使用人として雇われたはずのアリアに、専用の侍女とたくさんのドレスを与えてくれていたのかと、アリアは納得する。
「それを脅して逃げ帰らせていたのだが、その評判が広まって、最近は途絶えていた。だから安心していたのだが」
自分の意思に反して、若い女性ばかり送り込まれていたレナトは、その意図が察せられるだけに、あまり良い気がしなかったのだろう。
しかも、自分が死んだ場合に備えての話である。
アリアの雇い主によって送り込まれた令嬢たちは皆、公爵家に嫁げるかもしれないと、期待していたに違いない。
けれど所詮、大切に守られていた貴族令嬢だ。
この古城の不気味さと、魔性のようなレナトの美しさ。
そして彼の脅しに怯えて逃げ去り、それがどんなに恐ろしかったのかを、友人たちに話したのだろう。
いつしか古城の噂は貴族中に広まり、アリアの雇い主も、正当な方法では貴族令嬢を送り込めなくなった。
そこで、アリアのような訳あり令嬢に目を付けたのだ。
レナトの話に、アリアも自分の置かれた状況をよく理解することができた。
たしかに病身の当主の世話だけで、父親の膨大な借金が帳消しになるなんて、そんな上手い話があるはずがないと思っていた。
だから、公爵家に勤めることによって支払われる賃金で、少しずつ支払おうと思っていたのだが、アリアに期待されていたのは、レナトを籠絡することだったのだ。
きっと雇い主は、アリアのことを知らないのだろう。
もし知っていたら、こんな貴族令嬢には見えないほど痩せた、美しくもない娘を送り込むはずがない。
「私の話を信じてくださって、ありがとうございます」
事情を知ったアリアは、レナトにそう言った。
アリアがレナトの興味を惹くために、作り話をしたと言われても仕方のない状況である。
レナトはアリアの言葉を聞いて、少しだけ表情を緩ませた。
「君は、今までの令嬢たちとはまったく違う。私を恐れていなかった。むしろ、与えられる死を望んでいるかのように感じた」
「それは……」
アリアはどう答えたら良いのかわからずに、俯いた。
思い出すのは、初めてレナトに会ったときのこと。
たしかにアリアはあのとき、このまま薔薇の下に埋められても良いと思ってしまった。
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